電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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具体的にいうと、「舎利子とは、別人ではない、私のことである」と、二人称・三人称でなく一人称で“私・自分”と受けとめるのです。私から申せば、「舎利子とは、余人でない、松原泰道である」のです。したがって、「観自在菩薩が、私一人に説法されているのだ」と、読者のめいめいが、自分に引きあてて受けとめることです。
『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p174 )
5章 色即是空 空即是色――いかに虚無感を乗り超えるか
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
(1) 無情感から無常観へ
舎利子 色不異空 空不異色
しゃりし しきふいくう くうふいしき
◆舎利子への呼びかけは、「私」への呼びかけ
たびたび申しますように、大乗仏教の経典では、思想内容がドラマ的に語られているので、釈尊の著名な弟子の人柄が、史実に沿って述べられているとは限りません。たとえば『維摩経(ゆいまぎょう)』に登場する舎利子は、原始仏教の狭い思想の持主という配役なので、気の毒にも、大乗仏教の思想の象徴である主役の維摩居士(ゆいまこじ)に、こてんこてんにやっつけられるのです。
心経の場合、舎利子の役柄は、いわば懐疑論者の“知識人”です。その彼が、大乗仏教の智慧の象徴の観自在菩薩から、空(くう)の話を聞くという構想です。『維摩経』では、舎利子と維摩との対話がありますが、心経では対話はなく、舎利子はただ一方的に聞き役をつとめるというドラマ構成です。いずれにしても、原始仏教の、エゴに堕しやすい虚無的な思想を、大乗仏教の思想に昇華しようとする企図が感じられます。
しかし仏教の経典を知識としてでなく、私たちの自分の生活のうえに求めようとするからには、さらに別の学びの立場が必要です。それは、たといドラマ的構成であっても、文学作品として読むのではなく、自分自身を読むというお経の読み方です。これを“読経眼(どきょうがん)”といいます。
具体的にいうと、「舎利子とは、別人ではない、私のことである」と、二人称・三人称でなく一人称で“私・自分”と受けとめるのです。私から申せば、「舎利子とは、余人でない、松原泰道である」のです。したがって、「観自在菩薩が、私一人に説法されているのだ」と、読者のめいめいが、自分に引きあてて受けとめることです。
親鸞聖人が「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)(無限の時間の思惟)の願(がん)を、よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄(たんにしょう)』十章)といわれたように、“心経の観自在の説法は、私だけにされるのだ”と、お互いに“私一人(いちにん)のためなりけり”の認識が、“読経眼”であり、お経を理解するこころです。
よって、観自在菩薩が「舎利子よ」と呼びかけられるのですから、私たちは各自に“はい”と答えましょう。つづいて菩薩が「色は空に異ならず」と説かれるのを、一般論ではなく読経眼で「私の身体は、空に異ならないのだ」と合点しましょう。こうした経典の受けとめ方があって、はじめて知識としてでなく、生活のうえに求めることができるのです。
先にも紹介した、肺がんのために46歳で亡くなった鈴木章子さんが、亡くなる2ヵ月前に、深い宗教心情を込めて、「代名詞」と題したすばらしい詩を遺しておられます。
「舎利弗(しゃりほつ)(舎利子)」も
「韋提希(いだいけ)(観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に登
場するビンビサーラ王妃)」も
みんな「章子(あやこ)」の
代名詞と気づかされました
五劫(永遠の時間)の彼方から
お呼び続け下さいました
「章子の代名詞」
「章子一人(いちにん)が為なり」でございました
(鈴木章子著『癌告知のあとで』探求社刊)
