電脳筆写『 心超臨界 』

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( エマーソン )

人生を創る言葉 《 汝、草木と同じく朽ちんと欲するか――頼山陽 》

2024-09-03 | 03-自己・信念・努力
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  汝、草木と同じく朽ちんと欲するか


『現代語訳 論語』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p141 )

[ 頼山陽 ]
勤皇倒幕の導火線となった『日本外史』の著者。『日本外史』は2
3歳で起稿し、49歳で完成を見たという大作。
(1780年~1832)

頼山陽は、12歳のときに五経の一つである易経を読み終えたほどの、極めつきの天才である。易経を読み終えたとき、山陽はこう決心した。

「私も学問をするからには、平凡な学者では終わりたくはない。昔の聖人賢人にしろ英雄豪傑にしろ、みんな私と同じ人間であったのだ。私も、もう12歳だし、学問を始めてから6年にもなる。発奮して努力勉強しなければ、平々凡々で終わってしまう。ぐずぐずしてはおれない。大いに勉強して一世を導くような人物となり、国恩に答え、父母の名を顕し、忠孝の道をなしとげなければならない。そうだ、私は今、初めて文章を作ろうとしているのだ。これを書こう。この自分の決心を書こう」

そうして書き上げたのが『立志論』である。

「男児学ばざれば則ち已(や)む。学ばば当(まさ)に群を超ゆべし。安(いず)くんぞ発奮して志を立て、以て国恩に答え、以て父母を顕(あらわ)さざるべけんや」

頼山陽は天才であったには違いないが、同時に非常な勉強家でもあった。彼は勉強するときに、次の文句を紙に書いて書籍の間にはさんでいた。

「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」

この「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」には、私も触発された思い出がある。隣町に住んでいた中学の一級上の知人が「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか。どうだ、これはいい言葉じゃないか」といっていたのに刺激されて、私もこれを紙に書いて机の前に貼っていたのである。この言葉を初めて聞いたときに、私はぞっとした気持ちになった。このまま行ったら、田舎町で一生を終えるのかもしれない。こんな田舎で、周囲の大人たちと同じようになってしまうのか、と。

周囲の人たちはたいてい善良な人たちばかりではあったけれど、そうした人たちの行き方に自分の人生を重ねると、やはりぞっとする気持ちがあったのである。それは当時の中学生だったからかもしれないが、「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」という言葉は後々までも忘れられない言葉になった。

事実、頼山陽はこの気持ちが強かったために、当時としては許されないことであったが、脱藩を試みた。頼山陽の父親は儒者として広島藩に仕え、非常に重きをなしていた。また伯父も藩儒(はんじゅ)になっている。その跡を継げば、自分も藩儒として結構な身分をもらえるのである。ところが、どうしても気持ちが抑えきれない。自分にはやりたいことがある。彼は漢文も素晴らしくできるけれど、日本史を学びたかった。それで脱藩して、京都に向かったのである。

そのときは見つかって連れ戻されて、頭の病気になったことにして取り繕い、閉居となった。その閉じこめられている間に、山陽は『日本外史』を起稿したのである。そして、結局再び京都に出て、塾を開いて門弟を教えながら『日本外史』や『日本政記』を書き、それが明治維新の一つの原動力となっていくのである。

頼山陽は常にこういっていたという。

「自分を才子(才能がある男)だというのは、自分を知る者ではない。自分を刻苦勉励ののちに一人前の男になったのだという者がいるならば、その人こそ真に私を知っている者である」

学問で身を立てる人でも、あるいはスポーツ選手でもそうだと思うが、いくら才能があってもそれだけではダメで、人並み外れた努力をすることによって才能が大きく開いていくものだ。スポーツ選手の場合は、優れた人であればあるほど「記録を残さないままに止めてしまうのか」と自分に問いかけながらトレーニングを積んでいるに違いない。それは「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」という気持ちである。

「雁(かり)は腐って蛆(うじ)となっても、なお北に向かう」というような言い方もあるが、志を立てるとは、ただこうしようと思うことではない。しようと思うと同時に、実行することが重要なのである。頼山陽がずば抜けた人になったのは、12歳のころのこの決心があったからに他ならない。

「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」は志を励ます、良き言葉であると思う。
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