電脳筆写『 心超臨界 』

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ドクター・スース

教えない歴史2 《 シーメンス事件 薩摩閥と長州閥の争いが背景に 》

2024-03-04 | 04-歴史・文化・社会
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このように、戦前の政党政治は、政策で反対党と戦い、総選挙で国民の審判を仰ぐという本来の姿でなく、敵の失敗や弱みに付け込んだりすることを常とする、未熟なものだったことがわかります。この事件のあとまもなく大正デモクラシーが大きく開花します。その後の政党政治も、本来の姿からはかけ離れたものとなってしまい、軍部の政治介入を許す結果となるのです。


〈 事件の真相 〉
◆シーメンス事件 薩摩閥と長州閥の争いが背景に――赤野達哉さん

『教科書が教えない歴史2』
( 藤岡信勝、産経新聞ニュースサービス (1996/12/1)、p32 )

1913年(大正2年)2月に起きた長州出身の陸軍大将・桂太郎内閣に対する憲政擁護(ようご)運動の結果、桂内閣は総辞職し、薩摩出身の海軍大将・山本権兵衛が首相に選ばれました。この改変で活躍した立憲政友会は、ちゃっかりと山本内閣の与党となり、外務、陸海軍以外の閣僚ポストを独占しました。

山本内閣は政友会の協力で、軍部大臣現役武官制を廃止し、また文官採用令を改正するなど、現代風に言えば、着実に「民主化」の実を実らせていきました。

ところが、山本内閣は思わぬアクシデントに見舞われました。それは「シーメンス事件」です。

1914年(大正3年)1月23日付の各新聞は、「ドイツの有名な電気機器メーカー・シーメンス社が、海軍高官に多額のわいろを贈っていたという証拠がドイツで暴露された」と報道しました。これを政府攻撃の好機と見た野党・立憲同志会の議員、島田三郎が、衆議院予算委員会で痛烈に政府を批判しました。立憲同志会は、桂が首相時代に与党として準備・組織した政党でした。

折しも政府はこの国会で、海軍拡張案と、その財源としての増税を提出していたので、新聞は連日、海軍の腐敗ぶりを報道し、世論は沸騰しました。内閣弾劾(だんがい)決議案は反対多数で否決されましたが、その直後にヴィッカース社からも日本の商社を通じて、別の海軍高官がわいろを受け取っていたことがわかり、それら2人の高官が逮捕されるなど、事件は、一大汚職事件の様相を見せはじめました。

もちろん、山本首相自身は、この汚職事件には何の関係もなかったのですが、現役の海軍大将で、また薩摩閥ということも手伝って、批判の矢面に立たされ、国会で「首相の顔は犯罪者のようだ」とまで言われるありさまでした。

結局、海軍関係費を貴族院、衆議院の両院で削減され、予算不成立に追い込まれた山本内閣は3月に総辞職し、第2次大隈重信内閣と交代しました。八代六郎新海相は綱紀粛正(こうきしゅくせい)の声にこたえて、直ちに山本前首相、斎藤実前海相の2人の大将を予備役に編入、つまり現役の軍人から隠退させました。

日本におけるシーメンス社の「社史」には、「西欧から来日した他の実業家たちと同様に、シーメンス社の幹部も日本の習慣に合わせて、盆暮に親友や取引先に贈答品を贈っていました」とあります。

しかし、その金額が常識を超えたものであったこと、また、清廉(せいれん)潔白を求められる軍の高官が絡んでいたということで、ついには海軍出身の山本の責任問題というふうに、事件は発展していったのです。

また、牽制擁護運動で長州閥(陸軍)の桂を制したにもかかわらず、薩摩閥(海軍)の山本が政友会をバックに活躍したことを面白く思わない人が多かったことが事件を大きくした理由のひとつではあります。

このように、戦前の政党政治は、政策で反対党と戦い、総選挙で国民の審判を仰ぐという本来の姿でなく、敵の失敗や弱みに付け込んだりすることを常とする、未熟なものだったことがわかります。

この事件のあとまもなく大正デモクラシーが大きく開花します。その後の政党政治も、本来の姿からはかけ離れたものとなってしまい、軍部の政治介入を許す結果となるのです。
[ 赤野達哉 ]
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