
『ミスター・ノーバディ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。
(1)映画は、ただ事ではない老いの醜さを全面に表している老人の顔の大写しから始まります。医者から年齢を尋ねられると34歳と答えますが、自分の様相からしてそんなことはあり得ないと自覚するのでしょう、それ以降のことは忘れてしまっていると言い出します。
そこで医者は、催眠療法でそのニモ(ジャレッド・レト)という老人の過去の記憶を蘇えらそうとします。
ですが、得られる記憶は途方もない広がりを持ったものなのです。
すなわち、ニモがこれまでの人生で選択の岐路に立たされた時に、彼の前に広がる可能世界が次から次へと描き出されるのです。
例えば、9歳の時に、ニモは両親の離婚に遭遇し、父親か母親のいずれかを選択せよと迫られます。すると、電車に乗って立ち去って行く母親を追いかけて、うまく追いついて電車に飛び乗ったニモと、追いつかずに父親と後に取り残されたニモのそれぞれに、その後にどのような展開が待っているのかが映画では描き出されるのです。

例えば、母親と一緒に暮らす場合、15歳のニモは、母親の愛している男性が連れてきた娘アンナ(ジュノー・テンプル)と激しい恋に陥ることになります。
他方、父親と一緒に暮らす場合には、ニモは精神的に酷く不安定なエリースと一緒になります。
といった具合に、物語が進行するにつれて、どんどん可能世界が増えていくのです。
ですが、2092年という現時点で118歳になっているニモは、そうして存在したかもしれないたくさんの可能世界のうちの一の結果の姿であるはずです。そのニモは、この映画で描かれたたくさんの可能世界のうちから、選択の岐路に立たされるたびごとに一つ一つを選び取って、現時点までやってきたはずです。ですから、彼の頭に残っている記憶は、そうしたたくさんの可能世界から構成される複線的なものではなく、彼が選択した軌跡を綴り合わせた単線的なものに過ぎないのではないでしょうか?
これは、あるいはどの地点に立って物事を見るかによっているのかもしれません。出発点(あるいは分岐点)から未来を見渡せば、可能世界がたくさん広がっていることでしょう。ですが、終わりの時点(あるいは分岐点)から過去を振り返って見れば、一続きの貧弱な世界があるだけなのではないでしょうか?
と考えていたら、時間がどんどん過去から未来へ向けて進んでいくのは、ビッグバンからの流れであって、2092年に至ると、今度はビッグクランチによって時間は収縮し、今度は未来から過去に向かって逆に流れるというのです。
その行きついた先が9歳の時のニモ。
となると、起点は、118歳のニモではなくて9歳のニモになってしまい、描かれた世界はすべてにニモの幻想になるでしょう。
ソウなると今度は、ニモの前に無数の可能世界が広がることになるでしょう!
映画では、選択の岐路に立たされたニモの前に提示される選択肢は2つしかありませんが、実際には無限に考えられるでしょう。
例えば、映画のラストシーンのように、父親の方にも母親の方にもいかずに、真中の道を走り去ってしまうこともできるでしょうし、あるいは母親に追い付いて電車に上がった瞬間に、電車が脱線してしまうとしたら、または父親の方に向かったら彼が心臓麻痺で倒れてしまうとしたら、さらには両親が急遽和解して一緒に暮らすことになるとしたら、……。
映画は、たくさんある選択肢のうちの代表的なものを二つだけ選び取って映し出しただけのことかもしれません。
でも、たくさんある選択肢を見ているニモはどの地点に存在するのでしょうか?どこにいたら、可能世界全体を見渡すことができるのでしょうか?
(まあ、これも“映画のお約束”で、神の視点から見たものと言えるのかもしれませんが)
映画は、118歳のニモの顔面の特殊メイクからはじまって、火星旅行に行く宇宙船の様子など、一方でSF的な要素をふんだんに盛り込みながらも、15歳のニモを演じるトビー・レクボのイケメンぶりとか、同じ歳のアンナのジュノー・テンプルの可愛らしさといった要素も持っていて、なかなか面白く見終わることができました。

(2)ところで、ブログ「映画のブログ」の管理者ナドッレックさんは、この映画に関する記事(5月2日)において、当該作品の本質を量子力学の観点から捉え、「内容は至って単純、「シュレーディンガーの猫」である」と喝破され、映画を制作したジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、「複数の状態が重なり合うという量子力学の考えから、人生の無限の可能性を信じる希望の物語を紡ぎだした」と述べておられます。
すなわち、ナドレックさんは、様々の岐路に立たされるニモの前に広がる二つの選択肢について、「シュレーディンガーの猫」と同様に、「主人公の人生では、恋人が生きていたり死んでいたり、自分が事故に遭ったり無事故だったりする。確率的にはどの人生も同じように確からしいので、いずれの人生も真実であり、シュレーディンガーの猫と同様に重ね合わせ状態にあるのだ」と捉えていらっしゃいます。
要すれば、ナドレックさんンは、「シュレーディンガーの猫」を、選択肢の重ね合わせの状態と把握されておられるようです。

この記事には心底びっくりし、この記事によってこの映画は語り尽くされているのではないか、これ以上付け加えることなど残ってはいないのではないか、と思ったほどです。
ですが、なんだか引っ掛かるところがあるので、念のため、手元にある本などで「シュレーディンガーの猫」のことを調べてみることといたしました(注1)。
そうしたところ、「シュレーディンガーの猫」について、例えば大澤真幸氏は、『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010.10)の中で、次のように解説しているところです。「そこには、「50%生きており、50%死んでいる猫がいる」と考えざるをえないのだ!」(P.131)。言いかえれば、猫が生きている状態と死んでいる状態とが共存しているわけのわからない状況なのでしょう。
映画に当てはめてみると、例えば、“50%母親の手を握り、50%母親の手を握れない9歳のニモ”ということになるのでしょうか?
