「映画ジャッジ」の評論家の評価が比較的高いこともあって、『ソラニン』を渋谷のシネクイントで見てきました。
(1)この映画で目につく中年過ぎの大人といったら、主人公・芽衣子(宮崎あおい)の母親(美保純)と、その恋人の種田(高良健吾)の父親(財津和夫)で、それぞれ1回ほど簡単に登場するだけにすぎません。ほとんどの場面は、宮崎あおい以下の若者しか登場しませんから、まさに現代の青春映画と言っていいでしょう。
〔彼らの親は、子供の生き方を容認(あるいは黙認)していると言えます。一昔前なら、あてもなく暮らしている子供たちを見たら、普通の親は自分のもとに強制的に連れ帰ることでしょう〕
加えて、映画では、若者たちを巡る設定が、かなり今的なものになっています(注)。
まず、種田と同棲している芽衣子は、卒業後一般の会社に就職しますが、つまらない仕事や人間関係に嫌気がさしています。
また、大学の軽音楽サークルで知り合った男たち3人が、卒業してもバンド活動を続けています。それも、種田(ボーカル、リードギター)がフリーターとしてイラスト関係の会社で働いており、もう一人(ドラマー)は家業の薬局を継ぎ、3人目(ベーシスト)は留年して大学に残っているというように、別々に取り出せば現在どこにもありそうな設定となっています。
要すれば、いわゆる“真の自分”を発揮できる居場所には、誰もいないのです。
この4人が、それぞれの居場所で自分にピッタリこない感じを出すエピソードは、なかなか工夫されていると思いました。
たとえば、芽衣子は、上司に、一方で作業の仕振りについて酷く怒られるも、他方で食事に誘われたりします。また、種田は、イラストの仕事の最中、物差しをイヤホーンから流れてくる曲に合わせて、狂ったように敲き続けてしまいます。
これではいけないと、“真の自分”を取り戻すべく、芽衣子は会社を2年で辞め、種田もフリーターをやめて作曲に専念しようとします。他の2人もバンド活動に一層身を入れようとしたところ、途端に種田がアッサリと交通事故死するのです。
芽衣子は、それまでギターに触ったことがないにもかかわらず、種田の後釜になって、彼の残した「ソラニン」という曲を演奏すべく、練習に明け暮れます。
ラストのライブのシーンは、「ソラニン」という曲が悪くないせいもあって、大層感動的でした。
という具合に、ある意味でよくある話なのでしょうが、この映画では、テンポを抑えてじっくりと描き出され、最後のライブ・シーンもそれでメジャー・デビューにつながって云々というわけでもなく、全体として地に足のついた作品となっているのではと思いました。
(注)評論家の粉川哲夫氏は、「この映画は、80年代の話でも、90 年代の話でもない。少なくとも、登場する「小道具」や「大道具」を見るかぎり、時代は「現代」である」。ところが、「フリーター」や「バンド」が、最も輝いていたのは1980年代であ」って、「2010年のいま、「フリーター」や「バンド」はほとんど死語になってしまった」と述べていますが。
(2)こう見てくると、この作品の背景となっている社会状況は、5月22日の記事の(3)で取り上げた『希望格差社会』(山田昌弘著)が描き出しているものにヨク通じているように思えてきます。
すなわち、その著書によれば、「現在の日本社会は、「努力が報われない機会」が増大する社会」(P.231)のであり、「希望がなくなる、つまり、努力が報われる見通しを人々が持てなくな」る社会なのであって、そこでは「新しい経済システムに適応できる能力のある人と、落ちこぼれてフリーター化する人の格差が広がっている」(P.258)のです。
そして、「努力しても報われないという現実の自分の状況を忘れさせてくれるものが、理想の仕事、理想の相手という「夢」なのである」が、「ここに、自己実現の罠が生じ」、「妥協して自分の現在の能力にあった仕事に就くことは、「夢を捨てる」ことにな」ると思われて(P.251~P.252)、フリーターをやめるわけにはいかないと思いがちになってしまいます。
映画でも、種田が、一緒にボートに乗っているとき、芽衣子に「俺たち別れよう」と言って田舎に帰るつもりのことを告げると、芽衣子は「そんなの種田らしくないよ」と、自己実現の夢を降りたがっている種田にプレッシャーをかけたりします。
他方で、種田も、就職する芽衣子に向って、「いくら就職しづらい時代だからといって、芽衣子さんはお茶汲んだりするために生まれてきたわけじゃないじゃんか」などと言ったりもします。
頭では、「未来には全然希望の光は見えてこなくて、退屈な毎日が続くんだ」とわかっていながらも、他方で、「自分はすごいことができるんじゃないか」とも思っていて、それになんとしてでもしがみついていたい、というわけなのでしょう。
芽衣子たちは、「ソラニン」を歌ったあとは一体どうやって生きていくのでしょうか?
