電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスではなく
一方が降伏するからである
ダニエル・パイプス

読む年表 明治~戦後 《 第一次教科書問題――渡部昇一 》

2024-07-10 | 04-歴史・文化・社会
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何を血迷(ちまよ)ったか当時の宮澤喜一(みやざわきいち)官房長官が、「近隣(きんりん)の諸国民の感情に配慮した教科書にする」という主旨の発言をし、まったく悪質な「近隣諸国条項」なるものが教科書検定に設(もう)けられる。これは百パーセント日本国内の問題である日本の教科書について、韓国や中国の検閲(けんえつ)権を認めたようなものだ。日本政府の腰抜け謝罪外交が始まったのは、この「第一次教科書問題(きょうかしょもんだい)」が生じたあとである。


◆第一次教科書問題(きょうかしょもんだい)

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p274 )

1982(昭和57)年
《 第一次教科書問題(きょうかしょもんだい) 》
日本の歴史教科書の検閲(けんえつ)権と天皇陛下を中国に売り渡した国賊(こくぞく)的行為

昭和56年、自民党の教科書制度改革案に危機感を抱いた左翼の人々は、「日本が再び軍国主義の道を歩む」などと政治問題化させ、その上、ばかげたことに韓国や中国にご注進(ちゅうしん)した。さらに翌57年6月26日、日本の大新聞がいっせいに驚くべきことを報じた。日本の教科書検定で、中国華北(かほく)への「侵略」が「進出」に書き換えられたというのだ。これに対して、中国・韓国は日本政府に抗議を申し入れた。ところが、これは誤報であった。

にもかかわらず、何を血迷(ちまよ)ったか当時の宮澤喜一(みやざわきいち)官房長官が、「近隣(きんりん)の諸国民の感情に配慮した教科書にする」という主旨の発言をし、まったく悪質な「近隣諸国条項」なるものが教科書検定に設(もう)けられる。これは百パーセント日本国内の問題である日本の教科書について、韓国や中国の検閲(けんえつ)権を認めたようなものだ。日本政府の腰抜け謝罪外交が始まったのは、この「第一次教科書問題(きょうかしょもんだい)」が生じたあとである。

宮澤喜一は首相に就任後、さらに国賊(こくぞく)的行為をした。1989年(平成元年)に起きた天安門(てんあんもん)事件で、中国は世界中のマスコミが見ている前で民主化を求める一般市民を大量に殺害し、国際的に孤立した。そこで中国は、日本の天皇を招いて自分たちの存在を世界にアピールし、外交上の挽回(ばんかい)をはかろうとした。そして、その中国の要請(ようせい)にしたがって、日本政府は天皇陛下に訪中していただくことを決めてしまったのである(平成4年=1992訪中)。中国の思惑(おもわく)どおり、世界中から締め出されかけていた中国は国際社会に堂々と戻ることができた。

諸外国の首相は天皇陛下に会うと皆、緊張する。昭和49年(1974)に訪日したフォード大統領も晩餐会(ばんさんかい)の席で震えるほど緊張したと言われている。平成21年(2009)にはオバマ米大統領が深々と頭を下げて最敬礼した。それくらい天皇に畏敬(いけい)の念を抱いているのだ。だからこそ、中国は天皇を政治利用した。日本の歴史教科書の検閲権を北京とソウルに売り渡した宮澤首相は、その天皇陛下まで中国に売り渡したのである。

東アジアにおいては、周辺の国がシナを訪ねることは朝貢(ちょうこう)と見なされる。シナの都に日本の天皇が行けば、それは日本がシナの家来になったと見なされる。天皇陛下の訪中で中国は感激し、今後、歴史問題には言及(げんきゅう)しないなどと言ったらしいが、家来になった国との約束を守るはずがない。以後、江沢民(こうたくみん)や温家宝(おんかほう)は、日本に対して非常に傲慢な態度をとるようになった。

聖徳太子(しょうとくたいし)以来、日本の天皇はシナの皇帝と対等の立場をくずしたことはなかった。その積み上げてきた歴史を宮澤首相と加藤紘一(かとうこういち)官房長官らはいっさい葬(ほうむ)り去ってしまったのだ。

今上(きんじょう)天皇にはぜひ長生きして頂き、中国共産党政権の崩壊(ほうかい)をご覧になられれば、せめてものお慰めになるのではないかと思う。
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