電脳筆写『 心超臨界 』

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D・パイプス

日本史 古代編 《 「三国一」の東大寺――渡部昇一 》

2024-08-18 | 04-歴史・文化・社会
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まずその規模を語ろう。南北は8町で東西は春日山を取り込んでさらに長く、ここに、いわゆる七堂伽藍(しちどうがらん)が並んだのである。もちろん一度にではないが、あとからあとから建って、天平時代に建てそろったのである。その中心の金堂、つまり大仏殿は1336坪であり、文句なく世界最大の木造建築である(もっとも今の大仏殿は元禄・宝永にかけて再建されたもので、天平時代の6割5分の897坪になっているが、世界最大の木造建築物であることに変わりはない)。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p182

◆「三国一」の東大寺

では、東大寺とはいかなる建造物なのであるか。

それはこれ一つで天平時代の建築全部と言ってもよいし、日本の仏教建築を一つで背負って立つようなものと言ってもよい。しかしもっと重要なことは、これは聖武天皇の最初のご意志のとおりの、「三国一の大伽藍(だいがらん)」であったのである。三国とは、当時の概念ではシナとインドと日本のことであるが、あの唐にもこれ以上壮大な建築はなく、印度(インド)にもこれ以上の規模の寺院はなかった。

もっとも魏の胡(こ)太后は高さ1000尺の塔を造ったとか、インドの健駄羅(けんだら)(ガンダーラ)国の迦膩色迦(かにしきか)(カニシュカ)王は高さ700余尺の塔を造ったとか、出雲大社は高さ320尺あったとか、法勝寺(ほうしょうじ)の八角九重塔は高さ84丈あったとか、いろいろ言われているものがあるけれど、実証できない。実例を以って示すことができるものでは、日本の東大寺ほどの建築は、唐にも天竺にもなかったのである。その「美しさ」ということになると、主観の問題が入るから何とも言えないが、ほかの国のものに勝るとも劣らなかったことは確かである。

今の日本人は団地や木賃アパートの狭いところに住み、また一軒持っている人でも猫の額(ひたい)みたいなところに住んでいるので、1200年前に、日本がそんな大きな建物を造ったことを信じにくく思うであろう。というのは、今ではアメリカやヨーロッパの住宅と自分の住宅を比べたり、目白のカテドラル(聖マリア大聖堂)とバチカンのサン・ピエトロを比べたりしてしまうからである。

しかし、こういうことを考えてみたらどうだろう。私が子どものころにはソ連の海軍などは誰も脅威とも何とも感じていなかった。その当時は日本の海軍力はソ連と比較に絶して巨大であったからである。少し離れた時代のことを想像することは、なんと困難なものであろうか。いわんや天平と今日の隔(へだ)たりにおいてをやである。

まずその規模を語ろう。南北は8町で東西は春日山を取り込んでさらに長く、ここに、いわゆる七堂伽藍(しちどうがらん)が並んだのである。もちろん一度にではないが、あとからあとから建って、天平時代に建てそろったのである。その中心の金堂、つまり大仏殿は1336坪であり、文句なく世界最大の木造建築である(もっとも今の大仏殿は元禄・宝永にかけて再建されたもので、天平時代の6割5分の897坪になっているが、世界最大の木造建築物であることに変わりはない)。

またその中に安置されている廬舎那仏(るしゃなぶつ)が、いわゆる「奈良の大仏」であるが、それに用いた熟銅(じゅくどう)は約444トン、金は約48キロで、鋳造された仏像では世界最大のものである。5丈3尺5寸の大仏を全部金箔で塗り、その左右にある3丈の脇士(わきじ)菩薩に高さ11丈、幅9丈6尺の光背(ヘイロー)をつけ、さらに四隅には高さ4丈の極彩色(ごくさいしき)の四天王を立てたというのは、当時も今も類のない大事業であった。

もちろん、大仏殿のまわりにはそれと調和する建築物がたくさんあって、これだけ孤立していたわけではない。特に左右に七重の塔があって、東塔326尺、西塔324尺9寸、つまり約100メートルであった。

当時としてはエジプトのピラミッド、バビロニアの塔(これは伝説上だが)を除けば、唐にも天竺にも西洋にも、もちろんアメリカ(当時は国そのものがなかった)にも見出せぬものである。ピラミッドは、いわゆる塔でないから、日本は東京タワーによって、世界最高の建築レコードを打ち立てる1200年前に、世界最高の塔を二つも建てていたのだ。残念ながら両方とも雷で焼けて礎石ばかりであるが、この高さは伝説でもなければ誇張でもない。

戦前に日本は戦艦大和と武蔵という、人類が造った最大の戦艦を造ったり、戦後も史上最大のタンカーを陸続として造っているが、これに外人は一様に驚きながらも、西洋の真似として見ている傾向が強い。

しかし西洋ではゲルマン民族が地上数メートルの木造建築を造ったり、ローマの真似をして石の小さい城だけのころに、100メートルの堂々たる塔を、それも二つも造っていたのである。しかも誰が造ったのかわからない半伝説のものではなく、それを建てさせた国王は、現在の天皇と同じ王朝(デナステイ)に属しているのであり、大工たちの名前までわかっているのだ。しかも、そのいくつかの建物や工芸・美術品は現存している。連続はここでも完全であり、掛け値なしに世界無比である。
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