(3)映画評論家は総じて好意的な論評をしています。
小梶勝男氏は、「誰もが物語の主人公になれるわけではない。多くの凡人たちは、他人に夢を託すしかないのだ。むしろ、本作の登場人物たちは生活を大事にするという点では、健全といえる。終戦後の破れかぶれの若者たちでも、政治の季節の若者たちでも、バブルに狂った若者たちでもない、不況の世の中で等身大に生きる若者たちが、ここにいる」として75点を、
福本次郎氏は、「夢だけを追うには歳を取り過ぎ、夢をあきらめるには若すぎる。大人になる前にやり残したことに未練を覚えている若者と、彼を応援ている恋人。目標に向かって努力しているつもりでも、居心地のいい“今”に押し流され、何者にもなれずにもがいている主人公の感情が非常に切なくてリアルだ」として70点を、
渡まち子氏は、「クライマックスの、芽衣子とバンドの仲間たちによるライブは圧巻だが、彼らの目標はプロデビューやコンテストでの優勝などではないところがいい。あくまでも大切な人間を失った悲しみを乗り越えるために歌うという点が素晴らしく、ピュアなその思いが感動を呼ぶ」として65点を、
それぞれつけています。
★★★☆☆
象のロケット:ソラニン
(1)この映画で目につく中年過ぎの大人といったら、主人公・芽衣子(宮崎あおい)の母親(美保純)と、その恋人の種田(高良健吾)の父親(財津和夫)で、それぞれ1回ほど簡単に登場するだけにすぎません。ほとんどの場面は、宮崎あおい以下の若者しか登場しませんから、まさに現代の青春映画と言っていいでしょう。
〔彼らの親は、子供の生き方を容認(あるいは黙認)していると言えます。一昔前なら、あてもなく暮らしている子供たちを見たら、普通の親は自分のもとに強制的に連れ帰ることでしょう〕
加えて、映画では、若者たちを巡る設定が、かなり今的なものになっています(注)。
まず、種田と同棲している芽衣子は、卒業後一般の会社に就職しますが、つまらない仕事や人間関係に嫌気がさしています。
また、大学の軽音楽サークルで知り合った男たち3人が、卒業してもバンド活動を続けています。それも、種田(ボーカル、リードギター)がフリーターとしてイラスト関係の会社で働いており、もう一人(ドラマー)は家業の薬局を継ぎ、3人目(ベーシスト)は留年して大学に残っているというように、別々に取り出せば現在どこにもありそうな設定となっています。
要すれば、いわゆる“真の自分”を発揮できる居場所には、誰もいないのです。
この4人が、それぞれの居場所で自分にピッタリこない感じを出すエピソードは、なかなか工夫されていると思いました。
たとえば、芽衣子は、上司に、一方で作業の仕振りについて酷く怒られるも、他方で食事に誘われたりします。また、種田は、イラストの仕事の最中、物差しをイヤホーンから流れてくる曲に合わせて、狂ったように敲き続けてしまいます。
これではいけないと、“真の自分”を取り戻すべく、芽衣子は会社を2年で辞め、種田もフリーターをやめて作曲に専念しようとします。他の2人もバンド活動に一層身を入れようとしたところ、途端に種田がアッサリと交通事故死するのです。
芽衣子は、それまでギターに触ったことがないにもかかわらず、種田の後釜になって、彼の残した「ソラニン」という曲を演奏すべく、練習に明け暮れます。
ラストのライブのシーンは、「ソラニン」という曲が悪くないせいもあって、大層感動的でした。
という具合に、ある意味でよくある話なのでしょうが、この映画では、テンポを抑えてじっくりと描き出され、最後のライブ・シーンもそれでメジャー・デビューにつながって云々というわけでもなく、全体として地に足のついた作品となっているのではと思いました。
