世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(174)

2011-10-18 14:29:47 | Weblog

上記に引用されている慶南とは慶尚南道のことであろう、朝鮮半島の地図を見ると対馬海峡側に釜山があるが、そのすぐ北西側20kmのところに金海(きむへ)がある。多分この地区のことであろう。このインタビュー記事には「未申告地が発生しないよう綿密な行政指導をしており、土地詐欺が発生することのないよう、繰り返し指導と啓蒙を進めていた。」との記述がある。

日本の役人達は、誠心誠意朝鮮のことを思って、真剣に土地調査を行っていったことであろう。その誠振りが目に浮かぶと言うものである。なんとなれば朝鮮の覚醒が日本のためになり、且つ、朝鮮のためにもなると真剣に努力していったのである。

先に、土地調査は、1910(M43)年から1918(T7)年にかけて行われたと述べている('11/10/13, NO.171)が、1910年といえば日露講和条約(1905/9/5)から5年しか経っていない時期である。日本はロシアの復讐戦を警戒している時期でもあった。だから朝鮮を保護国とし、ロシアなどからチョッカイを出されないように、必死に朝鮮の独立(と言うよりも自立)と近代化を図っていたのである。だからこそ、誠心誠意、朝鮮のためを思って土地調査も行っていたのである。

ここら辺の事情は台湾でも同様で、台湾に派遣された日本人は台湾のために身を粉にして尽くしたのである。その結果次のような事象も現出しているのである。これは以前に小生が簡単にまとめたものである。



日本による台湾経営について

台湾の開発始祖と言われている「鄭成功」は、中国福建省の貿易商(密貿易)の父と、日本人の母・田川松との間に、1624/8/7平戸で生まれている。1644年に、明が清国に滅ぼされると、鄭の父は明を擁護して清に対して抵抗運動を続けるが、武運つたなく清に投降する。息子の成功は父と別れて抵抗運動を続けるが、南京で大敗し1661年台湾に逃れる。当時台湾はオランダ人が支配していたが、1662年にオランダ人を追放し台湾を本拠地とし、台湾に漢民族の政権が史上初めて成立する。同年鄭成功は死去する。そして台湾政権は政争のすえ、息子の鄭経が引き継ぐ。そのため「鄭成功」は、台湾の開発始祖として現在も崇められているという。しかし1683年には、清朝の攻撃を受け、降伏し鄭政権は3代23年幕を閉じる。と言うのは、Wikipediaに記されている台湾である。

その後台湾は、1895/4/17の下関条約(日清戦争の講和条約)で日本に割譲され、1895/11/18までに日本は台湾を平定し統治を始めるのである(乙未戦争)。日本の台湾統治は、台湾の産業育成が命題となり、産業投資とインフラ整備に力を入れた。中国の収奪型の植民地方式とは異なり、収奪するどころか財政支援と産業投資を積極的に行っている。そのため台湾の近代化、工業化社会への変身は、他の東南アジア諸国よりもすこぶる早かったのである。だから1930年代末には台湾の工業生産が、農業生産を上回っている。

日露戦争で名を馳せた明石元二郎大佐(当時)は、1918年(T7)に台湾総督兼台湾軍司令官(陸軍大将に昇進)に就任している。名実共に台湾のトップの地位に着く。台湾の日月潭(にちげつたん)と言う観光地があるが、観光パンフには天然の湖と紹介されているようだが、明石が取り組んだ日月潭ダム(による湖)による巨大電源開発計画の産物なのである。台湾電力株式会社の設立のほか、官制改革、教育令、森林令の発布、裁判の三審制度の実施、中部海岸鉄道の新設、嘉南大川事業(川は土偏に川、シュウ、灌漑)などを行っている。この電源開発は、当時のお金で6,800万円余を費やしている。しかし明石は就任した翌年1919/10/24に、特別演習の陪観のため帰国途中の船で病に倒れ、郷里の福岡でなくなっている。そして遺言により、台北市三板橋地区の日本人墓地に葬られた。戦後ここは難民に占拠されたと聞く。陳水扁が台北市長時代に整備したとも聞くが、どんなものであろうか。

