映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

阪急電車

2011年05月15日 | 邦画(11年)
 『阪急電車―片道15分の奇跡―』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)この映画は、阪急電車(今津線)の沿線の事情をある程度知っている人には、共感を呼ぶところが多々あるでしょうし、大阪に住んで宝塚線の方を利用していたことでもあれば、内容がどんなであっても許してしまうと思われるところ(舞台が、同じくらいの短さの「井の頭線」だったら、通勤でお世話になっているわけですから、クマネズミも文句なしにOKしてしまいます!)、生憎とクマネズミは関西に住んだことが全然ないこともあって、こうした映画の作り方にはあまり共感を覚えませんでした。




 例えば、
a.宮本信子扮するおばあさんの、人生の先の先まですべて見通してしまっている様な態度が気に入りません。というのも、彼女は終戦の年に生まれていますが、その年齢で人はあのように悟りきれるものなのでしょうか(むろん、俳優の実年齢と登場人物の設定年齢とは違うのでしょうが!)?



 マアそれも中谷美紀に対する1回限りのものならば許されるでしょうが(しかし、事情を詳しく知らずに「会社を辞めなさい」とまで言えるのでしょうか?)、復路の電車の中で、騒ぎまくる中年の主婦たちに対するお説教とかは、うんざりといった感じになります(中年過ぎの女性たちがあのように元気ならば、許してやろうではないですか!)。

b.戸田恵梨香と暴力男との話し合いに、戸田の親友が出席するのは分からないでもありませんが(でも、あくまでも個人の話ではないでしょうか?)、その兄貴まで登場し、まして彼が空手をやるというのでは、ご都合主義もいいところではないかな、と思いました。

c.その戸田恵梨果が、今度はずっと年上の南果歩に教訓を垂れるのですから何をか言わんやです。まあ、それを黙って聞く南果歩も南果歩ですが。

d.玉山鉄二有村架純とラブホテルに入ってからの行動は、青年はこうあって欲しいの見本のようなものでしょうし(玉山鉄二も30歳を超えているのに)、また谷村水月勝地涼とがクリスマス・イブの夜に部屋で炬燵に入っているときの様子もエイズ教育の教科書を見ている感じです。

e.ラストで中谷美紀が「悪くないよね、この世界も」と戸田恵梨香に言うのは、この映画から観客へ向けてのメッセージなのでしょうが、そんなものは観客に黙って感じ取らせるべきものであり、こうもあからさまに持ち出されるとゲンナリしてしまいます。

 いうまでもなく、すべてこうであればいいのになということが頗るファンタジックに描かれていて(だからこそ「奇跡」と副題にあるのでしょう!)、決して実際にこういうことがあるというわけではないため、こんなふうにいくら論ってみても無意味でしょう。
 それにしても、そんなことばかり続けて2時間も見せられる方としては堪ったものではない、との感じになってしまうのですが。
 それに、この映画で言われていることの大半は、周りでとやかく批難したりするよりも、本人たちが自ずから気付いて然るべきものであって、この映画のように、周りの者が実際に口にしてしまうと逆効果しか得られないのでは、と却って危惧してしまいます(中年の女性たちは、電車を降りると憤激しています!)。

 それでも、中谷美紀以下の俳優も、それぞれの持ち味をうまく出しているのではと思います。なかでも、谷村美月は、『海炭市叙景』でもそうでしたが、この映画でもその気真面目なところがうまくはまっているなと思います。

 また、全体を「往路」と「復路」の2部構成にし(時期も秋と春を選別し)、8つの駅をそれぞれうまく紹介し(「門戸厄神」とか「小林(おばやし)」といった駅名が注目されます)、よく練られて作られているとは思います。

(2)特に、映画の構成という点からすると、前半は「往路」とされ、宝塚駅から西宮北口駅までの8つの駅に絡んで起こることが、ある意味で問題提起といった形で描かれ、映画の後半の「復路」(西宮北口駅→宝塚駅)における問題解決と対をなすように、大体のところ作られているようです。

