電脳筆写『 心超臨界 』

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( アナトール・フランセ )

日本史 鎌倉編 《 義政に見る「偉大なる祖父」義満の影響——渡部昇一 》

2024-06-30 | 04-歴史・文化・社会
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宝徳(ほうとく)3年(1451)に義政が天龍寺(てんりゅうじ)の僧允澎(いんぼう)と芳貞(ほうてい)をそれぞれ正使・副使として明に派遣したとき、その国書に「日本国王臣源義政」と署名し、年号には明の年号によって景泰(けいたい)1年と書いた。彼は刀や槍や硫黄などを進物(しんもつ)として明の皇帝に贈り、その代わりに向うからも、どっさり進物をもらうという進物貿易をやろうとしたのである。この点においても、父の義教や伯父の義持が屈辱的と考えた書式を使っても平気であった。つまり父に倣わず祖父義満に倣ったのである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p244 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(4) “美”のクリエイター・足利義政(よしまさ)の天才

◆義政(よしまさ)に見る「偉大なる祖父」義満の影響

義教将軍は、赤松満祐(あかまつみつすけ)の邸(やしき)に招待されたとき、この主人役の満祐に謀殺された。この間の事情は何やら本能寺で殺された信長と殺した光秀との関係を思わせるものがあるが、ここでは立ち入らない。義教が殺されたあとは、息子の義勝(よしかつ)が将軍になったが、10歳で死ぬ。

そのあとに将軍になったのは2歳年下の弟の義政であった。

この義政が将軍になると、父の義教や伯父の義持には倣(なら)わず、祖父の義満の生活を憧憬(しょうけい)するのである。

ここでも、父の死後にたちまち父の道を改めるという足利氏のパタンが出ている。あるいは趣味の隔世遺伝とも言うべきか。武断的であった父の非業(ひごう)の死を知っている義政にすれば、武はうとましいものであり、文に憧れるようになったとしても、それは当然かもしれない。

義満の生活は金閣寺で象徴されるように、まず土木であった。この祖父を憧憬した義政も同じことをやるのである。

義政の父の義教は、諸大名のうちで将軍の命令をきかぬ者は、すべて亡ぼしたのであるから、幕府の権威は国中に及び、将軍に反抗するものはなくなっていた。義教は赤松満祐によって暗殺されたものの、赤松は完全討伐された。

こうしたときに義政が将軍になったのであるから、諸大名は従順であり、大きな戦争らしいものもなく、しばらくの間は平和であった。このため将軍のみならず公家や武家も、華美な生活や、風流な生活を行なうようになった。またこうした生活は、都のみならず田舎(いなか)まで及んだのである。

この意味では、義政の治世の前半である長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)のころ(1457ごろから1466ごろまで)の10年間は、足利時代の全盛期と言ってよいであろう。

義政は長禄2年の暮れに義満の室町第(花の御所)の復旧工事をはじめさせた。工事監督は山名持豊(やまなもちとよ)と畠山義忠(はたけやまよしただ)である。

庭園趣味の発達していた義政は、木や石で気に入ったものがあれば、公卿や大名からでも、おかまいなしに徴発した。畠山義就(よしなり)が献上した木が枯れたと言って、譴責(けんせき)したということなども伝えられている。

このようにして、長禄3年に義政はこの室町新第(しんてい)に移ったのであるが、その引越しの金に困り、五山(ござん)の僧侶から借りた。金はなくとも家と庭に凝っているのだ。引越ししてからも泉水(せんすい)をはじめ、庭の造営に夢中になっている。

国家の権力の中枢にありながら、借金して家や庭に金をかけるセンスであるから、庶民の生活などということについてはあまり関心がない。ちょうど、長禄3年から寛正初年にかけては諸国に飢饉が起こり、寛正2年の2月になるとこれに悪疫(あくえき)流行が加わって死体が賀茂川を埋めるという事態にもなったが、義政はいっこうに気にかけず、新邸の造営に余念がないという有様であった。

それで後花園天皇は漢詩を作り、これを義政に与えて反省をうながされたのである。

残民争採背陽薇  残民争イ採(ト)ル背陽ノ薇(ゼンマイ)
処々閉炉鎖竹扉  処々炉(ロ)ヲ閉ザシ竹扉(チクヒ)を鎖(トザ)ス
詩興吟酸春二月  詩興、吟ハ酸(サン)タリ春二月
満城紅緑為誰肥  満城ノ紅緑(コウリョク)、誰(タ)ガ為ニカ肥(コ)ユル

