映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

海角七号

2010年01月13日 | 洋画(10年)
 『海角七号/君想う、国境の南』を銀座のシネスイッチに行って見てきました。

 この映画については、タイトルの意味が分からず余り関心もなかったところ、前田有一氏の映画評に「台湾で爆発的にヒットした(同国映画としては史上一位)」とあったことから、ベルギー映画『ロフト.』を見に行ったときと同じ感覚で(その映画に馴染みのない国のものという点で)、映画館に出向いてみました。

 実際に見てみますと、地方都市に誕生した急ごしらえのロックバンドが聴衆に感動を与える演奏を行った、という最近よく見かける筋立てのものに過ぎません。

 ですが、見ていくうちに、年末に見た何本かの映画と雰囲気的にかなり類似する側面をいくつも探し出せたりして、結構楽しい気分でこの映画を見終わることが出来ました(個々のエピソードの中には、日本人的感覚からするとやや荒削りな感じがしてしまうものがあるとはいえ、暫くして慣れてくるとそれもまた良しとなってきます) 

 まずこの映画には、慌てて作られた音楽集団が、短期間の内に一定の成果を出せるまでに成長するという中心的なテーマがあると思いますが、その点からすると、前回のブログで取り上げた『のだめカンタービレ』がすぐに思い浮かびます。
 いうまでもなく、一方はクラシックの名門オーケストラであり、もう一方は急ごしらえのしがないロックバンドですから、違っている所の方が大きいかも知れません。
 ですが、聴衆に感動を与える演奏をするには、濃密な練習ばかりでなく、演奏者を適任者に入れ替えることや団員の意欲の向上を図ることなども必要だという点が二つの映画で同じように描き出されていて、大変興味深いと思いました〔実際には、いくらロックバンドと言えども、あんなに短期間にあそこまで腕が上がる事などありえないでしょうが!〕。

 次に、映画の構造面では、昨年末に見た『ジュリー&ジュリア』と共通するものがあるのではと思いました。
 というのも、この映画においては、一方に、1945年の敗戦で日本への引揚を余儀なくされた日本人教師とその教え子との関係があり、他方に、主人公・アガと日本人マネージャー・友子との関係がありますが、この二つの関係は、ジュリーとジュリアの関係と同じように、直接的に交わることがないからです(『ジュリー&ジュリア』でも40年ほどの間隔があり、この映画の場合は60年の間隔です!)。
 さらにいえば、マネージャー・友子が、教え子・友子にあてた日本人教師の手紙を読むことによって、両者の関係が意識の面では濃密になるのは、ジュリーがジュリアを頭の中に作り上げてそれとのコミュニケーションを作り上げている関係とよく似ているのではとも思いました。
 二つの映画とも、見ている最中は、それぞれの二つの関係がどこかで実際に交わることになるのではないか、という期待を抱かせながらも、結局はそんなことは起こりません。一つは実話もう一つは物語と言う違いはあるにせよ、その点は、作品にリアリティを持たせるために必要な節操ではないかと思いました。

 さらに、映画で使われている言葉の面からみると、さまざまな言語が飛び交うという点で、これも昨年末に見た『イングロリアス・バスターズ』を思い起こさせました。
 そちらでは、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語などが話されますが、この映画でも北京語・台湾語・日本語が入り混じります。そして、このようにたくさんの言語が映画の中で話されることが、どちらの映画でも重要な意味合いを持っていると思います(そういえば、『千年の祈り』でも、英語、中国語、ペルシア語が話されていました!)。
 それに、この映画の日本語字幕が、台湾語の場合と北京語の場合を区別して表示したのは画期的なことではないかと思います。なにしろ、台湾語で話されると理解できない中国人が登場するのですから(仮にこの映画が吹き替えで公開されるとしたら、この映画の面白さは半減してしまうでしょう)!
 これに、中孝介氏の沖縄方言が加わったら、もっと面白くなったかもしれません!

 一見したところ、至極地味そうな作品ですが(台湾の地方都市での出来事)、このように現代的な映画とも強い結びつきがあると思うと、また大いに興味が湧いてきます。

 なお、女優の田中千絵氏は、この映画で初めて見ましたが、なかなかの美貌で、かつ中国語も大変上手そうで、これからの活躍が期待されます。

 ところで、評論家諸氏は次のような感じです。
 まず、前田有一氏は、「本作を理解するのにもっとも重要なことは、こうした内容のドラマが台湾で万人に受け入れられたという事、台湾の人々がこのストーリーに感動したという厳然たる事実」と指摘しつつ、この作品は「素朴なつくりの映画だが、だからこそ、その中に込められた愛情の純粋さが際立つ。この冬、全日本人が見るべき、いや、日本人だからこそ見なくてはならない傑作である」として90点もの高得点を与えています。
 確かに前田氏が声高に言う側面はあるとはいえ、そういった政治的なことを余り強調せずとも、描き出されている内容自体で優れた映画だなと思えるところです。

 渡まち子氏は、「やはり音楽の持つ力は素晴らしい。台湾南部の海辺の街・恒春のロケーションも魅力的だ」とし、「切なくてみずみずしい恋物語を描いたこの映画を、美しい絵葉書のように大事にとっておきたくなった」として70点を与えています。
 こうした論評は私の感覚にヨク馴染むところです。

 他方で、福本次郎氏は、「日本語の手紙の主とアガ・友子の因縁が希薄で、運命に導かれた出会いというような展開がないのが残念。また、いくらアガに責任感を自覚させるためとはいえ、本番直前に手紙を届けさせるのはマネージャーとして友子はいかがなものか」など、いつものように変な難癖を付けて50点しか与えていません。
 ですが、本番直前にもかかわらず主人公に友子が手紙を届けさせたのは、果たして、「アガに責任感を自覚させるため」というような在り来たりのつまらない理由によるものなのでしょうか?