ですが、これでは量子力学との関係が見えてきません。
というのも、「シュレーディンガーの猫」とは、量子力学において、電子などが粒子でありかつ波動でもあるとすることが生み出すパラドックスを説明するための思考実験とされているからです。
他方、岐路に立たされたニモの前に選択肢が二つあるということは、決してパラドックスでも何でもなく、ニモは、自分の前にいくつも可能性が広がっているだけのことであり、彼はそのうちの一つを選び出せば済むことなのではないでしょうか?
この際問題なのは、猫の状態もさることながら、猫が入っている箱に施されている装置の方ではないでしょうか?大澤氏の著書に従えば、「電子が存在している確率と猫の生死が連動しているように工夫された装置」なのですが(P.131)、電子が確率的に存在しているという量子力学的な観点が最大のポイントではないかと考えられます。そのことの結果として、生きていながらも死んでもいる猫というものが出現してしまうのですから。
つまり、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスとは、電子などのミクロの世界で起こることを猫というマクロの世界に結び付けてしまうと、途方もない事態が生じてしまうことを説明するものではないか、と考えられるところです。
ところが、そんな装置などニモの場合にはありえません。もとより、そんなものを映画化することなど不可能なことではないかと考えられます。
いうまでもなく、ナドレックさんのレビューにおいても、抜かりなく装置の説明は行われています。ただそこでは、この装置について、「確率が半々の現象を捉える観測装置の箱」とされ、「箱の中では、現象の発生に応じて猫の生死が決まる」とされているところ、この「現象」とは、一般的な現象ではなくて、電子といったミクロの世界のものである必要があると考えられるところです。
ナドレックさんのように単に「現象」とすることによって、話の重点が猫の生死の方に行き、その重ね合わせ(「猫が生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」)といったことに目が移ってしまうのではないでしょうか?
そうなれば、「確率的にはどの人生も同じように確からしいので、いずれの人生も真実であり、シュレーディンガーの猫と同様に重ね合わせ状態にあるのだ」というところまでは一っ飛びとなることでしょう。
むろん、ここはエンターテインメントを本旨とする映画に関する話ですから、あまり杓子定規なことを言ってみても意味がありません。
映画の中で、ビッグバンに対応するビッグクランチがいわれ、118歳のニモが突然9歳のニモに逆戻りするところ、いくらなんでも億年単位の話を100年余りに縮めてしまうとはと驚きますが、楽しい映画ですからナンデモアリでしょう。
この「シュレーディンガーの猫」も、電子や光子といったミクロの世界に量子力学を適用した際にマクロの世界に生じる矛盾を問題にする思考実験ながら、パラドックスの前半部分(ミクロの世界)はカットし、後半部分(マクロの世界)を比喩的に用いてニモに適用するとしても、楽しい映画を巡ることであれば、そんなことに目くじらを立ててみても始まらないのかもしれません。
とはいえ、あまり使い勝手がいい話でもないのでは、と思われるところです。
一つには、後半だけであれば、何も「シュレーディンガーの猫」を持ち出さずとも、「コペンハーゲン解釈」だけで十分ではないかとも思えるからです。すなわち、事象の重ね合わせをいうのであれば、電子自体が、「コペンハーゲン解釈」では様々の状態の重ね合わせなのですから(注3)〔とはいえ、同解釈はミクロの世界に限定されているものですが。〕!
だったら、「多世界解釈」に従えばいいのではないかと言われるかもしれません。ただ、この場合には、状態ごとに世界が異なるとするわけですから、ナドレックさんが問題にされている「重ね合わせ」といったことにならないのではないでしょうか(注4)?
さらにもう一つは、「シュレーディンガーの猫」はあくまでも客観世界に関することであるのに対して、ニモの目の前に広がる可能性はニモの主観によるものなのではないでしょうか?その場合には単なる想像なのですから、重ねあっているとしても何の問題もありませんが、客観世界の場合には、矛盾する事象が重ね合っていたら、それは受け入れられないことになるでしょう。
(注1)この部分を書くに当たって、一応参考にいたしましたのは、本文で挙げました大澤真幸氏の著書の他には、雑誌『Newton別冊―みるみる理解できる量子論―改訂版』(2009年4月)や、下記注3で触れる「量子論」を楽しむ本』(佐藤勝彦・監修、PHP文庫)、南堂久史氏のHP「量子論/量子力学―その最前線」(トンデモと貶す向きもあるようですが、初学者には頗るわかりやすいのではと思います)とかwikiといったところです。
(注2)ナドッレックさんは、「ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、とりあえずコペンハーゲン解釈を採用して映画のオチとしたようだ」と述べておられるところ、「シュレーディンガーの猫」は、元々コペンハーゲン解釈に異を立てるべく作成されたものですから、それをまたまた同解釈で説明するとはどういうことなのかな、と思ってしまいます。
あるいは、「コペンハーゲン解釈」に従えば、「シュレーディンガーの猫」の話はパラドックスではない、ということなのかもしれません。
(注3)『「量子論」を楽しむ本』(2000年)では、「ボーアたちは、観測される前の電子はさまざまな位置にいる状態が「重ね合わせ」になっているが、私たちが電子を観測したとたんに「波の収縮」が起きて電子は一ヶ所で発見される考えた」のが「コペンハーゲン解釈」だとされています(P.139)。
(注4)ナドレックさんは、「多世界解釈によれば、猫の状態を観測しても、「生きてる猫を見出した観測者」と「死んだ猫を見出した観測者」との重ね合わせ状態になるだけで、一つの状態に収束するわけではない」と述べておられますが、この場合の「重ね合わせ」は、コペンハーゲン解釈における“重ね合わせ”とは意味合いが違っているのではないでしょうか?
(3)上記(2)でくだくだしく申しあげたことの要点は、次のようなことになるでしょう。
a.科学的な話を映画を論じる際に使う場合、元来映画はエンターテインメントなのですから、そんなに厳密性が求められるわけではないでしょう。
b.ですから、ニモの場合にみられる様々な可能性の重なり合いを、量子力学における事象の重なり合い(コペンハーゲン解釈)とパラレルに見ることも大層興味深いことでしょう。
c.ただ、さらに「シュレーディンガーの猫」の話にまでなると、それは「コペンハーゲン解釈」に対する異議申し立てという見地から編み出されたものであって、ミクロの世界が欠けているニモの場合にすぐさま適用できるかどうか、疑問なしとしないのではないでしょうか?
d.また、量子力学における「多世界解釈」によれば、事象の重なり合い自体が解消されてしまうために、ニモの場合にそれを適用するのは難しいのではないでしょうか?