(注)評論家の粉川哲夫氏は、「この映画は、80年代の話でも、90 年代の話でもない。少なくとも、登場する「小道具」や「大道具」を見るかぎり、時代は「現代」である」。ところが、「フリーター」や「バンド」が、最も輝いていたのは1980年代であ」って、「2010年のいま、「フリーター」や「バンド」はほとんど死語になってしまった」と述べていますが。
(2)こう見てくると、この作品の背景となっている社会状況は、5月22日の記事の(3)で取り上げた『希望格差社会』(山田昌弘著)が描き出しているものにヨク通じているように思えてきます。
すなわち、その著書によれば、「現在の日本社会は、「努力が報われない機会」が増大する社会」(P.231)のであり、「希望がなくなる、つまり、努力が報われる見通しを人々が持てなくな」る社会なのであって、そこでは「新しい経済システムに適応できる能力のある人と、落ちこぼれてフリーター化する人の格差が広がっている」(P.258)のです。
そして、「努力しても報われないという現実の自分の状況を忘れさせてくれるものが、理想の仕事、理想の相手という「夢」なのである」が、「ここに、自己実現の罠が生じ」、「妥協して自分の現在の能力にあった仕事に就くことは、「夢を捨てる」ことにな」ると思われて(P.251~P.252)、フリーターをやめるわけにはいかないと思いがちになってしまいます。
映画でも、種田が、一緒にボートに乗っているとき、芽衣子に「俺たち別れよう」と言って田舎に帰るつもりのことを告げると、芽衣子は「そんなの種田らしくないよ」と、自己実現の夢を降りたがっている種田にプレッシャーをかけたりします。
他方で、種田も、就職する芽衣子に向って、「いくら就職しづらい時代だからといって、芽衣子さんはお茶汲んだりするために生まれてきたわけじゃないじゃんか」などと言ったりもします。
頭では、「未来には全然希望の光は見えてこなくて、退屈な毎日が続くんだ」とわかっていながらも、他方で、「自分はすごいことができるんじゃないか」とも思っていて、それになんとしてでもしがみついていたい、というわけなのでしょう。
芽衣子たちは、「ソラニン」を歌ったあとは一体どうやって生きていくのでしょうか?
(3)映画評論家は総じて好意的な論評をしています。
小梶勝男氏は、「誰もが物語の主人公になれるわけではない。多くの凡人たちは、他人に夢を託すしかないのだ。むしろ、本作の登場人物たちは生活を大事にするという点では、健全といえる。終戦後の破れかぶれの若者たちでも、政治の季節の若者たちでも、バブルに狂った若者たちでもない、不況の世の中で等身大に生きる若者たちが、ここにいる」として75点を、
福本次郎氏は、「夢だけを追うには歳を取り過ぎ、夢をあきらめるには若すぎる。大人になる前にやり残したことに未練を覚えている若者と、彼を応援ている恋人。目標に向かって努力しているつもりでも、居心地のいい“今”に押し流され、何者にもなれずにもがいている主人公の感情が非常に切なくてリアルだ」として70点を、
渡まち子氏は、「クライマックスの、芽衣子とバンドの仲間たちによるライブは圧巻だが、彼らの目標はプロデビューやコンテストでの優勝などではないところがいい。あくまでも大切な人間を失った悲しみを乗り越えるために歌うという点が素晴らしく、ピュアなその思いが感動を呼ぶ」として65点を、
それぞれつけています。
★★★☆☆
象のロケット:ソラニン
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