電脳筆写『 心超臨界 』

幸せは外部の条件によって左右されるものではない
自分の心の持ちようによって決まるのである
( デール・カーネギー )

般若心経 《 「智もなく亦得もなし」――松原泰道 》

2024-08-06 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


原始仏教団では、四諦や八正道を修行して、その最高段階に達した聖者を「阿羅漢(あらかん)(羅漢と約す)」と呼んでたたえます。羅漢は、知識が深く人徳も具わっています。煩悩も断ち、さとりを得て、多くの人から拝まれ敬われているのに、心経はむざんにも「智もなくまた得もなし」と否定するのです。やはり、この一句も、前文の「空の中には」にかかって「空の中には、智もなくまた得もなし」です「無」が、超える意味で、常識的な否定でないことは説明を要しないでしょう。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p228 )
7章 無明(むみょう)――人間の苦悩はどこから生じるか
(2) 四諦(したい)・八正道の智慧
無苦集滅道 無智亦無得
むくしゅうめつどう むちやくむとく

◆「智もなく亦得もなし」

原始仏教団では、四諦や八正道を修行して、その最高段階に達した聖者を「阿羅漢(あらかん)(羅漢と約す)」と呼んでたたえます。阿羅漢は〈拝まれるべき人・世間の尊敬を受けるに価(あたい)する人〉の意味です。羅漢の別の敬称を〝無学(むがく)の人″といいます。無学といっても、現代の私たちの通念とはまったく逆で〝学び尽くして、もうこれ以上、学習すべきものが無い″という意味ですから、尊敬に価する人です。その反対の人たちが〝有学(うがく)″で、有学は〝まだ学ばなければならないことがたくさん有る″とうい未熟者のことです。

羅漢は、知識が深く人徳も具わっています。煩悩も断ち、さとりを得て、多くの人から拝まれ敬われているのに、心経はむざんにも「智もなくまた得もなし」と否定するのです。やはり、この一句も、前文の「空の中には」にかかって「空の中には、智もなくまた得もなし」です「無」が、超える意味で、常識的な否定でないことは説明を要しないでしょう。

思うに、修行や修学にあっては、「これが最高位」という標準などあるべきはずがありません。修めれば修めるほど、学べば学ぶほど深くなって、極まるところのないのが、すべての道の世界です。心経はその上限をはずすのです。空の中に限界などないことは明らかです。しかし限界がないからこそ止(とど)まってはいけないので、どこまでも昇り、どこまでも進んでいくのです。

「得もなし」の得は〈さとり〉のことです。さとりに限りはないのです。さとったうえにも、またさとりを求めていくのが「得もなし」です。このように羅漢の知識やさとりを、心経は大乗仏教観のうえから爆撃するのです。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生きるための杖ことば 《 独... | トップ | セレンディビティの予感 《 ... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事