鈴木章子さんは、経典の中の仏の名や弟子の名を、自分の“代名詞”と受け取られます。私の申します“第一人称”です。経典の仏や弟子は、自分を離れた客観や、二人称や三人称の他人ではないのです。みな“自分自身”に外(ほか)ならないのだと読んだり、見たりできる読経眼が、澄むうえにも澄まされるから、鈴木章子さんはがんの病苦をすなおに自身の背に負って、病苦に任せきったのです。それによって、心に大きな安らぎを得られたのではないでしょうか。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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具体的にいうと、「舎利子とは、別人ではない、私のことである」と、二人称・三人称でなく一人称で“私・自分”と受けとめるのです。私から申せば、「舎利子とは、余人でない、松原泰道である」のです。したがって、「観自在菩薩が、私一人に説法されているのだ」と、読者のめいめいが、自分に引きあてて受けとめることです。
『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p174 )
5章 色即是空 空即是色――いかに虚無感を乗り超えるか
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
(1) 無情感から無常観へ
舎利子 色不異空 空不異色
しゃりし しきふいくう くうふいしき
◆舎利子への呼びかけは、「私」への呼びかけ
たびたび申しますように、大乗仏教の経典では、思想内容がドラマ的に語られているので、釈尊の著名な弟子の人柄が、史実に沿って述べられているとは限りません。たとえば『維摩経(ゆいまぎょう)』に登場する舎利子は、原始仏教の狭い思想の持主という配役なので、気の毒にも、大乗仏教の思想の象徴である主役の維摩居士(ゆいまこじ)に、こてんこてんにやっつけられるのです。
心経の場合、舎利子の役柄は、いわば懐疑論者の“知識人”です。その彼が、大乗仏教の智慧の象徴の観自在菩薩から、空(くう)の話を聞くという構想です。『維摩経』では、舎利子と維摩との対話がありますが、心経では対話はなく、舎利子はただ一方的に聞き役をつとめるというドラマ構成です。いずれにしても、原始仏教の、エゴに堕しやすい虚無的な思想を、大乗仏教の思想に昇華しようとする企図が感じられます。
しかし仏教の経典を知識としてでなく、私たちの自分の生活のうえに求めようとするからには、さらに別の学びの立場が必要です。それは、たといドラマ的構成であっても、文学作品として読むのではなく、自分自身を読むというお経の読み方です。これを“読経眼(どきょうがん)”といいます。
具体的にいうと、「舎利子とは、別人ではない、私のことである」と、二人称・三人称でなく一人称で“私・自分”と受けとめるのです。私から申せば、「舎利子とは、余人でない、松原泰道である」のです。したがって、「観自在菩薩が、私一人に説法されているのだ」と、読者のめいめいが、自分に引きあてて受けとめることです。
親鸞聖人が「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)(無限の時間の思惟)の願(がん)を、よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄(たんにしょう)』十章)といわれたように、“心経の観自在の説法は、私だけにされるのだ”と、お互いに“私一人(いちにん)のためなりけり”の認識が、“読経眼”であり、お経を理解するこころです。
よって、観自在菩薩が「舎利子よ」と呼びかけられるのですから、私たちは各自に“はい”と答えましょう。つづいて菩薩が「色は空に異ならず」と説かれるのを、一般論ではなく読経眼で「私の身体は、空に異ならないのだ」と合点しましょう。こうした経典の受けとめ方があって、はじめて知識としてでなく、生活のうえに求めることができるのです。
先にも紹介した、肺がんのために46歳で亡くなった鈴木章子さんが、亡くなる2ヵ月前に、深い宗教心情を込めて、「代名詞」と題したすばらしい詩を遺しておられます。
「舎利弗(しゃりほつ)(舎利子)」も
「韋提希(いだいけ)(観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に登
場するビンビサーラ王妃)」も
みんな「章子(あやこ)」の
代名詞と気づかされました
五劫(永遠の時間)の彼方から
お呼び続け下さいました
「章子の代名詞」
「章子一人(いちにん)が為なり」でございました
(鈴木章子著『癌告知のあとで』探求社刊)
鈴木章子さんは、経典の中の仏の名や弟子の名を、自分の“代名詞”と受け取られます。私の申します“第一人称”です。経典の仏や弟子は、自分を離れた客観や、二人称や三人称の他人ではないのです。みな“自分自身”に外(ほか)ならないのだと読んだり、見たりできる読経眼が、澄むうえにも澄まされるから、鈴木章子さんはがんの病苦をすなおに自身の背に負って、病苦に任せきったのです。それによって、心に大きな安らぎを得られたのではないでしょうか。