世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(179)

2011-10-25 10:17:30 | Weblog

一寸長くなるが、朝鮮に渡った日本農民の苦労を語っているものを、「韓国は日本人がつくった」の中から、次に引用したい。

朝鮮には数千年の歴史があり、土地には固定した地主がすでに存在していたため、新田開発はかなり困難であった。それもあって、日本農民が朝鮮で開拓した農地は、後に言われるほどの良田ばかりではなかった。大河の遊水地で交通不便、さらに少々の塩害がある地を開墾地として開拓したケースも少なくない。

例えば江西干拓事業では、3500町歩(約3150ha)の干潟や沿岸草生地、李完用の一族から買った黄海道東部(平壌の東の山地か)の山地にある高原地帯などを開拓していた。それらはもちろん、地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらず、水田にもならない不毛の地であった。
日本人はわざわざ朝鮮に行って、こんな不毛の地を耕していたのだ。それなのに、東拓を含めた日本の農業移民が、朝鮮半島の美田、良田を強奪したなどとはよくも言ったものだ。美田を専有していたのは、ほかでもない朝鮮人自身である。

日本人は、朝鮮の農民が一顧だにしなかった不毛の地を開墾し、僻地の干拓を行っていたのだ。交通不便な地に行く場合は、汽車から降りると家族全員で牛の背に乗り、荷物を牛車に載せて遠く離れた土地まで延々と行く。行った先に待っているのは、耐乏生活と厳しい農地開拓である。

この日本人の地道で真面目な努力によって、朝鮮半島は数千年の農業国家では考えられないほどの農業革命を経ることができたのである。それもこれも、すべて日本人の手によって実現したことなのだ。



このようにして日本人と日本は、朝鮮を飢餓から救ったのだ。現在でも朝鮮は頓馬の集団だ。超のつく頓馬集団だ。日本による統監府、総督府の朝鮮統治が、農業は農業でも、焼畑的な原始的な農業以外にはなんの産業もなく、資源も技術もなかった上に、産業のための人材も実学教育もなかった朝鮮を、わずか36年の内に近代化へと導いたのである。今もって、ただ抽象的に土地を奪った、資源を奪った、人命を奪ったなどと、内容のない中傷ばかりを繰り返す頓馬な朝鮮人にとって、日帝時代に人口と食料が倍増していることを、なんと説明するのか。

先に、'11/10/12,NO.170でも治山治水のことを述べている。朝鮮の山河は、濫伐、討伐などで禿山だらけで崩壊状態であった。冬季の薪のため、さらには李朝時代には食料不足のため、火田民と呼ばれる焼畑をする農民が増え続けていた。そして根っこまで掘り起こして炭を焼いていたと黄文雄氏は指摘している。この炭は根炭と呼ばれ高値で取引されたという。

そのため朝鮮半島は一部を除いて、禿山だらけで洪水と旱魃が頻繁に起きていた。日本では子供に山を描かせれば緑の山を描くが、朝鮮では山は「茶色」に塗られているのが普通であった。

朝鮮総督府は1910/3月に土地調査局を開設し、全国的な規模での土地調査を始めた。この責任者が目賀田種太郎であった。この土地調査は、1910(M43)年から1918(T7)年にかけて、当時のお金で200万円の予算で実施された、と先に説明したが、崩壊した朝鮮の山河を蘇らせる事業も急務であった。

朝鮮総督府初代総督である寺内正毅大将は、そのため、治山治水にもっとも力を入れた。黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」によれば、「朝鮮半島で実際に治水調査がスタートしたのは、1915年(大正四年)からである。具体的には、気象、水位、流量、改修築予定区域の実測調査などに着手した。これは10ヵ年計画の治水事業とされ、予算5000万円で帝国議会を通過した。しかし実際は、1928年までの14年間にも渉って実施されることとなった。

朝鮮半島の森林消失は、日帝が伐採して日本へ持ち去ったためとされることが多いが、史実は逆だ。


朝鮮では大半の山は禿山と化しており、緑の山があったのは交通不便な鴨緑江や豆満江などにしかなかったので、とてもじゃないが、伐採して持ち帰ることなんぞは不可能なことであった。これなども卑屈な朝鮮人の捏造話である。

(続く)
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