電脳筆写『 心超臨界 』

敵を知り、己を知れば百戦殆うからず
( 孫子 )

生きるための杖ことば 《 鏡対像而無私——松原泰道 》

2024-06-27 | 03-自己・信念・努力
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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現代人にとって、鏡は毎日の生活に欠かせぬ生活の必需品だ。鏡のおかげで自分の顔の汚れや、ネクタイのゆがみに気がつく。鏡は誰にも同じに映して見せる。おもえば、私たちは「鏡を見る」というが、実は「自分を見る」ことに外ならぬ。自分を修正し、自分を完成する営みが「鏡を見る」ことではないのか。すると「鏡を見る」というものの、実は鏡から「見られている」のが実体というべきであろう。


◆鏡対像而無私(鏡(かがみ)は像(ぞう)に対(たい)して私無(わたくし)なし)
                    ――従容録(しょうようろく)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p186 )

鏡は、自分の前のすべての像(すがた)をありのままにすなおに公平に映し出す。そこにいささかの私心もない、と。

『従容録(しょうようろく)』第三十六則に見える語で「珠在盤而自転(珠(たま)は盤(ばん)に在って自(おの)ずから転ず)」と対句になる。後の句は、教えや心が自在に働く状態をたとえる。出典の第三十六則では、この対句は中国8世紀の禅者馬祖道一(ばそどういつ)和尚の深いさとりの眼と、その心境の賛辞として使われている。

現代人にとって、鏡は毎日の生活に欠かせぬ生活の必需品だ。鏡のおかげで自分の顔の汚れや、ネクタイのゆがみに気がつく。鏡は誰にも同じに映して見せる。おもえば、私たちは「鏡を見る」というが、実は「自分を見る」ことに外ならぬ。

自分を修正し、自分を完成する営みが「鏡を見る」ことではないのか。すると「鏡を見る」というものの、実は鏡から「見られている」のが実体というべきであろう。

鏡のはたらきで、自分の外観は整えられるが、鏡に映らぬわがこころを調えるには、ほとけを拝みまつる以外にすべはない。至心に礼拝するなら、ほとけは誰ものこころを私なく、ありのままに拝んで下される。そして教えを「珠が盤の上を自然に転るように」自在に示される。

ほとけを拝むとは、鏡と同じように実はほとけから人間が拝まれているのだ。人間、誰もの心中に埋みこめられている“ほとけのいのち”が、ほとけから拝まれ、その開発をほとけから念じられているのに気づかしめられて、はじめてほとけが拝めたことになる。私の古いノートに次の短歌一首が書きとめられている。作者は不明だが、いい歌だと思う。

  うつしみる鏡に親のなつかしき わが影ながら形見とおもえば

鏡に映るのはわが面影だが、その底に親の面影と親の願いが感じられる。――と。
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