映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

川の底からこんにちは

2010年05月22日 | 邦画(10年)
 石井裕也監督の最新作『川の底からこんにちは』を渋谷ユーロスペースで見てきました。

 予告編を見て面白そうだなと思い、また今大活躍中の満島ひかりの主演作だということもあって、映画館に出かけてみた次第です。

(1)久しぶりのユーロスペースのところ、土曜日のせいもあるでしょうが、立ち見も出るほどの盛況でした。

 実際にも、予想にたがわず頗る上出来の作品です。なにしろ、主役の木村佐和子(満島ひかりが扮しています)のやることなすことが人を食ったことばかりなのです!

 冒頭の場面から驚き入ります。佐和子がクリニックで腸内洗浄を受けているシーンが大写しとなり、先生の言うことを余りに素直に信じて、腸内のみならず体や果ては心の汚れまでも吸い取ってもらおうとすると、医者の方が逆に慌てふためいたりします。
 それ以外にも様々な秀逸な出来事が起こります。たとえば、佐和子は、実家に戻って、病に倒れた父親に代わって“しじみ工場”の経営に携わるのですが、そこでしたことの一つが社歌の作成です。ただ、社歌にもかかわらず、「倒せ倒せ政府」などというくだりのあるトンデモナイしろものなのです。この社歌を、工場で働く従業員らと一緒になって合唱するシーンが、この映画の一つの山場といえるでしょう。
 またラストは、死んだ父親の遺灰を、他の女性(佐和子の友人)のもとから逃げ帰ってきた男・新井健一(遠藤雅が扮する)に、これでもかと投げつけるシーンとなります!

 この簡単な紹介からでも見えてくるかもしれませんが、この作品に登場する女性は、佐和子をはじめとして皆が皆ものすごいパワーの持ち主なのです。

 ですが、対応して登場する男性陣は、皆が皆、酷くだらしない人間ばかりです!
 たとえば、佐和子と一緒になろうとする新井健一は、勤め先の玩具メーカーで売れそうもない製品を作ってクビになった男で、普段は編み物が大好き人間、佐和子に伴って田舎にやってきますが、佐和子の友達に言い寄られると断りきれずに子供を置いたままで一緒に東京に行くものの、暫くするとその女性に捨てられ、結局は佐和子のもとに逃げ帰ってくる始末です。

 こうしたストーリーをオーバーに受け取れば、まるで、現在の日本経済の停滞は、だらしない日本の男性に政治を任せておいたからもたらされたものであって、そこから脱出するには、権力を女性の手に預け、その上で、佐和子のように、自分は「中の下」だと冷静客観的に認識し〔アジアの盟主では最早ない!〕、そこから開き直って突き進まなければだめだ、と言っているかのようです。

(2)この映画の面白さは、何といっても主演の満島ひかりのパワーによるところが大きいものと思います。




 その彼女が出演する最近の映画として見たものは、『クヒオ大佐』と『食堂かたつむり』です。
 前者では、主人公(堺雅人)に騙されるバカな博物館学芸員の役を演じ、防波堤で「どうしてお金のないあたしを騙したのか」と主人公に激しく詰め寄るものの、勢い余って海中に落ちてしまうという大変な演技を披露しています。
 後者では、主人公(柴咲コウ)の中学時代の友人の役です。この女性は、食堂を営む主人公に嫉妬して、サンドイッチに虫を入れて食堂の営業を妨害しますが、主人公の母親の結婚披露パーティーにアッケラカンと出席して肉を食べたりするのです。可愛い外見にもかかわらず、内心は恐ろしいことを考えているという役柄を、実にうまくこなしているのではないでしょうか?

 ただ、これだけでは今一の感じが残ります。そこで、遅きに失したきらいはあるものの、彼女が出演し、各種の新人賞を受賞した『愛のむきだし』(園子温監督、2009年)のDVDを借りてきて見てみることにしました。とはいえ、およそ2時間の映画2本分の長さのものですから、ここで簡単に取り上げてしまってはつまりません。明日のブログの記事に回したいと思います。

(3)評論家は総じて好意的のように思われます。
 小梶勝男氏は、「自分がダメ人間で仕方ないから頑張る、という佐和子の考えが、実に痛快でカッコいい。自分をオンリーワンとみなして自己肯定する欺瞞とは、真逆だと思う」し、「開き直った佐和子が作るシジミ工場の社歌が、希望格差社会に生きる我々への応援歌に聞こえてくる」として82点の高得点を、
 山口拓朗氏は、「演出にキレがある訳でもなく、ドラマ展開も冗長気味。汁系のユーモアに至っては完全にマニア好みだ。しかし同時に、息づかいと生命力が感じられる作品でもあ」り、「石井裕也と満島ひかり。この若き才能のコラボレーションが、みじめなほど不格好ながらも、どうしようもなくカッコいい作品を生み出した」として70点を、
 福本次郎氏も、「小器用に立ち回るのではなく、駆け落ちの噂をすべて認めた上で、「こんなダメな私だけれど一生懸命やります」と自ら率先垂範しておばさんの心をつかんでいくあたり、ありきたりの奮闘→成功物語に終わるのではなく、やけくそのパワーで新たな一歩を踏み出していく過程がコミカルかつパワフルに描かれる」として60点を、
それぞれ与えています。