なお、実際のところ、この問題は、クマネズミのような未熟な者には手に余り、以上のように書いてはみたものの、依然としてよくわからないことばかりです。
たぶん間違っているところ、解釈が行き届いていないところがたくさんあると思われます。この記事をお読みになった方々からイロイロご意見を賜れば幸いです。
(4)映画は、物語がまっすぐに進行せずに、絶えず中断されて過去に引き戻され、それも違った選択肢の下で展開される違った可能世界が描かれて、いったいどれが真実なのか分からない、といった感じになります。
可能世界を描いたものではありませんが、ばらばらの記憶という点では、『メメント』(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』に関する記事の(2)で若干触れています)と類似しているのでは、と思えます。そして、本作品では、何度も、ニモの9歳の時の記憶が繰り返し映し出されるのに対応して、『メメント』でも、妻がレイプされて殺される大元の映像が繰り返し映し出されます。
(5)前田有一氏は、「この映画は、「超映画批評」本年度の早くもベストワン候補の筆頭であ」り、「これは本当に凄い映画である。映画を見ながら色々と思考し、結末に対しても熟考するのが好きな中級以上の映画ファンが見れば、確実に満足できる作品である」と手放しの褒めようで、あろうことか97点もの高得点をつけています!
ただ、前田氏によれば、「この映画をみて混乱することは全くない」とのことですが、なかなかそんなことは難しいのでは、と思ってしまいますが。
また、精神科医の樺沢紫苑氏も、この作品は、「人生選択をテーマにしている。生きられなかったもう一つの自分を生きるとどうなるか、というシュミレーション。人生をやり直したって、幸せになれるとは限らない。結局のところ、「今」を必死に生きるしかないのか・・・といろいろ考えさせられる」。「これを「難解」という人もいるかもしれないが、最後まで見るとだいたいは理解できる話しなので「複雑」ではあるが決して「難解」ではないはず。『ソウ』『メメント』『インセプション』といった複雑なストーリー好きには、必見の作品」と、90点をつけています。
★★★☆☆
象のロケット:ミスター・ノーバディ
(1)映画は、ただ事ではない老いの醜さを全面に表している老人の顔の大写しから始まります。医者から年齢を尋ねられると34歳と答えますが、自分の様相からしてそんなことはあり得ないと自覚するのでしょう、それ以降のことは忘れてしまっていると言い出します。
そこで医者は、催眠療法でそのニモ(ジャレッド・レト)という老人の過去の記憶を蘇えらそうとします。
ですが、得られる記憶は途方もない広がりを持ったものなのです。
すなわち、ニモがこれまでの人生で選択の岐路に立たされた時に、彼の前に広がる可能世界が次から次へと描き出されるのです。
例えば、9歳の時に、ニモは両親の離婚に遭遇し、父親か母親のいずれかを選択せよと迫られます。すると、電車に乗って立ち去って行く母親を追いかけて、うまく追いついて電車に飛び乗ったニモと、追いつかずに父親と後に取り残されたニモのそれぞれに、その後にどのような展開が待っているのかが映画では描き出されるのです。

例えば、母親と一緒に暮らす場合、15歳のニモは、母親の愛している男性が連れてきた娘アンナ(ジュノー・テンプル)と激しい恋に陥ることになります。
他方、父親と一緒に暮らす場合には、ニモは精神的に酷く不安定なエリースと一緒になります。
といった具合に、物語が進行するにつれて、どんどん可能世界が増えていくのです。
ですが、2092年という現時点で118歳になっているニモは、そうして存在したかもしれないたくさんの可能世界のうちの一の結果の姿であるはずです。そのニモは、この映画で描かれたたくさんの可能世界のうちから、選択の岐路に立たされるたびごとに一つ一つを選び取って、現時点までやってきたはずです。ですから、彼の頭に残っている記憶は、そうしたたくさんの可能世界から構成される複線的なものではなく、彼が選択した軌跡を綴り合わせた単線的なものに過ぎないのではないでしょうか?
これは、あるいはどの地点に立って物事を見るかによっているのかもしれません。出発点(あるいは分岐点)から未来を見渡せば、可能世界がたくさん広がっていることでしょう。ですが、終わりの時点(あるいは分岐点)から過去を振り返って見れば、一続きの貧弱な世界があるだけなのではないでしょうか?
と考えていたら、時間がどんどん過去から未来へ向けて進んでいくのは、ビッグバンからの流れであって、2092年に至ると、今度はビッグクランチによって時間は収縮し、今度は未来から過去に向かって逆に流れるというのです。
その行きついた先が9歳の時のニモ。
となると、起点は、118歳のニモではなくて9歳のニモになってしまい、描かれた世界はすべてにニモの幻想になるでしょう。
ソウなると今度は、ニモの前に無数の可能世界が広がることになるでしょう!
映画では、選択の岐路に立たされたニモの前に提示される選択肢は2つしかありませんが、実際には無限に考えられるでしょう。
例えば、映画のラストシーンのように、父親の方にも母親の方にもいかずに、真中の道を走り去ってしまうこともできるでしょうし、あるいは母親に追い付いて電車に上がった瞬間に、電車が脱線してしまうとしたら、または父親の方に向かったら彼が心臓麻痺で倒れてしまうとしたら、さらには両親が急遽和解して一緒に暮らすことになるとしたら、……。
映画は、たくさんある選択肢のうちの代表的なものを二つだけ選び取って映し出しただけのことかもしれません。
でも、たくさんある選択肢を見ているニモはどの地点に存在するのでしょうか?どこにいたら、可能世界全体を見渡すことができるのでしょうか?
