電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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自分を語る言葉そのものがいけないわけではない。ただ、使い方次第では有害になり得るのである。レッテルを貼るという行為自体が、成長を妨げる一つの要素なのかもしれない。ずっと変わらずにいることを正当化する手段として、レッテルを利用するのは簡単である。キルケゴールはこう書いている。もしもあなたが私にレッテルを貼るなら、それは、私の存在を否定することになる。
◆自分はどんな“トレードマーク”で規定されているか
『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p123 )
過去の人生を頼りに自分と言う人間を語り、過去の世界をさまよう
のは幽霊だけである。生きている自分は、今現在の存在であって、
過去の存在ではない。
4章 「きのうの自分」を超える
1 自分はどんな“トレードマーク”で規定されているか
自分はいったい誰なのか。自分自身を何と呼べばよいのか。この二つの質問に答えるためには、たぶん自分の経歴、つまり今までに送ってきた過去の生活を振り返らなければならないだろう。人間は過去に確実に縛られていて、そこから抜け出すのはむずかしいものだ。
自分自身を語るのはどんな言葉だろうか。今まで集めてきた気のきいた小さなレッテルだろうか。それとも自分を定義する言葉がぎっしり詰まった引き出しがあって、そういう言葉を一定の基準に合わせて使い分けるのだろうか。
私は神経質である、私は内気である、私はなまけ者である、私は音痴である、私は無器用である、私は忘れっぽいといったレッテルがある一方、たぶん、肯定的な「私は……である」もたくさんあるだろう。たとえば、私は誠実である、私はブリッジがうまい、私は感じがいい、といった具合に。
自分を語る言葉そのものがいけないわけではない。ただ、使い方次第では有害になり得るのである。レッテルを貼るという行為自体が、成長を妨げる一つの要素なのかもしれない。ずっと変わらずにいることを正当化する手段として、レッテルを利用するのは簡単である。キルケゴールはこう書いている。
もしもあなたが私にレッテルを貼るなら、それは、私の存在を否定することになる。
レッテルに合わせて生きなければならなくなったとき、その人自身は存在しなくなるのだ。自分で自分にレッテルを貼る場合についても同じことが言える。これからの可能性よりも、自分のトレードマークのほうに気をとられていると、自分自身を否定することになりかねない。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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自分を語る言葉そのものがいけないわけではない。ただ、使い方次第では有害になり得るのである。レッテルを貼るという行為自体が、成長を妨げる一つの要素なのかもしれない。ずっと変わらずにいることを正当化する手段として、レッテルを利用するのは簡単である。キルケゴールはこう書いている。もしもあなたが私にレッテルを貼るなら、それは、私の存在を否定することになる。
◆自分はどんな“トレードマーク”で規定されているか
『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p123 )
過去の人生を頼りに自分と言う人間を語り、過去の世界をさまよう
のは幽霊だけである。生きている自分は、今現在の存在であって、
過去の存在ではない。
4章 「きのうの自分」を超える
1 自分はどんな“トレードマーク”で規定されているか
自分はいったい誰なのか。自分自身を何と呼べばよいのか。この二つの質問に答えるためには、たぶん自分の経歴、つまり今までに送ってきた過去の生活を振り返らなければならないだろう。人間は過去に確実に縛られていて、そこから抜け出すのはむずかしいものだ。
自分自身を語るのはどんな言葉だろうか。今まで集めてきた気のきいた小さなレッテルだろうか。それとも自分を定義する言葉がぎっしり詰まった引き出しがあって、そういう言葉を一定の基準に合わせて使い分けるのだろうか。
私は神経質である、私は内気である、私はなまけ者である、私は音痴である、私は無器用である、私は忘れっぽいといったレッテルがある一方、たぶん、肯定的な「私は……である」もたくさんあるだろう。たとえば、私は誠実である、私はブリッジがうまい、私は感じがいい、といった具合に。
自分を語る言葉そのものがいけないわけではない。ただ、使い方次第では有害になり得るのである。レッテルを貼るという行為自体が、成長を妨げる一つの要素なのかもしれない。ずっと変わらずにいることを正当化する手段として、レッテルを利用するのは簡単である。キルケゴールはこう書いている。
もしもあなたが私にレッテルを貼るなら、それは、私の存在を否定することになる。
レッテルに合わせて生きなければならなくなったとき、その人自身は存在しなくなるのだ。自分で自分にレッテルを貼る場合についても同じことが言える。これからの可能性よりも、自分のトレードマークのほうに気をとられていると、自分自身を否定することになりかねない。