 ただ、小梶氏が「シジミ工場の社歌が、希望格差社会に生きる我々への応援歌に聞こえてくる」という点はどうでしょうか?
 ここで小梶氏が言っている「希望格差社会」とは、山田昌弘氏の『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房、2004年。その後ちくま文庫に)によっている言葉でしょう。
 AmazonのHPには、この著書の概要について、次のようにあります(「日経ビジネス」)のレビューによる)。
 「現在の日本は職業、家庭、教育のすべてが不安定になり2極化し、「勝ち組」「負け組」の格差が拡大している。「努力は報われない」と感じた人々からは希望が消滅し、日本は将来に希望が持てる人と絶望する人に分裂する「希望格差社会」に突入しつつある。著者は日本社会で希望がなくなり始めたのは、実質GDP成長率がマイナス1%となった1998年からと見る。……希望の喪失は社会の不安定要因となりかねず、早めに総合的な対策を講じることが必要と主張している」。
 とすると、「希望格差社会」においては、「「努力は報われない」と感じた人々からは希望が消滅」しているわけで、そういう人々に対して頑張れ頑張れと「応援歌」を歌ってあげてみても、「希望」は蘇って来ないのではないかと思えるところです。いくら頑張っても「報われない」と既に感じてしまっているのですから!
 「希望格差社会」にあっては、「応援歌」を歌うよりもむしろ、そうした事態をマズ素直に認めた上で、一方で、経済政策等によって「希望の持てる社会」の実現に向かって事態の改善の努力をしながら、他方で、評論家の内田樹氏がそのブログで言うように、心理的な問題としても対処すべきなのかもしれません。
 すなわち、ブログ「内田樹の研究室」には、この本の書評が掲載されています(2005年3月21日)。大胆に端折ってしまうと、次のような内容です。
 「問題は心理的なものだという点については山田さんにまったく賛成である。けれどもその心理的な欠落感をどうやって埋めてゆくのか、ということについては、山田さんが提示したもの以外にも、いろいろなやり方があるだろうと思う。重要なのは「哲学」だと私は思っている。すなわち、「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される。そういう素朴な人間的知見を、もう一度「常識」に再登録すること。それが、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできるいちばんたしかな道だろうと私は思う」。




★★★★☆





最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同時 (ひし)
2010-05-22 07:53:07
TBどうもです。
 
同時に『君と歩こう』も公開ですね。
返信する
おはようございます。 (えい)
2010-05-22 09:15:57
こんにちは。

映画とは直接関係ないかもしれませんが、

>「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される。

の言葉はいいですね。
今の日本を生きる道しるべのようです。

>現在の日本経済の停滞は、だらしない日本の男性に政治を任せておいたからもたらされたものであって、そこから脱出するには、権力を女性の手に預け、その上で、佐和子のように、自分は「中の下」だと冷静客観的に認識し〔アジアの盟主では最早ない!〕、そこから開き直って突き進まなければだめだ

の件もなるほどと思いました。

満島ひかりは『愛のむきだし』が代表作でしょうけど、
『プライド』もスゴイですよ。

返信する
こちらにもTBどうぞ! (SunHero)
2010-05-25 21:48:36
よろしかったら...(^.^)
返信する
涸沼の水はしょっぱいか (しじみ貝の歌)
2010-07-08 16:44:31
  映画を観る楽しみは、そのストーリー展開にまずあるのだろうが、そこに出てくる人物に共感したり、教示あるいは示唆を受けたりすることもある。また、背景となる地域の思い出なども懐かしさとともに感じたりもする。
  いま売り出し中の満島ひかりさんが体当たりの熱演で、最後にでも開き直って行動すれば、まだ十分生きる余地があるという示唆や勇気を与えてくれる。人生はいつも悪い方向ばかりに行くわけでもないから、思い切ってなにかをやってみることなのだ。もっとも、満島さんくらいの美女だと、まわりは放っておかないのであろうが。
  
むかし過ごした地域の近くにしじみ貝の獲れる沼があって、かつ、本件の舞台にも使われた模様の茨城県の涸沼でも、釣りをした記憶がある。涸沼の水は川水と海水が混じった変わった内容で、棲息する魚介類も豊富な話を聞くが、世の中もそんなようなものかもしれない。だから、いつも川の外からではなく、川の底から何かが出てきても驚かない。そのほうが却って面白いのではないか、というくらいの気持ちにヒロインはなったものか。
返信する
お礼 (クマネズミ)
2010-07-10 05:54:00
 「しじみ貝の歌」さん、懇切なコメントをありがとうございます。
 特に、この作品の舞台が「茨城県の涸沼」であり、かつその「水は川水と海水が混じった変わった内容で、棲息する魚介類も豊富」という貴重な情報をいただき、感謝申し上げます。
返信する

コメントを投稿