(まあ、これも“映画のお約束”で、神の視点から見たものと言えるのかもしれませんが)
映画は、118歳のニモの顔面の特殊メイクからはじまって、火星旅行に行く宇宙船の様子など、一方でSF的な要素をふんだんに盛り込みながらも、15歳のニモを演じるトビー・レクボのイケメンぶりとか、同じ歳のアンナのジュノー・テンプルの可愛らしさといった要素も持っていて、なかなか面白く見終わることができました。

(2)ところで、ブログ「映画のブログ」の管理者ナドッレックさんは、この映画に関する記事(5月2日)において、当該作品の本質を量子力学の観点から捉え、「内容は至って単純、「シュレーディンガーの猫」である」と喝破され、映画を制作したジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、「複数の状態が重なり合うという量子力学の考えから、人生の無限の可能性を信じる希望の物語を紡ぎだした」と述べておられます。
すなわち、ナドレックさんは、様々の岐路に立たされるニモの前に広がる二つの選択肢について、「シュレーディンガーの猫」と同様に、「主人公の人生では、恋人が生きていたり死んでいたり、自分が事故に遭ったり無事故だったりする。確率的にはどの人生も同じように確からしいので、いずれの人生も真実であり、シュレーディンガーの猫と同様に重ね合わせ状態にあるのだ」と捉えていらっしゃいます。
要すれば、ナドレックさんンは、「シュレーディンガーの猫」を、選択肢の重ね合わせの状態と把握されておられるようです。

この記事には心底びっくりし、この記事によってこの映画は語り尽くされているのではないか、これ以上付け加えることなど残ってはいないのではないか、と思ったほどです。
ですが、なんだか引っ掛かるところがあるので、念のため、手元にある本などで「シュレーディンガーの猫」のことを調べてみることといたしました(注1)。
そうしたところ、「シュレーディンガーの猫」について、例えば大澤真幸氏は、『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010.10)の中で、次のように解説しているところです。「そこには、「50%生きており、50%死んでいる猫がいる」と考えざるをえないのだ!」(P.131)。言いかえれば、猫が生きている状態と死んでいる状態とが共存しているわけのわからない状況なのでしょう。
映画に当てはめてみると、例えば、“50%母親の手を握り、50%母親の手を握れない9歳のニモ”ということになるのでしょうか?
ですが、これでは量子力学との関係が見えてきません。
というのも、「シュレーディンガーの猫」とは、量子力学において、電子などが粒子でありかつ波動でもあるとすることが生み出すパラドックスを説明するための思考実験とされているからです。
他方、岐路に立たされたニモの前に選択肢が二つあるということは、決してパラドックスでも何でもなく、ニモは、自分の前にいくつも可能性が広がっているだけのことであり、彼はそのうちの一つを選び出せば済むことなのではないでしょうか?
この際問題なのは、猫の状態もさることながら、猫が入っている箱に施されている装置の方ではないでしょうか?大澤氏の著書に従えば、「電子が存在している確率と猫の生死が連動しているように工夫された装置」なのですが(P.131)、電子が確率的に存在しているという量子力学的な観点が最大のポイントではないかと考えられます。そのことの結果として、生きていながらも死んでもいる猫というものが出現してしまうのですから。
つまり、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスとは、電子などのミクロの世界で起こることを猫というマクロの世界に結び付けてしまうと、途方もない事態が生じてしまうことを説明するものではないか、と考えられるところです。
ところが、そんな装置などニモの場合にはありえません。もとより、そんなものを映画化することなど不可能なことではないかと考えられます。
いうまでもなく、ナドレックさんのレビューにおいても、抜かりなく装置の説明は行われています。ただそこでは、この装置について、「確率が半々の現象を捉える観測装置の箱」とされ、「箱の中では、現象の発生に応じて猫の生死が決まる」とされているところ、この「現象」とは、一般的な現象ではなくて、電子といったミクロの世界のものである必要があると考えられるところです。
ナドレックさんのように単に「現象」とすることによって、話の重点が猫の生死の方に行き、その重ね合わせ(「猫が生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」)といったことに目が移ってしまうのではないでしょうか?
そうなれば、「確率的にはどの人生も同じように確からしいので、いずれの人生も真実であり、シュレーディンガーの猫と同様に重ね合わせ状態にあるのだ」というところまでは一っ飛びとなることでしょう。
むろん、ここはエンターテインメントを本旨とする映画に関する話ですから、あまり杓子定規なことを言ってみても意味がありません。
映画の中で、ビッグバンに対応するビッグクランチがいわれ、118歳のニモが突然9歳のニモに逆戻りするところ、いくらなんでも億年単位の話を100年余りに縮めてしまうとはと驚きますが、楽しい映画ですからナンデモアリでしょう。
この「シュレーディンガーの猫」も、電子や光子といったミクロの世界に量子力学を適用した際にマクロの世界に生じる矛盾を問題にする思考実験ながら、パラドックスの前半部分(ミクロの世界)はカットし、後半部分(マクロの世界)を比喩的に用いてニモに適用するとしても、楽しい映画を巡ることであれば、そんなことに目くじらを立ててみても始まらないのかもしれません。
とはいえ、あまり使い勝手がいい話でもないのでは、と思われるところです。
一つには、後半だけであれば、何も「シュレーディンガーの猫」を持ち出さずとも、「コペンハーゲン解釈」だけで十分ではないかとも思えるからです。すなわち、事象の重ね合わせをいうのであれば、電子自体が、「コペンハーゲン解釈」では様々の状態の重ね合わせなのですから(注3)〔とはいえ、同解釈はミクロの世界に限定されているものですが。〕!
だったら、「多世界解釈」に従えばいいのではないかと言われるかもしれません。ただ、この場合には、状態ごとに世界が異なるとするわけですから、ナドレックさんが問題にされている「重ね合わせ」といったことにならないのではないでしょうか(注4)?
