電脳筆写『 心超臨界 』

心地よいサマーレインのよう
ユーモアは一瞬にして
大地と空気とあなたを洗い清めてくれる
( L・ヒューズ )

納口昭二氏が雨戸の試作品を見せて「これを製品化しないか」と言った――潮田健次郎

2024-09-30 | 05-真相・背景・経緯
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ある日、金具などで様々な発明を手掛け、川口技研という会社を興した納口昭二氏が私の工場を訪ねてきた。納口氏は雨戸の試作品を見せて「これを製品化しないか」と言う。私はひと目見て必ず成功すると確信した。1963年(昭和38年)に売り出した「スピード雨戸」の原型である。


◆納口昭二氏が雨戸の試作品を見せて「これを製品化しないか」と言った

マネされぬ製品、ついに――大ヒットで苦境から脱出
住生活グループ前会長・潮田健次郎 [14]
(「私の履歴書」08.03.14日経新聞(朝刊))

《 スピード雨戸 》

木製建具の製造時代は、当社ならではの特徴を出そうとしてあらゆる努力をした。例えば他社に先駆けて新しい素材を使った。北海道を強い台風が襲い、樹齢数百年に及ぶエゾマツの国有林が大量になぎ倒されたことがある。私は北海道に赴いて営林署と掛け合い、払い下げを受けて建具に使った。これをきっかけにエゾマツが建具に広く利用されるようになった。

木曾産のサワラを初めて建具に使ったのも当社である。従来は桶(おけ)の材料に使われる程度だったが、ピンク色のきれいな木肌をしており、価格も安かったので、当社が販売すると急速に普及していった。ラワン材も住宅用では当社が始めて建具に採用した。

設備面でも、大きな原木を利用できる製材機や大型の木材乾燥機を導入した。市場開拓の面でも、ドアを米国に輸出するなど従来の建具会社の枠を超える挑戦をしてきた。だが、どれも苦境を抜け出す決定打にはならなかった。

ある日、金具などで様々な発明を手掛け、川口技研という会社を興した納口昭二氏が私の工場を訪ねてきた。納口氏は雨戸の試作品を見せて「これを製品化しないか」と言う。私はひと目見て必ず成功すると確信した。1963年(昭和38年)に売り出した「スピード雨戸」の原型である。

これは木の枠にカラー鋼板を張ったもので、建設現場での作業を大幅に簡略化できた。従来の防火雨戸では、まず大工が建具屋から仕入れた雨戸の木枠を家の間口部に取り付ける。この際に、開口部のゆがみにあわせて木枠をカンナで削る「建て合わせ」という調整作業が必要だった。これが終わるとブリキ屋がいったん木枠を外し、表面に鋼板を張りつけてから、再び開口部に取り付ける。

スピード雨戸のミソは、鋼板を張った状態で「建て合わせ」ができるよう工夫した点にある。これにより、工場で枠に鋼板を張り付けて出荷できるようになった。手間やコストを減らせる大工や工務店は大喜びである。

もう一つ、大きな利点があった。工場で鋼板を張るので木が見えなくなり、材木の使用率が一気に上がったことだ。材木は中心部から黒ずんでいくため、裸の状態では中心部を製品に使えない。従来の製品でも最後は鋼板を張るのだが、木枠だけで出荷すると大工の美的感覚が許さず、受け付けてもらえなかった。それまで中心部は薪(まき)にするしかなく、悩みの種だった。

改良を重ねて大量生産したスピード雨戸は起死回生の大ヒットになった。納口氏から特許を買い取ったので他社はマネできない。苦節十年、初めて「差異化」が実現した。黒字経営に転じ、65年にはおよそ3千6百万円もあった累積赤字を一掃した。

納口さんはまさに救世主だった。米倉氏といい、納口氏といい、節目節目で大きな出会いに救われている。運に恵まれたからだが、運を呼び込むには我慢が必要になる。途中で事業を放り出していたら出会いもなかった。

ただ我慢を続けるといっても、人様には迷惑をかけないギリギリの線は意識していた。赤字が累積する間、工場の土地も値下がりしていた。倒産しても、土地を売れば借金を返して退職金を払えるかどうかを常に考えていた。最後の一線を死守できなかったら自ら裸になる覚悟だった。
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