映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

まほろ駅前多田便利軒

2011年05月08日 | 邦画(11年)
 『まほろ駅前多田便利軒』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)映画は、まほろ駅前で便利屋を営んでいる多田啓介瑛太)と、そこに転がり込んできた行天晴彦松田龍平)とが軸になって展開されます。



 その際、行天の小指が要石の一つような気がします(注1)。
 中学校の工芸室で、多田が行天を振り向かせようと肩に手をかけたときに、行天は裁断機で小指を切り落としてしまうのです。
 その後の手術によって、斬り落とされた小指はつながったのですが、その事故がいつまでも多田の心にシコリとして残っています。何かというと、行天が「寒い夜は小指がちぎれそうに痛む」などと仄めかすものですから、多田はあまり強い態度に出れなくなっています。2回ほど、多田は行天を追い出そうとしますが、結局は元の鞘に収まる始末。

 どうも多田は、行天の小指を切り落としてしまったがために、一度行天とくっついてしまうと(その事故の後、2人はずっと疎遠になっていたようです)、最早彼から離れられなくなってしまったのでしょう。
 それと同じように、関係の修復を図ること、切り離されてしまってバラバラになってしまいそうになっている物を、元の通りにくっつけようとすることが、多田の便利屋の仕事になっているとは言えないでしょうか?

 例えば、多田はある女性からチワワを預かるのですが、実際は彼女は、ペットを飼うことのできないアパートに引っ越さざるを得ないがために、子供が育てていたチワワを、子供に黙って便利屋に引き取ってもらおうとしたのです。
 多田たちは、元の関係に戻すべく引っ越し先を探し当てます。ただ、そうした事情にあることがわかると、チワワとその子供との関係の修復は諦め、今度はそのチワワを、それを実際に必要とする新しい飼い主に引き取ってもらいます。

 また、行天は、両親との関係を清算しようとして包丁を隠し持っていたのですが、チワワを仲立ちにして多田との関係ができると、その包丁を放棄してしまいます。とはいえこれは、多田が意識的に行ったことではなく、結果的に関係の破局化が避けられただけのことですが。

 さらに、多田と行天とがDVDで見ている『フランダースの犬』の最終話のラストは、別れ別れになっていたネロと犬のバトラッシュとが、アントワープ大聖堂のルーベンスの2枚の絵を見た後で、雪の中で一緒になって息絶えて天国に昇る場面です(注2)。

 もっといえば、まほろ市のモデルとなっている町田市は、神奈川県の中に食い込んだ東京都といった位置関係にあって、今にも東京都から切り離されて神奈川県にくっついてしまいそう、といった感じがするものの、依然として東京都のママです(注3)。

 とはいえ、本作品は、多田が、生まれてすぐの子供を死なせてしまったという自責の念からなかなか立ち直れずにいる様を描いたものと考えた方が、常識的には理解しやすいのかもしれません。
 なにしろ多田は、チワワのようなひ弱そうに見える小さな動物に対しては、すぐにでも死んでしまう気がしてしまいますし、また子供を使っての犯罪行為に対し、強い憤りを感じたりもします。
 ただ、そうした動きの底にあるものを探っていくと、あるいは、小指事件が見つかるのではないかと思えます。

 それはマアさておき、この便利軒は、映画の中では、子犬を預かったり、子供の塾の迎えをしたり、アパートの戸の滑りをよくしたり、バスの運行状況をチェックしたり、などというような、実にセコイ仕事しかしていません。こんな営業状況で、よく駅前の事務所(いくらオンボロのビルとはいえ)を借りていられるなという気がします。多分、映画では描かれていないところで、細々とした仕事がたくさんあるのでしょう。
 それでいて、麻薬の売人と関係が出来たりして、行天が腹を刺される事件さえ起きてしまいます。また、行天は、子供を望む女性に精子を提供するといった実に現代的なこともやっています。




 映画全体として、日常的なごくつまらないことの繰り返しが描かれる中に、時折さりげなく麻薬とか人工授精など大きな事件も挟み込まれたりして、なかなかうまい映画の作りになっていると感心いたしました。
 それに、多田が、塾の迎えをしている子供に対して、「親が与えてくれなかった愛を、生きてさえいれば、他の誰かに与えることができる」といった教訓めいたことを言うのですが、文庫本解説の鴻巣友季子氏は、これを作者のメッセージとして受け取って、「幸福の再生」ということではないかと述べています。しかしながら、本映画作品においては、そのあとに「そんな風に言ったけど、おれはまだ誰にも何も与えられない」という多田の声が入るのです。こうした歯の浮くような説教じみたメッセージを、そのままの形で流さない監督の姿勢を評価するところです(注4)。