さらにもう一つは、「シュレーディンガーの猫」はあくまでも客観世界に関することであるのに対して、ニモの目の前に広がる可能性はニモの主観によるものなのではないでしょうか?その場合には単なる想像なのですから、重ねあっているとしても何の問題もありませんが、客観世界の場合には、矛盾する事象が重ね合っていたら、それは受け入れられないことになるでしょう。
(注1)この部分を書くに当たって、一応参考にいたしましたのは、本文で挙げました大澤真幸氏の著書の他には、雑誌『Newton別冊―みるみる理解できる量子論―改訂版』(2009年4月)や、下記注3で触れる「量子論」を楽しむ本』(佐藤勝彦・監修、PHP文庫)、南堂久史氏のHP「量子論/量子力学―その最前線」(トンデモと貶す向きもあるようですが、初学者には頗るわかりやすいのではと思います)とかwikiといったところです。
(注2)ナドッレックさんは、「ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、とりあえずコペンハーゲン解釈を採用して映画のオチとしたようだ」と述べておられるところ、「シュレーディンガーの猫」は、元々コペンハーゲン解釈に異を立てるべく作成されたものですから、それをまたまた同解釈で説明するとはどういうことなのかな、と思ってしまいます。
あるいは、「コペンハーゲン解釈」に従えば、「シュレーディンガーの猫」の話はパラドックスではない、ということなのかもしれません。
(注3)『「量子論」を楽しむ本』(2000年)では、「ボーアたちは、観測される前の電子はさまざまな位置にいる状態が「重ね合わせ」になっているが、私たちが電子を観測したとたんに「波の収縮」が起きて電子は一ヶ所で発見される考えた」のが「コペンハーゲン解釈」だとされています(P.139)。
(注4)ナドレックさんは、「多世界解釈によれば、猫の状態を観測しても、「生きてる猫を見出した観測者」と「死んだ猫を見出した観測者」との重ね合わせ状態になるだけで、一つの状態に収束するわけではない」と述べておられますが、この場合の「重ね合わせ」は、コペンハーゲン解釈における“重ね合わせ”とは意味合いが違っているのではないでしょうか?
(3)上記(2)でくだくだしく申しあげたことの要点は、次のようなことになるでしょう。
a.科学的な話を映画を論じる際に使う場合、元来映画はエンターテインメントなのですから、そんなに厳密性が求められるわけではないでしょう。
b.ですから、ニモの場合にみられる様々な可能性の重なり合いを、量子力学における事象の重なり合い(コペンハーゲン解釈)とパラレルに見ることも大層興味深いことでしょう。
c.ただ、さらに「シュレーディンガーの猫」の話にまでなると、それは「コペンハーゲン解釈」に対する異議申し立てという見地から編み出されたものであって、ミクロの世界が欠けているニモの場合にすぐさま適用できるかどうか、疑問なしとしないのではないでしょうか?
d.また、量子力学における「多世界解釈」によれば、事象の重なり合い自体が解消されてしまうために、ニモの場合にそれを適用するのは難しいのではないでしょうか?
なお、実際のところ、この問題は、クマネズミのような未熟な者には手に余り、以上のように書いてはみたものの、依然としてよくわからないことばかりです。
たぶん間違っているところ、解釈が行き届いていないところがたくさんあると思われます。この記事をお読みになった方々からイロイロご意見を賜れば幸いです。
(4)映画は、物語がまっすぐに進行せずに、絶えず中断されて過去に引き戻され、それも違った選択肢の下で展開される違った可能世界が描かれて、いったいどれが真実なのか分からない、といった感じになります。
可能世界を描いたものではありませんが、ばらばらの記憶という点では、『メメント』(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』に関する記事の(2)で若干触れています)と類似しているのでは、と思えます。そして、本作品では、何度も、ニモの9歳の時の記憶が繰り返し映し出されるのに対応して、『メメント』でも、妻がレイプされて殺される大元の映像が繰り返し映し出されます。
(5)前田有一氏は、「この映画は、「超映画批評」本年度の早くもベストワン候補の筆頭であ」り、「これは本当に凄い映画である。映画を見ながら色々と思考し、結末に対しても熟考するのが好きな中級以上の映画ファンが見れば、確実に満足できる作品である」と手放しの褒めようで、あろうことか97点もの高得点をつけています!
ただ、前田氏によれば、「この映画をみて混乱することは全くない」とのことですが、なかなかそんなことは難しいのでは、と思ってしまいますが。
また、精神科医の樺沢紫苑氏も、この作品は、「人生選択をテーマにしている。生きられなかったもう一つの自分を生きるとどうなるか、というシュミレーション。人生をやり直したって、幸せになれるとは限らない。結局のところ、「今」を必死に生きるしかないのか・・・といろいろ考えさせられる」。「これを「難解」という人もいるかもしれないが、最後まで見るとだいたいは理解できる話しなので「複雑」ではあるが決して「難解」ではないはず。『ソウ』『メメント』『インセプション』といった複雑なストーリー好きには、必見の作品」と、90点をつけています。
★★★☆☆
象のロケット:ミスター・ノーバディ
ちょっと所用があるので、数日後にあらためてコメントさせていただきます。
取り急ぎご挨拶まで。
選択によって変わる人生・・・
とてもユニークかつ複雑ながらも 面白く見れました。
映像、編集、美術なども凝っていて
私的には好みな作品でした
勉強されてますね!
クマネズミさんの疑問に私がお答えできることはほとんどないように思います。
とはいえ、せっかく紹介していただいたので、(3)a~dに関して私なりの意見をコメントさせていただきます。
ただし、これは「ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の意図への私なりの推察」や「作品を観て感じた私なりの意見」ですので、誤りや考え違いも多々あると思います。また、科学的な見識不足もあるかと思いますが、それは素人の戯言とご容赦ください。
>a.科学的な話を映画を論じる際に使う場合、元来映画はエンターテインメントなのですから、そんなに厳密性が求められるわけではないでしょう。
おっしゃるとおり、本作はエンターテインメントとして人々を楽しませるものであり、科学的な緻密さや正確さを追求しているわけではないと思います。
とはいえ、本作には様々な科学的実験の映像や、科学面での解説等が織り込まれており、作り手が科学的知見を有しているというシグナルを頻繁に発しています。したがって、本作の内容を、単にニモの幻想・想像と受け止めて終わらせては、作り手はさぞかし寂しいでしょう。
そこで、本作に量子力学的な要素を見出すのも、面白い思考実験であろうと思うわけです。
>b.ですから、ニモの場合にみられる様々な可能性の重なり合いを、量子力学における事象の重なり合い(コペンハーゲン解釈)とパラレルに見ることも大層興味深いことでしょう。
そうですね。
実際には、重ね合わせ状態を映画で表現することは不可能です。映画は光学的に私たちの視神経を刺激して作り手の意図を伝えますので、その仕組みからして重ね合わせ状態を表現できません(もしも表現しても、私たちには理解できないでしょう)。
そんな制約の中で、本作は脚本の構成や編集技術等を駆使して、重ね合わせ状態への映画なりのアプローチとしても楽しめる作品だと思います。
>c.ただ、さらに「シュレーディンガーの猫」の話にまでなると、それは「コペンハーゲン解釈」に対する異議申し立てという見地から編み出されたものであって、ミクロの世界が欠けているニモの場合にすぐさま適用できるかどうか、疑問なしとしないのではないでしょうか?