このため、義政も工事を中止したという。しかしこの中止は一時の話だけであってその後も工事は続き、すっかり完成したのは寛正5年のことであった。

義政の土木好きは自分のためばかりでなく、自分の生母の日野重子(しげこ)のためにも高倉第(たかくらてい)の造営をはじめるのである。彼が最も大きな関心を向けたのは泉水を中心とする庭であって、設計から工事の進行まで自分自身で指図したりした。したがってこのころ、義政はしばしば母を訪ねている。

思い切って贅沢をしたらしく、その一例として障子(しょうじ)一枚二万貫を要したということが記録されている。この障子には、その当時の名人と言われた小栗宗湛(おぐりそうたん)に「瀟湘(しょうしょう)八景図」を画(か)かせた。そして宗湛には月給を与え、幕府の命令以外には勝手に絵を画くことを禁止している。

義政の趣味は実際の庭園に向けられたのみならず、彼は盆景(ぼんけい)(盆の上に、石や砂で風景を創ったもの)をも好んだ。このため五山をはじめ大きな寺では、競って意匠を凝らして盆景を創って義政に献上した。そのうちの出来のよいものは手許に置いて愛玩したという。

また挿花(そうか)(生(い)け花(ばな))も義政は大好きで、五山やそのほかの寺においても大流行した。

このように造園、盆景、挿花など、日本人の自然に対する趣味の原型となったようなものはこの将軍のもとで広まったのである。

そして将軍のやることは大名の間にも流行し、大名のやることは富豪の間にも流行し、それはしだいに民間一般にも、また都のみならず田舎にもひろまるのである。義政自身、大名の屋敷の庭を見にしばしば訪問している。

これに加えて義政の自然愛には伝統的な桜の花見や秋の紅葉見物が加わる。

特に有名なのは寛正6年(1465)3月4日の華頂山(かちょうさん)の花見である。義政は夫人をはじめ二条持通(もちみち)以下の公卿や武家を従えて出かけたが、衣服調度はすべて華美を極め、たとえば黄金を以て箸を作ったという。このときのことを当時の日記は、「花覧(ハナミ)ニ出御。華麗目ヲ奪(ウバ)ウ。天下観ヲ改ム。ミナ一代ノ奇事ナリトイウ」とある。

そして、この花見のときに義政は花の下で連歌(れんが)会を開き、自ら発句(ほっく)を作ったが、それは「咲き満ちて 花より花に 色もなし」というのであった。これは、藤原時代の最盛期にあった道長(みちなが)が、「この世をば わが世とぞ思う 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば」という和歌を作ったのと好一対(いっつい)をなしている。この花見の二日後にも義政は大原野(おおはらの)に花見に出かけ、終日遊興を尽くしているのだ。

さらに義政の遊びは自然に関係したものばかりでなく、人工のものにも及んでいた。

それは祖父義満以来の猿楽(さるがく)、すなわち勧進能(かんじんのう)に対する嗜好である。記録の上で特に有名なのは寛正5年(1464)4月の糺河原(ただすがわら)の勧進能である。これは設備広大を極めたものらしい。義政は夫人および公卿・将士を連れて見物したが、この興行は実に五日間に及んだのである。

このときの観世太夫(かんぜだゆう)は世阿弥(ぜあみ)の甥の音阿弥(おんなみ)であったが、彼には二万匹の褒賞が義政から与えられた。一緒に見物していた大名たちも争って褒美を与えたので、能役者の収入は莫大なものであったと考えられる。

ちょうどそのころ、細川勝元(ほそかわかつもと)が管領(かんれい)職(将軍の補佐役)を辞めたいと言っていたが、義政は、この勧進能の済むまでは待て、と言って止めている。義政はどうもこの能の興行を一世一代の大儀礼のように思っていたのではないかと苦笑せざるをえないのだが、当時の人々も、この能を一大盛事と考えて、義政の徳として称えているのである。

義政が祖父義満に従ったもう一つ重大な点は、明(みん)との外交である。

宝徳(ほうとく)3年(1451)に義政が天龍寺(てんりゅうじ)の僧允澎(いんぼう)と芳貞(ほうてい)をそれぞれ正使・副使として明に派遣したとき、その国書に「日本国王臣源義政」と署名し、年号には明の年号によって景泰(けいたい)1年と書いた。彼は刀や槍や硫黄などを進物(しんもつ)として明の皇帝に贈り、その代わりに向うからも、どっさり進物をもらうという進物貿易をやろうとしたのである。

この点においても、父の義教や伯父の義持が屈辱的と考えた書式を使っても平気であった。つまり父に倣わず祖父義満に倣ったのである。
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