★★★☆☆(星4つに近いかも知れません)

象のロケット:海角七号


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日本人には知られない痛みと愛着 (新高山丸)
2010-01-13 22:38:32
  台湾で大ヒットしたとの情報を早くに得ており、台湾事情をすこしでも知る意味からも見てきました。戦前の日本が約五十年強も領域としながら、一部の興味ある人にしか知られない地域で、断片的に仄聞する情報はままありますが、それ以上のことがない。そんな印象が、この地域に対してまずあります。
  それが、このきわめて親日的な映画が台湾住民に受け入れられたことに、まず驚きがあります。この映画を見終わっても、台湾でも日本人的な「創氏改名」がなされていたことを知らず、他の人の説明を見て分かり、まったくの任意だったようですが、衝撃を覚えました。むかしの恋人「小島友子」さんは台湾人の女性だったのですね。台湾総統が、この映画を台湾の人々の心情を描いたものと言ったそうですが、その辺を汲み取るには、現地人しか知らない事情と感情がいろいろありそうです。今となっては、五十年もの期間になにがあったのか、実感として到底分かりませんが、縁のあった地域・人々と友好関係を重ねたいと感じます。
台湾にもいくつかの民族と言語があり、それが現在でも混在して使われることにも驚きました。当地では、北京語が教育語として使われてきたとの感触がありますから、戦後六十年も経てば、少数語はほぼ消えているのではないかとも思っていたからです。民族融合も進んでいないのですね。

映画のストーリー自体は、ある意味でありきたりなのかもしれません。いくつかの物語が入り交じるなかで、ダメ楽団の訓練・上達という過程の動きでは、「のだめ」や「スウィングガールズ」とダブルような感じもありました。この辺は、結果良ければ良しということなのでしょう。
  ただ、物語の展開のなかで浮かびあがる諸事情に注意して見れば、見る都度、なんらかの発見があるかもしれません。地域事情はなかなかわかるものではありません。映画の日本公開が遅れ、中国本土では半分くらいのブツ切れで上映されたとも聞きます。こうした検閲が行われることに、文化水準と体制の意味も感じます。軍事としての戦争が終わっても、様々な意味での長い戦争があるものです。
まったくの余談ですが、田中千絵さんはノリピーくんにすこし雰囲気が似ているのかもしれません。いま、日本人が活躍しはじめる場が、韓国でも台湾でも見出されるようになったのは良いことだと思います。
返信する
台湾事情 (クマネズミ)
2010-01-14 05:57:56
 「新高山丸」さん、コメントありがとうございます。
 「台湾総統が、この映画を台湾の人々の心情を描いたものと言った」とありますが、父親が「外省人」であり、「嫌日家」と知られる馬英九総統がそのように言っているとしたら、その点からしても台湾を理解するのはなかなか難しいと思わざるを得ないところです。
 
返信する
考えてみると… (KLY)
2010-01-15 23:06:16
なぜこの作品が台湾の方々に受け入れたれたのか。それはここに描かれていることが現在の台湾そのものだからだと思うのです。
登場する三つの言語、漢民族、原住民族、外省人・内省人、客家人。複雑にして多彩な文化が融合したのが台湾であり、そこに植民地時代を通じて今に至るまで深くかかわっている日本。
同じ中国語を話しても共産党中国人と日本人は価値観を共有することは不可能です。ですが、台湾の人たちとはそれが可能です。
厳しい現実は確かにありますが、それを超えて手を携えることが出来る。この作品を観ているとそんなメッセージを感じました。

返信する
価値観 (クマネズミ)
2010-01-17 09:56:29
 KLYさん、コメントをありがとうございます。
 おっしゃるように、台湾では「複雑にして多彩な文化が融合し」ており、また日本も「そこに植民地時代を通じて今に至るまで深くかかわっている」と思います。ですから、「厳しい現実」を超えて「手を携えることが出来る」といえるかもしれません。
 ただ、その裏返しとして「同じ中国語を話しても共産党中国人と日本人は価値観を共有することは不可能」、とまで言い切ってしまうことには躊躇いを覚えます。「価値観」といえども様々なレベルがあって、「共有」可能なものをいくつも見いだせるのではないでしょうか?また、「共有」できないにしても、理解は出来ることもあるのではないでしょうか?さらには、そう努力する必要もあるのではないでしょうか?
 口幅ったいことを書いてしまい恐縮です。
返信する

コメントを投稿