 瑛太は、きちんと見るのは『ディア・ドクター』以来ですが、存在感の出しにくい大層難しい役を実にうまくこなしているのではと思いました。
 松田龍平も、『劔岳 点の記』以来ながら、むしろ瑛太以上に存在感のある役を随分と楽しんでこなしているように見受けました。




(2)この映画は、監督が同じ大森立嗣氏ということもあって、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』と受ける印象が似ているところがあります。特に、瑛太と松田龍平が小さなバンに乗っている様は、松田翔太と高良健吾がトラックに乗っているときの感じそのままです。
 ただ、『ケンタトジュンとカヨちゃんの国』の場合は、目的地である網走刑務所に向かってひたすら直線的に走るわけですが、本作品においては、彼らはまほろ市からでることはなく、そのなかで円運動しているに過ぎません。

 その円運動ですが、本作品の場合、ラストが冒頭とそっくりのシーンになります。すなわち、多田が行天と出会う当初のバス停のベンチに、また行天が座っているのです。しかしながら、今回は、チワワを抱いてはいませんでした。
 ある意味で、多田と行天との関係が質的にレベルアップしたといえるのかもしれません(ですから、これからは、多田は行天を、これまでのようになんとなく一緒にいる人間として扱うのではなく、アルバイトとして正式に雇い入れることになるのでしょう)。

 さらに、こうしたところは、随分と飛躍してしまうかもしれませんが、『Somewhere』の冒頭とラストとの関係に似ているのでは、と思えます。すなわち、その映画のラストにおけるジョニーの行動は、フェラーリを乗り回す点で冒頭のシーンと類似しているものの、冒頭では、野原をグルグル回る円運動でしかなかったのに対して、ラストにおいては、草原をまっすぐ走る直線運動である上に、ジョニーはその車をも乗り捨ててしまうのです。ジョニーは、ある決意を持ってこれからの人生に立ち向かうというところでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「多田と行天が抱えるそれぞれの心の傷が、無言のうちに共鳴しあった時、結果的にとぼけた人助けにつながっていく。それが説教くさくなく、淡々とした描写なのが心地よい。原作は三浦しをんの人気小説で、映画に描かれた以外にも魅力的なエピソードがたくさんある。もしや続編ができるかも…と、期待している」として、65点を付けています。



(注1)映画の原作(三浦しをん作)の文庫本解説において、鴻巣友季子氏も、「小指を切断する事故」についての多田の思いが、「この小説のモチーフのようなものを表している」と述べています。ただ、鴻巣氏は、関係が“切断”されてしまうことの方を強調しているところです。
 また、映画評論家の前田有一氏も、「見ればわかるが本作は「小指」がある種の象徴で、解釈のキーポイントとなっている。主人公がケガをさせた旧友の小指は、けっして元には戻らない。だがそれでも傷跡は癒え、薄くなってゆく」と述べています。
 ただ、前田氏は、「要するに、生きていれば人は必ず傷つくが、それは元には戻らない。だが、元通りではないにしても必ず再生する。大けがした小指の傷のように……。そういっ て、この映画は傷ついた人々を励ましているのである。もちろん、小指の傷だけではない、津波に流された町だって同じはずだ。心にじんとくる、今見るにふさ わしい一品というほかはない」として、そのメッセージ性を強調しているところ(評点は60点)、クマネズミとしては、これは後付けの過剰な読み取りに過ぎないと思えます。

(注2)このシーンについて、行天は「ハッピーエンドだ」と言って多田を驚かせます。

(注3)多田が好きだというのが米軍基地(キャンプ座間)。近年関係がぎくしゃくしている日米関係を修復すべきだというメッセージがここにはあるのではないか、などというのは下手な冗談です。

(注4)歯の浮くような台詞がカットされていれば、モット高く評価できるのですが!
 なお、行天が、「ふつうはもうちょっと早くに、広告を打つとか、顧客に営業電話をかけるとか、チラシを配るとかするもんじゃないの?」と多田に忠告しますが、映画の場合、その後で多田は行天の背中に向かって、「なんでおまえが……」云々と、これまた行天の忠告を否定してしまうような台詞が入ります。
 というところからも、大森立嗣監督は、原作の情緒に流れる雰囲気をなるべく断ち切りたいと考えているようにみえます。




★★★★☆




象のロケット:まほろ駅前多田便利軒