また少し時代をさかのぼるが、1898(M31)/3に児玉源太郎が台湾総督となると、臨時陸軍検疫部事務長官であった後藤新平を台湾の民生長官に抜擢する。そして後藤は日本から有為な人材を招き、土地調査を含む大規模な慣習調査を行っている。この調査記録は、今でも台湾にとって大きな文化遺産となっている、と言われている。そしてこの調査に基づき道路、港湾、鉄道、水道などのインフラ整備を行っていった。そして医者であった後藤は、上下水道と衛生管理施設の整備に最も力を注いだ。そのため風土病や伝染病が克服され、更にはアヘンを徐々に禁止してゆき、1945年(S45)には台湾でのアヘンが根絶されている。そのため台湾400年の歴史の中でも後藤新平以上の貢献をした人物はいない、と言われているほどである。ちなみに土佐藩士だった後藤象二郎とは20年ほど時代がずれている。

そして1920(T9)/9に工事が開始され、1930(S5)/3に完成した烏山頭(オスアタウ、和読み・うさんとう)ダムのことを忘れてはならない。このダムの完成により一面不毛の荒地だった嘉南平野は15万ヘクタールの一大農地となったのである。このダムを建設した中心人物が、土木技師八田与一である(1886/2/21~1942/5/8金沢市出身)。1910年東京帝国大学を卒業し、台湾総督府に土木技師として就職している。このダムの堰堤の長さは1,273m、水路は16千キロにも及んでいると言う。そしてこの水利設備全体が、先に言及した嘉南大川(かなんたいしゅう)と呼ぶものである。上から見た水路の張りめぐりが、珊瑚の枝分かれに似ていることから、珊瑚譚(さんごたん、譚は正式にはサンズイ偏である)と呼ばれて、観光地として賑わっている。台湾総督府はこの工事に際して、アメリカの土木の権威のジャスティンに再調査を依頼したところ、難しいと言われたが台湾総督府は敢えて八田案を採用し、実行している。たいした慧眼である。完成した時にはアメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界を驚かせたと言う。八田はS17年(1942年)5月に、乗船の大洋丸が五島列島沖を航行中にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃により撃沈され、56才で尊い命を亡くしている。遺体は一ヵ月後に漁船の網にかかり、引き上げられたと言う。妻外代樹とよきも1945/9/1に烏山頭ダムの放水口に身投げして45才の尊い生涯を閉じている。八田与一の銅像と墓は、烏山頭ダム公園の中にある。顕彰記念館も併設されていると言う。戦後台湾の日本人40万人は、蒋介石らの中国人に全員台湾から追い出されている。この40万人の日本人追放は、台湾の戦後の近代化にとって大きな痛手であったと、黄文雄氏は「捏造された日本史」の中で述べている。

このほかこの書物の中には、守り神のように祭られている日本人警察官の話が載っている。

一人は広枝音右衛門警部。彼は台湾人志願兵や軍属と共にマニラで巡査隊の訓練や治安維持の任務に当たっていたが、米軍上陸と共に玉砕の憂き目に会い台湾人全員を投降させ命を救っている。彼らはその後全員故郷に戻されている。広枝警部はS20/2/23に自決している。その後彼の嘗ての部下たちは、台湾の苗栗県獅頭山に権化堂を建てて彼を祀っている。

もう一人は。森川清治郎巡査である。彼は1897年(M30)に家族と共に台湾の台南州に赴任する。そして派出所の隣に寺子屋を建て、子供たちに勉強を教えた。そして農業から病気のことまで親身に相談に乗った。面倒見のよいお巡りさんであった。しかし上司にあらぬ嫌疑をかけられて、村の嘉義県東石富安宮の慶福堂で村田銃で抗議の自殺をする。享年42才。村人たちは森川巡査の徳を讃え、生前の姿を模したご神体を作り、義愛公と命名して、慶福堂に祀ったのである。

それから台南市には、1944(S19)/10/12に台南近郊上空で米軍機に体当たり攻撃をして果てたゼロ戦パイロットたちの遺体を収容して、護国の神として祀っている廟が建てられている言う。今でも「君が代」と「海行かば」が祝詞になっていると言う。

以上は「捏造された日本史」黄文雄氏やWikipediaをもとに、台湾の日本統治についてまとめたものである。

日本の台湾統治は、中国がやったような収奪型ではなく、育成型であったために今でも台湾人は日本に親近感を持っているものと思われる。勿論、朝鮮、中国でもそのような統治を、日本は行ったのであるが、中国は共産党の中国統治のための反日教育としてゆがめられ、同じように朝鮮でも李承晩大統領の反日による世情統一手法により、日本の良心的統治の内容が歪められている。

(続く)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする