20年に及ぶブログ活動の集大成 → ★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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禅の要諦は「教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)」です。真実のぎりぎりのところは、人に教えることも伝えることも、また文字で表現することもできないのです。しかし、それは文字が不必要だということではなく、禅の要諦(ようてい)には文字では表現できないものがあるということなのです。
◆大切なことは言葉では言えない
『人生をささえる言葉』
( 松原泰道、主婦の友社 (2001/05)、p34 )
08 黙(もく)――『維摩経(ゆいまきょう)』
大切なことは言葉では言えない
釈尊と同時代に、維摩居士(ゆいまこじ)(居士は在家の男性の修行者。女性は大姉(だいし))という方がおられました。あるとき、この維摩が病気になったとき、大勢の菩薩が見舞いにきました。すると維摩は、菩薩たちに、「入不二法門(にっぷにほうもん)」についてどう思いますか、と問いました。「入不二法門」とは、相対の観念を断ち切った唯一絶対の境地のことです。
菩薩たちは、めいめいの見解を述べますが、最後に文殊(もんじゅ)菩薩が、「わが意の如(ごと)くんば、一切法において、無言無説、無示無識、諸(もろもろ)の問答を離る。是(こ)れを入不二法門と為(な)す」と述べます。「私が思うには、一切の諸法は言句(ごんく)を超えたものであって、文字や言葉で表現することも、人に示すことも、それどころか知ることさえもできません。ましてや人と問答して得られるようなものではありません。これが入不二法門ということです」と。
そして、そう言ったあと、今度は維摩に向かって、「あなたは、入不二法門についてどのように考えるのですか?」と逆に問いかけました。まわりの菩薩は、みな維摩がどのように答えるのだろうと固唾(かたず)を飲んで見守っていました。しかし、その文殊の反問に対して、維摩居士は、ついにひと言も答えませんでした。これが、「維摩の一黙(いちもく)」といわれるものです。
なぜ維摩は黙っていたのでしょうか? 決して答えられなかったのではありません。文殊が言ったように、本当に大切なことは言葉では言い表せないものです。たしかに、文殊の言葉は非常に立派で堂々たるものでしたが、言葉で表現できないと言いながら、それを言葉で表現した矛盾があります。
禅の要諦は「教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)」です。真実のぎりぎりのところは、人に教えることも伝えることも、また文字で表現することもできないのです。しかし、それは文字が不必要だということではなく、禅の要諦(ようてい)には文字では表現できないものがあるということなのです。
不立文字、といいながら、禅宗に一番書物が多いというのも、考えてみれば皮肉なことです。鈴木大拙さんは、「不立文字をわからせるには、たくさんの文字が必要だ」と言っていますが、その意味は、禅の奥義は、結局文字や言葉では理解することができない、ということをわからせるために、たくさんの文字や言葉を必要とするということなのです。
維摩の沈黙は、いわば声なき声、言葉なき言葉です。ただの沈黙、サイレントではありません。「維摩の一黙、雷のごとし」と言われるように、どんな雄弁よりも雄弁に真実を語っているのです。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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禅の要諦は「教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)」です。真実のぎりぎりのところは、人に教えることも伝えることも、また文字で表現することもできないのです。しかし、それは文字が不必要だということではなく、禅の要諦(ようてい)には文字では表現できないものがあるということなのです。
◆大切なことは言葉では言えない
『人生をささえる言葉』
( 松原泰道、主婦の友社 (2001/05)、p34 )
08 黙(もく)――『維摩経(ゆいまきょう)』
大切なことは言葉では言えない
釈尊と同時代に、維摩居士(ゆいまこじ)(居士は在家の男性の修行者。女性は大姉(だいし))という方がおられました。あるとき、この維摩が病気になったとき、大勢の菩薩が見舞いにきました。すると維摩は、菩薩たちに、「入不二法門(にっぷにほうもん)」についてどう思いますか、と問いました。「入不二法門」とは、相対の観念を断ち切った唯一絶対の境地のことです。
菩薩たちは、めいめいの見解を述べますが、最後に文殊(もんじゅ)菩薩が、「わが意の如(ごと)くんば、一切法において、無言無説、無示無識、諸(もろもろ)の問答を離る。是(こ)れを入不二法門と為(な)す」と述べます。「私が思うには、一切の諸法は言句(ごんく)を超えたものであって、文字や言葉で表現することも、人に示すことも、それどころか知ることさえもできません。ましてや人と問答して得られるようなものではありません。これが入不二法門ということです」と。
そして、そう言ったあと、今度は維摩に向かって、「あなたは、入不二法門についてどのように考えるのですか?」と逆に問いかけました。まわりの菩薩は、みな維摩がどのように答えるのだろうと固唾(かたず)を飲んで見守っていました。しかし、その文殊の反問に対して、維摩居士は、ついにひと言も答えませんでした。これが、「維摩の一黙(いちもく)」といわれるものです。
なぜ維摩は黙っていたのでしょうか? 決して答えられなかったのではありません。文殊が言ったように、本当に大切なことは言葉では言い表せないものです。たしかに、文殊の言葉は非常に立派で堂々たるものでしたが、言葉で表現できないと言いながら、それを言葉で表現した矛盾があります。
禅の要諦は「教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)」です。真実のぎりぎりのところは、人に教えることも伝えることも、また文字で表現することもできないのです。しかし、それは文字が不必要だということではなく、禅の要諦(ようてい)には文字では表現できないものがあるということなのです。
不立文字、といいながら、禅宗に一番書物が多いというのも、考えてみれば皮肉なことです。鈴木大拙さんは、「不立文字をわからせるには、たくさんの文字が必要だ」と言っていますが、その意味は、禅の奥義は、結局文字や言葉では理解することができない、ということをわからせるために、たくさんの文字や言葉を必要とするということなのです。
維摩の沈黙は、いわば声なき声、言葉なき言葉です。ただの沈黙、サイレントではありません。「維摩の一黙、雷のごとし」と言われるように、どんな雄弁よりも雄弁に真実を語っているのです。