たしかにエルヴィン・シュレーディンガーは、量子力学の確率解釈を批判するために、すなわち「ノイマン-ウィグナー理論が正しいとしたらこんなパラドックスが起きてしまうぞ」と当該理論を否定するために「シュレーディンガーの猫」の例え話を考案したのですが、シュレーディンガーの意に反して(?)現代では量子力学の特徴を説明するための比喩として用いられているようです。
ウィキペディアの「シュレーディンガーの猫」の項にも次のように書かれています。
---
現在では「シュレーディンガーの猫」のような巨視的に量子力学の効果が現れる実験系が知られており、「シュレーディンガーの猫」は量子力学が引き起こす奇妙な現象を説明する際の例示に用いられる。
--- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB#.E6.A6.82.E8.A6.81
私が拙記事で「シュレーディンガーの猫」を取り上げたのは、本作の中で恋人が死んでいる状態と生きている状態の両方が登場したからです。
異なる状態の重ね合わせを表現するには、金髪の状態と黒髪の状態でも、金持ちの状態と貧乏な状態でも、何でも良いでしょう。にもかからず、あえて死んでいる状態と生きている状態を描くのは、科学的知見を有するジャコ・ヴァン・ドルマル監督のことですから、「シュレーディンガーの猫」が念頭にあったに違いないと思うのです(他に、死んでいる状態と生きている状態の重ね合わせを示唆する科学理論は思い当たりません)。
さて、クマネズミさんは、
>ただそこでは、この装置について、「確率が半々の現象を捉える観測装置の箱」とされ、「箱の中では、現象の発生に応じて猫の生死が決まる」とされているところ、この「現象」とは、一般的な現象ではなくて、電子といったミクロの世界のものである必要があると考えられるところです。
>ナドレックさんのように単に「現象」とすることによって、話の重点が猫の生死の方に行き、その重ね合わせ(「猫が生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」)といったことに目が移ってしまうのではないでしょうか?
と書いていらっしゃいますが、私も当初はこの装置についてアルファ粒子(ヘリウム4)の説明から書き起こしていました。
しかし、アルファ粒子の放出やその検知について書いても、すでに「シュレーディンガーの猫」について知っている人にとっては饒舌でしょうし、知らない人にとっては拙ブログだけで説明しきれるものではないので、いずれにしろ読者を退屈させるだけだと考え、本記事ではごく単純な記述にとどめ、「シュレーディンガーの猫」の解説ページにリンクを張っておくことにしました。
したがって、拙ブログの記事だけでは「確率が半々の現象」がアルファ粒子の放出のことであるとは判りにくいかもしれませんが、知っている人には自明のことであり、知らない人もリンクをたどっていただければその「現象」の意味するところは判ると思います。
なお、この「現象」がアルファ粒子の放出であることは、確率が半々の現象を議論の前提とするために必要な例示であり、論旨を展開するに当たってはアルファ粒子の理解はさして重要ではないでしょう。
ちなみに、アルファ粒子の放出は、ごく一般的なありふれた現象です。
体重が60kgの人の放射能は約7000ベクレルだそうですから、私もクマネズミさんも、いまこの瞬間にもアルファ粒子を放出しているわけです。
http://www.pref.niigata.lg.jp/houshasen/1223920896359.html
また、クマネズミさんはミクロの世界とマクロの世界を分けて考えていらっしゃるようですが、現在は先の引用文にもあるように巨視的量子現象が知られるようになってきており、また技術の進展によりメソスコピック系(マクロとミクロの中間領域)の研究ができるようになったことから、"標語的にいえば"と断りつつも「メソスコピックな世界で、シュレディンガーの猫を作ることができるかもしれないのである。」とおっしゃる学者もいます(もちろん比喩的な意味であって、本当に50%死んでいる猫ができるわけではありませんが)。
http://www.sci.waseda.ac.jp/research/CONTENTS/J/248e181e.html
そしてウィキペディアには、先の引用に加えて、次のようにも書かれています(ウィキペディアはその記述が保証されないので、参照先としてはあまり適切ではないと思いますが、手っ取り早く共有できる情報源としてご容赦ください)。
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マクロスコピックな観測がいつもはっきりした値であるという原理は、経験的に得られた仮定でしかない。(略)このことは、EPRパラドックスなどと併せて観測問題と呼ばれる。
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拙ブログでは、観測問題を意識している点で、本作が多くのパラレルワールド物と一線を画していると申しました。
ジャコ・ヴァン・ドルマル監督はここでいささか「ズル」をしており、主人公をすべての人生を見通せる超人的な位置付けにしています(クマネズミさんが云うところの「神の視点」ですが、私はここで「無限に存在する人生のすべてを知ってもなお、その重みに耐え、人生を肯定しうる者」という意味で、ニーチェ的に「超人」という語を使いたいと思います)。
おそらく、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は「ズル」を承知しているからこそ、医師やインタビュアーに主人公の言動を批判させているのでしょう。その批判をエクスキューズとして用いた上で、それでもすべての人生を知る主人公を描きたかったのだと思います。
>d.また、量子力学における「多世界解釈」によれば、事象の重なり合い自体が解消されてしまうために、ニモの場合にそれを適用するのは難しいのではないでしょうか?
