電脳筆写『 心超臨界 』

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( 中国のことわざ )

教えない歴史2 《 「成功」への嫉妬もあった鈴木商店焼き打ち 》

2024-03-04 | 04-歴史・文化・社会
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金子は日本の重工業の恩人でありました。当時、世界的な鉄不足のため、アメリカやイギリスが鉄の輸出を禁止したため、日本の重工業は大ピンチに直面していました。政府レベルの交渉もうまくいきません。金子は解禁同盟会を結成し、その会長としてアメリカ大使と交渉し、輸入鉄材の3分の2にあたるトン数の船を提供する契約を成立させました。金子が「イマホンテンヤキウチサル」の電文を受け取ったのはこの交渉のため東京へ行く途中でした。


〈 事件の真相 〉
◆「成功」への嫉妬もあった鈴木商店焼き打ち――勝本淳弘さん

『教科書が教えない歴史2』
( 藤岡信勝、産経新聞ニュースサービス (1996/12/1)、p35 )

1918年(大正7年)、高騰を続けていた米価が、さらに大きくはね上がりました。原因として考えられるのは、商人による買い占めや外来移入の減少、生産者の売り惜しみなどですが、困窮した民族の怒りは米商店、精米業者、商社、資産家などに集中し、これらを襲撃し、略奪したり焼き打ちしたりということが全国で続発しました。

米騒動の背景には、第1次大戦中の好景気をバネに、にわかに金持ちとなった人々(成金とよばれていました)への嫉妬や反感がありました。こうした感情を反映して、高額紙幣に火をともして料亭を出る成金の風刺絵を掲載し、当時の企業家を傲慢なイメージで描いている教科書もあります。

これが物事の一面しかとらえていないことを、この年の8月12日に焼き打ちにあった鈴木商店を例にとりあげてみました。

鈴木商店は、明治初期には少数の住み込み店員がいた程度の小さな店でした。しかし、番頭の金子直吉が類い希な商才を発揮するに及んで急速に発展しました。金子はまず、台湾の初代民生長官の後藤新平に協力して、台湾の樟脳(しょうのう)の専売事業の65%の販売権を得ます。さらに後藤を通じて台湾銀行からの融資を受け、製糖所を開いて成功させ、神戸製鋼所を設立するなど、次々と新しい事業を展開していきました。

また、世界各地に情報網をはりめぐらせ、第1次大戦が始まるや「鉄と名のつくものは何でも買え。いくらでも買え」と指示しました。案の定、鉄や船の価格が暴騰し、巨大な利益を得て日本最大の商社になりました。

鈴木商店が焼き打ちにあったのはこうした時期に当たっています。標的となったのは、米を輸出しているということからでしたが、それは前年の7月にはやめていました。金子は米価高騰の原因は供給不足にあるとみて、逆に朝鮮産の米の移入に切り替えていました。

これが一般に理解されていない上、朝日新聞が、鈴木商店は「石(約150キロ)あたり1円の手数料を取っている」と報じ、怒りをあおりました。実際はその3分の1程度にすぎませんでした。

金子は日本の重工業の恩人でありました。当時、世界的な鉄不足のため、アメリカやイギリスが鉄の輸出を禁止したため、日本の重工業は大ピンチに直面していました。政府レベルの交渉もうまくいきません。金子は解禁同盟会を結成し、その会長としてアメリカ大使と交渉し、輸入鉄材の3分の2にあたるトン数の船を提供する契約を成立させました。金子が「イマホンテンヤキウチサル」の電文を受け取ったのはこの交渉のため東京へ行く途中でした。

この時期の金子は、住まいは借家で、居室には飾りもなく、1枚の世界地図が貼ってあるだけでした。食事も簡単なものを急いでとり、正月から大みそかまで、日曜もなく早朝から深夜まで働きつづけました。

米騒動は民衆の怒りの爆発でしたが、それはまた、国民の経済生活に大きな貢献をした企業や企業家を目のかたきにしてしまうという皮肉な一面もあったのです。

国民の経済生活の基礎には、勤勉な労働者たちの労苦、技術者たちの創造とともに、自分の才能と汗のすべてを注ぎ込んで企業の発展に尽くした経営者たちの役割があったことを見逃してはならないでしょう。
[ 勝本淳弘 ]
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