 例えば、「往路」では、宮本信子は、犬を飼いたいとねだる孫に対し「犬は飼わないと決めてるの」とニベもなく拒絶しますが、「復路」では彼女はミニチュアダックスを連れています。その間に、彼女の心をほぐす出来事があったようです。
 また、中谷美紀は、「往路」では、自分を捨てた男の結婚式に、タブーとされる純白のドレス姿で出席するところ、「復路」では、彼のいる会社を辞め、住まいも阪急電車沿線に移しています。
 さらに、「往路」では、戸田恵梨香は、暴力男と別れることになかなか踏ん切りがつかないものの、「復路」では、親友らの協力もあり彼とキッパリ別れます(回想シーンながら)。



 勿論、すべてのエピソードがそんなに杓子定規に分けられているものでもなく、例えば、小林駅でのいじめの話は「復路」だけの出来事になっています。
 とはいえ、映画全体としては、「往路」と「復路」とが対をなしている印象を受けました。

(3)そこで、とんでもない方向に飛んでしまい甚だ恐縮ですが、ここにはもしかしたら親鸞の「往相・還相」の考え方が垣間見られるのではないかと思ったところです(注1)。

 例えば、評論家の吉本隆明氏の『最後の親鸞』(春秋社、1976年)では、次のように述べられています。
 親鸞の『歎異抄』の第四条について、「ここには往相浄土だけでなく、還相浄土のことが云われている。念仏によって浄土を志向したものは、仏になって浄土から還ってこなければならない。そのとき相対的な慈悲は、絶対的な慈悲に変容している。なぜなら、往相が自然的な上昇であるのに、還相は自覚的な下降だからである」(P.150:ちくま文庫版、P.145)(注2)。
 なかなか理解するのが難しいのですが、吉本氏は、親鸞の「聖道の慈悲」を「往相浄土」と捉え、「浄土の慈悲」を「還相浄土」と捉えているようです。そうであれば、「往相」とは、親鸞が「ものを不憫におもい、悲しみ、たすけ育ててやること」と述べているのに相当し、「還相」とは、「大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益すること」に相当するのではないかと思われます(注3)。

 そこで例えば(以下は、曲解に次ぐ曲解ですが)、「往路」では、宮本信子は、犬を飼いたいとの孫の要求を拒否しますが、それは昔の出来事の記憶に基づいてなされた反応ですから、あるいは「往相」かもしれませんし、にもかかわらず、「復路」では彼女は孫の要求を受け入れています。その間に、彼女の亡夫にソックリの青年に出会ったことが彼女の心を大きくほぐしたようですから、「還相」と言ってみてはどうでしょう。

 また例えば、本作品で中谷美紀が、自分を捨てる男に対して、自分を結婚式に出席させるなら許すというのが「往相」で、その男が働く会社を辞め住まいも引っ越してしまうのが「還相」と考えてみたら、あるいは面白いのではないでしょうか(「許す」と言いながらも、結婚式に純白のドレスを来て出席するというのは対決姿勢を見せつけることですから、まだ相手との関係を絶っているわけではありませんが、会社を辞め住まいを換えるとなれば、相手を自分の視野から完全にはずすということになるのではないでしょうか?こうした一連の行動によって、彼女は、一種の悟りの境地に立ったのかもしれません)?

 逆に、宮本信子が、中年女性達に対して真っ向からお説教を垂れるのは、まだまだ俗世から抜け切れておらず、修行が足りないのかもしれません(単に、中年女性を怒らせたに過ぎませんから!)。
 また、中谷美紀が仲間はずれにされた小学生に、「きれいな女は損するようにできている」などと如何にも訳知り顔でご託宣を垂れるのも、マアお門違いでしょう(結局は、仲間はずれの状況は解消されないのですから!)。
 ここでの言葉遣いからすれば、せいぜい「往相」はあるにせよ、「還相」は見られないと言って見たらどうでしょうか?

