映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ダーリンは外国人

2010年05月12日 | 邦画(10年)
 チョット軽めのラブコメでもと思って、『ダーリンは外国人』を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

(1)見て少々驚いたのは、この手の映画にしては、随分といい俳優が脇役を務めているなという点です。
 なにしろ、主人公さおり(井上真央)の母親が大竹しのぶですし、父親も國村隼なのですから。
 大竹しのぶは、『たみおのしあわせ』とか『石内尋常高等小学校』で見ましたし、國村隼も『板尾創路の脱獄王』とか『花のあと』で見たばかりです。
 
 そうした演技力抜群の俳優たちが脇を固めているのですから、あとは映画の中心となるさおりとトニーが頑張れば、まずは平均点の映画が出来上がること請け合いでしょう!

 そこでその頑張り方を見てみますと、さおりとトニーがあんなに若いのに湘南の一戸建ての家(平屋にしても)に住めるのか、という疑問はサテ置くとして、ストーリー的には、さおりは漫画家としてメジャーデビューすべく、漫画にも生活にも猛烈に頑張っている姿が描かれています。演ずる井上真央も、私はこれまで余り見たことはありませんが、随分とよくやっているなと思いました。

 ですが、トニーは一体どんな仕事を日常的に行っているのか、映画からはマッタク分かりません(一応は「ライター」とされていますが)。主夫のごとく、掃除・洗濯したり、台所の後片付けをしている様子はコミカルに描かれているところ、一定の収入を得る手段としてトニーは具体的に何をしているのでしょうか?
 それと、外国人であるトニーが日本の特殊な慣行などに出会って酷く戸惑ったり、馬鹿なことをしでかしたりしてしまう場面が余りありません。あるのは、「踏切」という単語がなかなか思い浮かばなかったり、米国にやってきたさおりをみつけて「ここであったが百年目」などと叫んだりしたりという、かなり穏便なレベルにすぎないのです(なにしろ、「華」という漢字に美を見出して日本にやってきたという人なのです!)。
 さらには、自分がアメリカで身につけてきた特有の生活慣習に執着して、さおりなどの顰蹙を買ったりする場面も余りありません。
 トニーを巡る状況にもう少し深く切り込んだ映画作りがなされなかったものかと思ってしまいました。井上真央が主役にしても、一応は「ダーリンは外国人」というタイトルの映画なのですから!
 加えて、演ずるジョナサン・シェアが、草食系男子然としていて酷く優しい雰囲気を醸し出しているために、大勢の間に入ると印象が薄くなってしまいます。

 マア、全体として脇役陣の凄さの目立つラブコメだなと思いました。

(2)トニーが初めの方で、「漢語」と「和語」の違いを言い出します。
 普段、日本人は、そんな区別を余りしませんし、学校でも、ことさらそんな区別は習わなかったように思われます。

 そこで、トニーがアメリカで学んだに違いない日本語学習関係の本をぱらぱら見ると、日本語は、「語種」という観点から、日本古来の「和語」、中国の漢字音を用いた「漢語」、漢語以外で多言語に由来する「外来語」、それにそれらの組み合わせである「混種語」に分類されるとされています。
 たとえば、“ひる”は和語、“昼食”は漢語、“ランチタイム”は外来語、“ランチ弁当”は混種語といったところでしょう。

 Wikipediaで「語種」を見ると、国立国語研究所の調査によれば、1956年と1994年とでは、日本で出版されている雑誌が使っている語彙について、和語の使用は退潮しており、外来語が著しく増加していると述べられています(ただ、延べ数でみると、なお、和語・漢語が外来語に勝っているようですが)。

 ただ、「はつか(二十日)」は、「和語」の1語とすべきなのか、そうではなくて、和語の「はたち(二十)」に漢語「か(日)」がくっついたものだから「混種語」とすべきなのか、「カラオケ」は、「外来語」の1語とすべきなのか、そうではなくて、漢語の「カラ(空)」に外来語の「オケ(オーケストラの省略形)」がくっついたものだから「混種語」とすべきなのかなど、そう簡単に分類できないような問題がいくつも転がっているように思われるところです。

(3)映画評論家は、総じて余り高く評価していないようです。
 渡まち子氏は、「“ド肝を抜かれる”ほどの目新しさはないものの、「みんな違って当然」という当たり前のことを教えてくれるあたたかい物語」で、ただ「気になるのは、さおりがアメリカに行ってからの描写が安易すぎること」だ、として50点を、
 福本次郎氏も、「同じ人間同士、お互いが理解しよう・理解させようと努力し続ければ国籍や民族の壁は乗り越えられると言いたいのはよくわかるのだが、後半のプロセスは表層 をなぞっている感じ。もっと生理的に拒否反応する部分などもリアルに描き込んで欲しかった」として50点を、
 前田有一氏は、「まずストーリーについて、二人の結婚を物語のゴールに設定した事がそもそもの間違いである。国際結婚など珍しくもない今の時代、それを目指して必死になる 二人……というストーリーには魅力のカケラもな」く、「20年前のトレンディドラマのような凝った告白セリフを言わせたりするから失笑をかう」のであって、「では何をすべきだったかと言えば、他のラブコメと違って本作だけが持つ唯一の武器、「異文化ギャップによる笑い」を極めることであろう」として40点を、
それぞれ付けています。

 ただ、低い評価は分かるにしても、前田氏の言っていることはあまり理解出来ません。この映画は、通常のラブコメにすべく、単にストーリーのタテ糸として結婚話をとりいれただけで、それがなければヨコ糸としての「異文化ギャップによる笑い」は、単なるエピソードの羅列になってしまうことでしょう。
 前田氏は、「こうしたギャグをいまの50倍ほど考え、厳選して配置することだ。たっぷり笑わせたその上で、トニーのキャラクターになごませ、予定調和なラストで幸せ気分を味あわせる」べきだと述べていますが、ヨコ糸の「ギャグ」を一体どこにどのように「配置」すればいいのでしょうか?その場合の「タテ糸」としてはどんなものが考えられるのでしょうか?そこのところを明示しなければ、単にもっとギャグを面白くすべきだと述べているに過ぎず、「ラブコメ作りの肝を分析せずに作った」「ひどい代物」で“今週のダメダメ”とまで酷評出来ないのではないかと思われますが?


★★★☆☆


象のロケット:ダーリンは外国人