「事象の重なり合い自体が解消されてしまう」とおっしゃる意味がよく判らないのですが、先に述べたように本作は観測問題についての「ズル」があります。それは作り手の思想を映画という表現形式に収める以上は致し方ないことだと思います。
多世界解釈を重視すれば、本作の結末は「多くの人生があり得るが、いずれの人生でも幸福だった」というオチになったことでしょう。
実際に本作は、一旦はそのオチで終わりかけます。
しかしここで時間を逆行して、9歳のニモまで戻ってしまいます。そして、まだ人生は選択されていないこと、主人公の前途には無限とも云える可能性が広がっていること、主人公はその可能性のいずれかを選択していくであろうことが示されます。そのため、私は「ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、とりあえずコペンハーゲン解釈を採用して映画のオチとしたようだ」と記しました。主人公の人生は、いずれか一つに収束することが示唆されており、それは多世界解釈よりもコペンハーゲン解釈に近いと考えられるからです。
私個人の嗜好からすれば、老人となった主人公がどの人生を送っても「いい人生だった」と言い残すところで終わりにする方が好みです。それは私が、ニーチェが云うところの永劫回帰を連想していたからです。
しかし多くの観客にとっては、9歳のニモの前に無限の未来が広がり、いずれかを選択していくオチの方が判りやすく、人生を肯定するメッセージとして受け入れやすいことでしょう。
判りやすさも、エンターテインメントの大事な要素でありましょうから。
p.s.
全然関係ないことで恐縮ですが、Wikipediaの略称として"wiki"と書くのは適切ではないと思います。
Wikiとは、Webページを共同で作成するためのツールの名称であり、たとえば、Wikiで作成した百科辞典にWikipedia、Wikiで作成した機密情報公開サイトにWikiLeaksがあります。
"Wiki"単独で意味がある以上、Wikipediaの略称として用いるのは不適切かと思います。
元々、ナドレックさんのブログ記事につき、クマネズミがよく理解出来ない点をご教示願おうとして、こうした大層拙い文章を書き上げた次第です。
にもかかわらず、十全すぎるコメントをいただき、恐縮至極です。本当にありがとうございました。
特に、「巨視的量子現象」とか「メソスコピック系(マクロとミクロの中間領域)」といった、最先端の分野までナドレックさんの目が及んでおられるとは、とビックリいたしました。
クマネズミがミクロの世界とマクロの世界との二つの世界を持ち出しましたのは、「ミクロの世界」で粒子と波の重なり合いがあるからこそ、「マクロの世界」に「シュレーディンガーの猫」というあり得ない現象が起きてしまうという点が、このパラドックスの意味合いではないか、と考えたからです。ですから、「シュレーディンガーの猫」を使うのであれば、この二つの世界に分けることがどうしても必要なのでは、と思いました。
ですが、ナドレックさんがおっしゃる「巨視的量子現象」とか「メソスコピック系」といったものを取り込んでいけば、将来的には「シュレーディンガーの猫」自体が、実際に出現する可能性がないわけでもなさそうなのですね!
これには驚きました。
とすると、この先研究が十分進展すれば、事象の「重ね合わせ」を比喩的に解説するのに、いきなり「シュレーディンガーの猫」を持ち出しても、それほど唐突ではなくなる可能性がでてきますね。
なお、「量子力学における「多世界解釈」によれば、事象の重なり合い自体が解消されてしまう」と申し上げたことの意味が不明とのご指摘ですが、たぶんその解釈に従えば、「生きている猫を見出した観測者」と「死んだ猫を見出した観測者」とは、重ね合わさることなく別々の世界に別れて存在するのであって、そのために、シュレーディンガーが提起したパラドックス(「生きている猫」と「死んだ猫」との重なり合い)自体が解消されてしまうことになるのでは、と考えられます(注)。
ですから、「多世界解釈」に従えば、「事象の重なり合い」、たとえば「恋人が死んでいる状態と生きている状態の両方」が同じ世界で同時に登場するといったようなことは起こらないのではないか、「恋人が生きている世界」と「恋人が死んでいる世界」とは全く別のものになっていて、「重ね合わせ」の場合のように二つが同時に同じところで成立しているわけではないのではないか、と思われます〔ブログ記事(2)の「注4」もご覧下さい〕。
そういうところから、「重ね合わせ状態への映画なりのアプローチ」をしている本作品について、ブログ記事(3)のdにおいて、「それを適用するのは難しいのではないでしょうか?」と申し上げたところです。
また、「wiki」について「不適切」とのご注意を受けましたが、誠にご尤もなご指摘で、以後気をつけようと思います。ただ、他方で、手っ取り早く見やすい表現型であり、またWiktionaryも「ウィキ」を、「(狭義)ウィキペディア利用者にウィキペディアの略称として用いられる」と定義しているので、ハイパーリンクを設定するなど分かるようにしておけば、とも悩んでいるところです。
(注)佐藤勝彦監修『「量子論」を愉しむ本』(PHP文庫)にも、「半死半生の猫とは何だとか、波の収縮はいつ起きたのかとか、ミクロとマクロの境界がどうだなどという問題は一切発生せず、パラドックスはどこにも見当たらないのです」とあります(P.211)。
コペンハーゲン解釈と多世界解釈との違いは、コペンハーゲン解釈では重ね合わせ状態が観測されることで収束すると考えるのに対し、多世界解釈では「収束」を抜いて考えます。
収束しないのですから、重ね合わせたままです。
クマネズミさんが参照している『「量子論」を愉しむ本』の209ページをご覧ください。そこには多世界解釈についてこう書かれています。
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つまり一個の電子の中で「それぞれの場所にいる状態」が重なっているのではなく、「電子がそれぞれの場所にいる世界」が重なっている(同時進行している)わけです。
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これを「シュレーディンガーの猫」に当てはめれば次のようになります。
まず、猫は箱の中で生きた状態と死んだ状態が重なり合っています。
箱を開けて猫を観測すると、コペンハーゲン解釈では猫の状態が一つに収束して、生きているか死んでいるかどちらかの状態が観測されます。
多世界解釈では収束しないので、生きた猫を観測した状態と死んだ猫を観測した状態が重なり合っていることになります。生きた猫を観測した観測者にとって猫はただ生きているだけですし、死んだ猫を観測した観測者にとって猫はただ死んでいるだけなので、いずれの観測者もパラドックスがあるとは思いません。
『「量子論」を愉しむ本』には、「半死半生の猫とは何だとか、波の収縮はいつ起きたのかとか、ミクロとマクロの境界がどうだなどという問題は一切発生せず、パラドックスはどこにも見当たらないのです」と書かれており、「パラドックスはどこにもありません」とは書いてません。この記述は「パラドックスを認識できる主体がいないのです」と書いた方が判りやすいかもしれません。
同書には、あたかも世界が物理的に分離したかのような樹形図が掲載されていますが、この図は見なかったことにした方がいいと思います。
ウィキペディアでは、多世界解釈による「シュレーディンガーの猫」を次のように説明しています。
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「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の重なりあいのままであり何も起こらない。当然、「猫が生きている相対状態」に属する観測者は猫が生きていると観測し、「猫が死んでいる相対状態」に属する観測者は猫が死んでいると観測する。(略)あらゆる事象について、一般的な解釈と多世界解釈で予測される結果に差は出ない。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E8%A7%A3%E9%87%88#.E8.A9.B3.E7.B4.B0
ただ、ナドレックさんに従って「多世界解釈」を理解しようとすると、“多くの「世界」”という言葉が登場しえないのではないか、と思えてしまうのですが?