 とこんなことを言ってしまうと、クマネズミが、この『阪急電車―片道15分の奇跡―』についてイロイロ文句を申し立てていること自体、「往相」にも立ち入れない下衆の戯言にすぎないのでしょう!

 なお、ここで、30年ほど前に出版された吉本氏の著書をわざわざ持ち出しましたのは、ついこの4月に、勢古浩爾氏の『最後の吉本隆明』(筑摩選書)が刊行され、最後の50ページ以上にわたって吉本氏の親鸞論を取り上げていて、それも随分と読ませる内容をもっているなと思えたことがあるからです(注4)。


(注1)親鸞の『教行信証』の教巻冒頭では、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」と述べられています(岩波文庫版、P.29)。
 また、『親鸞和讃集』では、例えば、「弥陀の廻向成就して/往相還相ふたつなり/これらの廻向によりてこそ/心行ともにえしむなれ」(岩波文庫版、P.99)とあります。

(注2)また、『最後の親鸞』では、次のように述べられているところもあります。「親鸞は、<知>の頂きを極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる」(P.8:ちくま文庫版、P.17)。

(注3)親鸞の引用は、『歎異抄』の第四条を吉本隆明氏が現代語訳したものによっています。

(注4)例えば、「わたしは、吉本隆明の、生まれて、生きて、老いて、死ぬ、という生涯が最も価値ある生だという言葉は、還りの言葉なのだと考える」が、ただ「それが「還り道」の言葉であり思想だから」、「自分の夢を追って、成功して、家と車を買って、海外旅行もし、家族団欒で、愉しく暮らしたい」という「往きの言葉」に対して、「なんの説得力もない」、と勢古氏が述べているのは、なるほどと思いました(P.302及びP.349)。
 ただ、勢古氏がどんな風に論評するのかなと期待した吉本氏の「主要三部作」について、『言語にとって美とはなにか』に関しては、「この作品のもつ意味がついにわからなかった」(P.183)、また『共同幻想論』は「読んでおもしろいわけではない」(P.192)、それに『心的現象論』は「ちんぷんかんぷん」(P.189)と素通りしていて、その点は残念ですが。


(4)渡まち子氏は、「狭い車内で少しだけ同じ空間を共有し、また別れていく。ライトな距離感が、明るい車窓の風景のように自然と目を和ませる。ありふれた風景がもしかしたら小さなファンタジーにつながっていると思うと、前向きになれる気がしてくるのだ。いい味を出してくれたのは、出番は少ないが、心優しいホテルマンを演じる大杉漣。阪急電鉄の全面協力によるロケのおかげで、車内の風情や沿線の風景がとても丁寧に描かれていて好感が持てる」として55点を与えています。
 福本次郎氏は、「上品だが驕らず、人情豊かだが他人の領域にまでズケズケと踏み込まない、その距離感をわきまえたバラエティに富んだキャラクターが心地よい」し、「様々な世代の人種が交錯するなかで、どこかに観客が共感を持てるポイントをつくり、きちんとオチをつけている脚本が非常に洗練されている。そして悩みをクリアした彼らが次のステップに向かって歩き出す姿が素晴らしい」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「登場人物たちはみな、自分など他人に影響を与えることなどない、とるにたらない人間だと思っている。しかし、彼らのささやかな善意が、思いもよらぬ波状効 果でまったく知らない人たちの人生を素晴らしいものに変えてゆく。たとえ平凡でも、誠実に生きることがいかに世の中を良くしているかを描く、この映画は心 強い応援歌である」、「心が弱ってる人に勇気を与える1本としては、現在見渡す限りこれ以上のものはない。今日まで生きててよかった、報われたと感じさせてくれる良作である」と手放しで絶賛し、85点もの高得点を付けています。




★★☆☆☆




象のロケット:阪急電車