電脳筆写『 心超臨界 』

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だが、リスクを取らなければ勝利することもない
( リチャード・ニクソン )

読む年表 古代~中世 《 神功皇后の三韓征伐――渡部昇一 》

2024-07-12 | 04-歴史・文化・社会
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広開土王(374~412)は好太王(こうたいおう)とも呼ばれる高句麗の第十九代の王で、南は百済、北は契丹(きったん)、西は後燕(こうえん)に侵攻して領土拡大につとめた。広開土王碑は息子の長寿王(ちょうじゅおう)がその功績を称えて414年に建てたものと言われる。そこに刻まれた上の碑文からして、神功皇后の三韓征伐が、『日本書紀』の記述どおりでなかったにせよ、当時の日本が朝鮮半島で軍事力を発揮していたことは間違いのない事実であるとしか言いようがない。


◆神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐(さんかんせいばつ)

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p20 )

200頃(日本書紀)(4世紀後半)
神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐(さんかんせいばつ)
強大な中央政権があったことを広開土王碑(こうかいどおうひ)は物語っている

「神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)」も、戦後は史家からさまざまな異論が出て、あまり語られなくなった。『日本書紀』によれば、これは西暦200年ごろ、仲哀(ちゅうあい)天皇(第十四代)が急死したので、その后(きさき)である神功皇后がかわって朝鮮を征服したという話だが、韓国側の史料でも、369年から390年にかけて、日本はかなり大規模な遠征を行ったことになっている。

北朝鮮との国境に近い旧満洲(現在の中国吉林(きつりん)省・鴨緑江(おうりょくこう)中流北岸)に残っている高句麗の広開土王(こうかいどおう)の碑には、倭(わ)の軍隊が平壌近くまで攻め込み、「百済・新羅を破って臣下にしてしまった」と、次のように書いてある。

百残新羅旧是属民/由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百済□□新羅以為臣民
九年己亥百残違誓与倭和/通王巡下平壌而新羅遣使白王云倭人満其国境潰破城池以奴客為民帰(□は欠字。『国民大辞典』吉川弘文館より)

百残(くだら)新羅(しらぎ)は旧是(もとこ)れ属民(ぞくみん)なり。由来朝貢(ちょうこう)す。而(しか)るに倭(わ)、辛卯(かのとう)の年を以(もっ)て来(きた)り、海を渡り、百残□□新羅を破り、以て臣民(しんみん)となす。
九年己亥(つちのとい)、百残誓(ちか)いに違(たが)い倭と和通す。王巡(めぐ)りて平壌(へいじょう)に下る。而(しか)るに新羅使(つかい)を遣(つか)わして王に白(もう)していわく、倭人(わじん)国境に満ち、城池(じょうち)を潰破(かいは)し、奴客を以て民となして帰る。

広開土王(374~412)は好太王(こうたいおう)とも呼ばれる高句麗の第十九代の王で、南は百済、北は契丹(きったん)、西は後燕(こうえん)に侵攻して領土拡大につとめた。広開土王碑は息子の長寿王(ちょうじゅおう)がその功績を称えて414年に建てたものと言われる。

そこに刻まれた上の碑文からして、神功皇后の三韓征伐が、『日本書紀』の記述どおりでなかったにせよ、当時の日本が朝鮮半島で軍事力を発揮していたことは間違いのない事実であるとしか言いようがない。

当時の日本にはすでに強大な中央政権があったこともわかる。広開土王碑は東アジア最大の碑であり、何しろ当時の実物が残っているのだから疑う余地はないのだが、いまも韓国はこれを認めず、「百済・新羅を支配下においた(以て臣民と為す)」という碑文の主語は高句麗であると主張している。在日朝鮮人の学者などは、「日本陸軍が広開土王碑を改竄(かいざん)・捏造(ねつぞう)した」という説まで唱えた。

しかし、改竄・捏造説は現代シナ人の研究によって否定され、「主語は高句麗である」という韓国の主張も碑文全体から見ると無理があり、『日本書紀』ばかりでなく、シナの正史や、そもそも朝鮮初の史書である『三国史記(さんごくしき)』の記述とも矛盾することが指摘されている。

古代朝鮮半島史・日朝関係史を知るうえで非常に貴重な、一次史料といえる広開土王碑が朝鮮半島になかったことは本当に幸いであった。もし半島にあったらコリア人の手によって破壊されていたであろう。皮肉なことに、シナ民族が守ってくれているわけだ。

この「三韓征伐」のとき、神功皇后は応神(おうじん)天皇を身ごもっていて、腹帯を締めて出征したと『日本書紀』には書いてある。朝鮮から凱旋(がいせん)すると、待ちかまえていたように応神天皇が生まれた。その産み給うた場所をウミ(宇瀰・宇美)と名づけたという。その応神天皇の子、つまり神功皇后の孫が仁徳(にんとく)天皇である。

前方後円墳の仁徳天皇陵は、少なくとも底面積の広さからいえば世界最大の墓である。

このことは、4世紀には日本に強大な統一国家ができていたことを示すものである。だからこそ朝鮮半島に出兵して、広開土王碑に記録されるほどの大きな戦闘が行われたのである。天孫民族はすでに地方の一部族ではなかった。海外に大遠征軍を送るほどの力があったという証拠になるであろう。
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