電脳筆写『 心超臨界 』

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一方が降伏するからである
D・パイプス

日本史 鎌倉編 《 足利義満のオカルト的センス――渡部昇一 》

2024-08-18 | 04-歴史・文化・社会
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日本という国は、単に武力だけでは征服できないところがある。天皇という有史以前からの国家元首は単なる政治勢力だけではなく、宗教的、あるいはオカルト的な要素を持っているのだ。政治の中心にオカルト的なものがあるから、日本史にはオカルト的干渉が生ずるのである。義満はこれを理解したらしい。そして尊氏も義詮もできなかった南朝勢力の吸収に、見事に成功したのである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p168 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(1) 政治的手段としての「カミ」と「ホトケ」

◆足利義満のオカルト的センス

思い起こせば、後醍醐天皇が最初に北条氏に対して兵を挙げられたときに、真っ先に味方になったのは奈良の名刹(めいさつ)であった。そしてその後も、南朝支持者が多かったところである。ここにも義満は武力を用いなかった。参拝という儀礼と、寄付という実利によって大和の人心を収攬(しゅうらん)したのである。これも成功であった。

ついで義満が目を着けたのは比叡山である。比叡山も初めから、後醍醐天皇を支持し、その後も南朝側に従(つ)いて足利幕府に敵対したので、北朝にとっては文字どおり目の上のたんこぶであった。義満はこれに対しても武力を用いることをせず、伊勢や大和と同じ方式を用いた。

すなわち、大和巡拝を行なったと同じ年の秋に、義満は公卿や武将をことごとく率いて、威儀堂々と比叡山の日吉(ひえ)神社と延暦寺を参拝した。莫大な寄付をやったことは今までと同じである。特に延暦寺に対しては、大講堂をはじめ、多くの建物を寄付し、それが落成したときは再び出かけて行って、盛大な儀式を行なっているのである。比叡山は挙げて義満を歓迎し、その関係は、それまでと打って変わって親密になったのである。

この成功に気をよくした義満は、応永3年(1396)10月、紀州の高野山に参詣し、次の月には同じく紀州の粉河寺(こかわでら)に参詣している。いずれも南朝に味方した寺であるが、義満が威儀を正して自ら参詣に来たことと、莫大な寄付を受けたことによって、すっかり義満に心服してしまった。

さらに注目すべきことは、義満は単に参詣したり、寄付したりしただけでなく、奈良の東大寺においても、また比叡山の延暦寺においても戒(かい)をうけているのである。宗派が違う二つの寺から受戒(じゅかい)(仏道入門に当たって、戒律を受ける)するというのはおかしなものであるが、義満が欲しかったものは平和だったのである。

かくして、南朝の精神的・物質的基盤であった伊勢も、南都(なんと)(興福寺・東大寺などの七大寺)も、北嶺(ほくれい)(比叡山延暦寺)も、すべて義満と友好関係に入った。足利幕府は、これで当分安泰になったのである。

日本という国は、単に武力だけでは征服できないところがある。天皇という有史以前からの国家元首は単なる政治勢力だけではなく、宗教的、あるいはオカルト的な要素を持っているのだ。政治の中心にオカルト的なものがあるから、日本史にはオカルト的干渉が生ずるのである。義満はこれを理解したらしい。そして尊氏も義詮もできなかった南朝勢力の吸収に、見事に成功したのである。

本書の中で、私はもし将来、共産党が日本の政権に近づくならば、ある時点において日本のオカルト的伝統と妥協することになるだろうと言った。天皇を廃止するとか、伊勢神宮を敵視するとか言っていたのでは日本の中央政府は成り立たないのである。いつでも南朝みたいなものが出来、それにはいろんな勢力が加わって、日本中は治まりがつかなくなるからである。伊勢神宮を否定するような首相が出てきたら、彼を暗殺しても良心の呵責(かしゃく)を感じないという日本人は、いくらでも飛び出してきそうな具合なのだ。

これに反して、もし共産党が、国民の象徴的先祖に敬意を払うと言って、伊勢神宮に参拝し、党員に式年遷宮(伊勢神宮において20年ごとに新殿を造り、神体を遷(うつ)す祭)の手伝いなど命じたら、ほとんど無敵の政府が出来るであろう。義満のやったことを今日(こんにち)風に解釈すれば、だいたいそういうことなのである。
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