電脳筆写『 心超臨界 』

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だが、リスクを取らなければ勝利することもない
( リチャード・ニクソン )

庄内藩が藩を挙げて惚れ込んだ――西郷隆盛

2024-08-08 | 04-歴史・文化・社会
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西郷隆盛は庄内藩に対して、たいへん共感を覚えたようなのだ。つまり「もし自分が庄内藩士であったら、やはり同じように、最後の最後まで主君・徳川家のために戦っていたはずだ」という気分が、西郷にはあったらしい。だから、彼は庄内藩を罪人のように扱わなかった。


◆庄内藩が藩を挙げて惚れ込んだ――西郷隆盛

「渡部昇一の昭和史」
( 渡部昇一、WAC BUNKO、p55 )

西郷隆盛という人物が、どれだけ当時の日本人から尊敬されていたか、そのことはいくら説明しても説明できるものではない。私の郷里である庄内(しょうない)藩などは、藩を挙げて「西郷教」の信者になってしまったほどであった。

そもそも庄内藩の藩主・酒井氏は、徳川家康の四天王と言われた酒井忠次(ただつぐ)の子孫で、つまりは「三河(みかわ)以来の譜代(ふだい)」である。それで幕末においては、会津(あいづ)藩(こちらは親藩)が京都守護職を任命され、新撰組を作ったように、庄内藩も江戸市中の警備を任ぜられ、江戸の薩摩屋敷を焼いたりもしている。

このような事情があったから、庄内藩は官軍から見れば、完全な“朝敵(ちょうてき)”である。だから、戊辰(ぼしん)戦争で官軍が東北地方に進撃してきたときには、会津藩同様、徹底抗戦しか道は残されていなかった。藩主をはじめ、死を覚悟で戦うということで衆議一決したという。

官軍に対して庄内藩はずいぶん健闘した。一時は官軍を押し戻し、それどころか、隣藩にまで攻め込んで戦うという奮戦ぶりで、官軍に負けていなかった。

だが、ひとり庄内藩が戦ったところで、勝負の流れは変わるべくもない。すでに周囲の諸藩も官軍に降伏してしまった。このまま戦いつづけても、先は見えている。領民まで巻き添えにするわけにもいかない。結局、降伏ということに決まった。明治元年9月のことである。

庄内藩は当然、厳罰を覚悟した。ところが、官軍の代表者として城を接収に来た官軍の参謀・黒田清隆(きよたか)の態度は、勝者でありながらまことに謙虚であった。あまりにも黒田が庄内藩に対して丁重(ていちょう)であったので、官軍の中には「これでは、どちらが勝ったのか分からん」という不平さえ出たという。

この黒田の態度は、西郷が与えた指示によるものであった。西郷隆盛は庄内藩に対して、たいへん共感を覚えたようなのだ。つまり「もし自分が庄内藩士であったら、やはり同じように、最後の最後まで主君・徳川家のために戦っていたはずだ」という気分が、西郷にはあったらしい。だから、彼は庄内藩を罪人のように扱わなかった。

この西郷の気持ちを知ったとき、庄内藩は藩を挙げて西郷に惚(ほ)れ込んでしまった。

西郷の言行録として有名な本に『西郷南州遺訓(なんしゅういくん)』というものがあるのを、ご存じの方もおられるだろう。西郷隆盛の思想を知るための唯一のまとまった史料といってもいい。じつは、この書物は、庄内藩が西郷を愛するがあまり出来たような本である。

戊辰戦争いらい、庄内藩では前途有望な若者を、西郷の元に書生として置いてもらっていた。その中には、藩主の跡継ぎもあった。こうして毎日、西郷に接していた人たちが、彼の言葉を1冊にまとめたのがこの本であった。殿様の跡取りまでを書生にして遠く離れた薩摩に送り、しかも、彼の語った一言一句も残さず記録しておこうというのだから、いかに庄内の人々が西郷を慕(した)っていたかがわかるであろう。


【投稿メモ】
私の祖父は山形県酒田市の出身。もちろん西郷教の信者であったこ
とは疑いありませんでした。
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