映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ドン・ジョバンニ

2010年05月05日 | 洋画(10年)
 『ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』を渋谷ル・シネマで見ました。
 これまで、モーツアルトのオペラを映画化したものは『魔笛』(2007年)を見ましたし、モーツアルトの生涯については有名な『アマデウス』(1984年)を見ました。いずれも大層面白かったので、これも見てみようということになりました。

(1)邦題にある副題「天才劇作家とモーツァルトとの出会い」のことは意識せずに、『ドン・ジョバンニ』というタイトルだけ覚えていたために、この映画はてっきりモーツァルトのオペラを映画化したものと思っていました(注1)。
 ですが、実際に見てみますと、劇作家のダ・ポンテがモーツァルトに出会って、このオペラの台本を書くに至るまでの経緯を映画化したものといえそうです。
 といっても、そこは様々な工夫が凝らされていて、ダ・ポンテの女性との交遊歴、モーツァルトとその父親との関係(途中で、父親の死の知らせが飛び込んできます)、それにカザノヴァの遍歴とがオペラ『ドン・ジョバンニ』に流れ込み、そこで生み出されたもので彼らが逆に動かされてしまうといった複雑な作りになっています。
 なにより、彼らが動き回る舞台となるウィーンの街が、劇の舞台のように書き割りになっていたりして(街路の様子を印刷したパネルが取り囲んでいます)、モーツァルトの部屋がすぐにオペラの舞台に移行してしまいます。
 要するに、リアルな物語の進行と、ファンタジックなオペラの進行とが非常にスムースに接合されていて、見ている方はおのずと夢幻的な世界に引き入れられてしまいます。

 大変面白い映画なのですが、1点問題があるように思われます。
 というのも、副題でダ・ポンテのことを「天才劇作家」と持ち上げているところ、いったいどこがどう“天才”なのか、この映画からは全然わからないという点です(もちろん、モーツァルトの“天才”ぶりだって、予めその音楽を知っているから、そして有名な『アマデウス』(1985年)を見ているからこそわかるようなものですが!)。
 彼は相当たくさんの台本を書いたそうです。ただ、我々が簡単に目にできるのはモーツァルトが作曲した3作くらいで、それも、『フィガロの結婚』はボーマルシェの原作がありますし、この『ドン・ジョバンニ』も先行作がいろいろあるようです(モリエールの『ドン・ジュアン』など)。
 それに、元々、オペラは歌や音楽が主体ですから、あまりストーリーに重点いた作りにしてしまうと観客がついていけなくなるおそれがあって、筋は一般に他愛のないものが多くなっています。
 それでも、そうした台本を沢山作りだしたダ・ポンテを“天才”呼ばわりするのであれば、何がしかそれがわかるシーンが必要ではないのか、それがないのであればそんな副題は余計なものと言えるでしょう。

 もっといえば、ダ・ポンテは、カザノヴァと見紛うくらいに放蕩とされているところ、映画から受ける印象は、俳優が実に端正な美男子であるせいもあって、誠実な若者といった感じしかしないのです。オペラ歌手フェラレーゼと一緒に生活していたにもかかわらず、出生地のイタリアで出会って以来胸に秘めていた女性・アンネッタとウィーンで偶然出会ったら、早速そちらに乗り換えたからと言って、そんなことだけでダ・ポンテが「放蕩者」と非難されるいわれはありませんから!

(2)この映画では、イタリアを追放されたダ・ポンテがウィーンでモーツァルトと初めて会うのが、教会のオルガンの前とされています。そのオルガンを使って、モーツァルトは、有名なバッハの「トッカータとフーガ」を弾いているのです。
 両者の出会いも面白いシーンですが、映画では先ずオルガンの裏側にある別室が画面に映し出され、そこで二人の若者が「ふいご」を操作してオルガンに空気を送り込んでいる様子が捉えられています(原理は下図のようです)。なるほど巨大なバロック時代のオルガンもこうした人力に頼っていたのか、と興深いものがありました。



 ところで、モーツァルトがオルガンを弾いている場面を見ると、彼はそんなことまでできたのか、と思ってしまいます。ですが、両者の関係について、あるブログには次のように書かれています(注2)。
「モーツァルトは少年時代からオルガンの演奏で人々を驚かせていた」。
「モーツァルトが1789年にライプツィヒを訪れ、バッハゆかりの聖トーマス教会のオルガンを弾いた時、かつてバッハの弟子であった老楽長は「師がよみがえったようだ」と言ったというエピソードが残されている」。
「モーツァルト自身「オルガンはあらゆる楽器の王様」と言っており、彼の死後、妻のコンタンツェは「モーツァルトの好きな楽器はオルガンでした。オルガンの演奏にかけては、あの人の右に出る者はいませんでした」と語っている」。
「しかし残念なことに、モーツァルトは厳密な意味でのオルガンの独奏曲は1曲も残していないのである。オルガン・コンチェルトの形で書かれた教会ソナタのほかには、機械仕掛けの自動オルガンのための曲しかない。つまり彼は自分の即興演奏を五線譜に書き留めておかなかったのである」。

 モーツァルトは、バッハが余りに偉大で彼を凌ぐような曲を作曲できなかったために、自分の曲を残さなかったとは考えられないでしょうか(注3)?

(3)評論家の評判も大層良いようです。
 渡まち子氏は、「映画は史実を自由に膨らませているが、それを象徴するのが、名撮影監督ヴィットリオ・ストラーロのアーティスティックで品格のある映像だ。特に、透下光の一種トランスライトの演出が、現実と物語の二つの異なった場面を同時に見せて、素晴らしい」として70点を、
 福本次郎氏は、「オペラの中に男女の駆け引きと人生の真実まで盛り込む過程を、現実とオペラのシーンを巧みに交えて描くのだ。当時の風俗や街の雰囲気を克明に伝える一方、普遍的な男女の恋愛心理をリアルに再現して」おり、「あくまで自身の直感や心の声に従い、人間の精神の自由を信じ、誰もやらなかった試みに敢えて挑戦する、そんな後世から天才と称えられるアーティストたちの魂が感じられる作品だった」として80点を、
それぞれ与えています。
 ただ、福本氏の論評は、「当時の風俗や街の雰囲気を克明に伝える」とか、「後世から天才と称えられるアーティストたち」とかいうように、見たまま・言われるままのことを素直に信じ切っているような印象を受けますが……。


(注1)原題はイタリア語で「IO, DON GIOVANNI」、訳せば「私、ドン・ジョバンニ」(英語では、「I, DON GIOVANNI」)とかなり意味深になります。
(注2)「湘南モーツアルト愛好会」の第36回例会に関する記事
(注3)ちなみに、4月17日の記事の注で触れましたフェルナンド・ソルは、『魔笛の主題による変奏曲』という実にすばらしい曲を作曲しています。ブライアン・ジェファリ著『フェルナンド・ソル』(浜田滋郎訳、現代ギター社、1979)には、「1821年の初めにロンドンで出された」ものが「初版」であり、かつまた「ソルが用いた主題は《魔笛》第1幕の終わり近くに出る歌で、ドイツ語の原題を〈Das klinget so herrlich(いとも天国的にひびく)〉という」と述べられています(P.94~P.95)。
 違う意見もあったりするようですが、オペラ『魔笛』からの楽譜とソルの変奏曲の楽譜とを比べてみたら面白いと思います。


★★★☆☆

象のロケット:ドン・ジョバンニ