確かに、 『「量子論」を愉しむ本』の209ページには、「「電子がそれぞれの場所にいる世界」が重なっている(同時進行している)」とありますが、ここでいう「重なっている」は、「コペンハーゲン解釈」における“事象の重なり合い”、すなわち同一の世界内における“重なり合い”ではなく、単にそれぞれの「世界」が「同時進行している」、あるいは並存しているという意味に過ぎないのでは、と思われます。
それに、「多世界解釈では「収束」を抜いて考え」るというのは、「コペンハーゲン解釈」におけるような「観測者」の問題が、それぞれの「世界」では元々起きないからではないでしょうか(ある意味で、初めから「収束」してしまっているのでは)?
ナドレックさんは、「収束しないのだから、重ね合わせたまま」とおしゃいますが、元々それぞれ異なる世界なのですから、観測の問題も起こらず、事象の重なり合いもない、ということではないでしょうか(ニモにとっても、単調な「世界」しかありえないのかもしれません)?
すなわち、「猫は箱の中で生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」→「箱を開けて猫を観測する」→「生きた猫を観測した状態と死んだ猫を観測した状態が重なり合っている」という具合に物事が進行しないのでは、と考えられるところです。
単に、「生きた猫を観測した状態」の「世界」と、「死んだ猫を観測した状態」の「世界」とが「重なっている(同時進行している)」だけのことではないでしょうか?Wikipediaが言うように、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の重なりあいのままであり何も起こらない」わけですし、 『「量子論」を愉しむ本』が言うように、「パラドックスはどこにも見当たらない」ことになるのでは、と思われるところです。
なおまた、Wikipediaの「エヴェレットの多世界解釈」についてのページに「人間自身(及びいかなる情報処理システム)も、一つの相対状態に属するため「可能性全体」を認識することはできない」とあるところに従うと、おっしゃるように、『「量子論」を愉しむ本』の207ページの樹形図とか、211ページの図などはかなり誤解を招くでしょう(特に、後者では、「「原子核崩壊=有」の世界」と「「原子核崩壊=無」の世界」とが並存している様子を俯瞰することができる“神のような立場”があるように思われてしまいます!)。ですが、少なくとも、「生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」というパラドックスは“解消”されていると思われるところです。
>ナドレックさんに従って「多世界解釈」を理解しようとすると、“多くの「世界」”という言葉が登場しえないのではないか、と思えてしまうのですが?
そこで、拙ブログからリンクを張った解説ページでは、次のように書かれています。
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「多世界解釈」という名称にはかなりのインパクトがあっていいのだが、 この言葉自体が誤解の元になっているのも否めない。(略)「単一世界解釈」とでも呼んだ方がむしろいいくらいだ。
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ここまで来ると、モウ何が何だか訳が分からなくなってきます。
ただ、ナドレックさんが指摘されている解説ページによれば、「多世界解釈」とは、「互いに行き来できたり、別世界の自分と会話できたりする。過去に戻って重大な選択をやり直して、歴史を変えてしまったりする」ような「SF やアニメに出てくるパラレルワールド」ではないとされていますから、そもそも「シュレーディンガーの猫」も登場する余地がないのではないでしょうか?
なおまたそこでは、「神の視点で見ているようなイメージ」だから、「「単一世界解釈」とでも呼んだ方がむしろいいくらいだ」とされていますが、八百万の神を信ずる大和民族にあっては、どうしたらいいのでしょうか?
でも、いずれは日常的な常識と馴染みやすい理論が確立されるのではないでしょうか。まだ百年以上を要するかもしれませんが、私はそう期待しています。
こうした方面を復習するのに丁度よい機会を与えていただいたと感謝しております。
といっても、絵入りのわかりやすい本しか理解出来ないテイタラクなのですが!
実は、小飼弾氏が「最高のシェルパ」だとそのブログ(4月8日)で推薦している前野昌弘著『よくわかる量子力学』(東京図書)を覗いたりしたものの、やはり文科系の者には数式を次々に並べられると、手が出せません。
でも、数式を伴わない説明は、なんだかごまかしがあるように思え、どこまで信用していいのか、という感じに捉えられてしまいます。
きっと、ナドレックさんがおっしゃるように、「いずれは日常的な常識と馴染みやすい理論が確立される」と思います。ですが、その前に(!)こちらとしては数学アレルギーをなんとか克服したいものだ、少なくとも基本となる「波動関数」くらいは数式で理解出来ないものか、と考えること頻りです。