世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(165)

2011-10-05 16:34:43 | Weblog

こんな状況の李氏朝鮮に、目賀田種太郎は財政顧問として赴任したのである。目賀田の苦労が目に浮かぶと言うものであるが、彼は次々と改革を実施して言った。次に重要な財政経済に関する治績を説明しよう。

先ず第1に「皇室関係と一般行政関係」との金の流れを分けたことである。次の1つは「貨幣の整理」であり、もう1つは「租税、地租制度の確立」であった。

以上見てきたように当時の朝鮮は、国内産業は興っておらず物々交換の時代のような有様で、交通網と言えば宗主国の明、清の使者が通る道が幾ばくか道路と言えるものだったようで、李氏朝鮮人民は塗炭の苦しみの中にあった。宮中でも、府中(一般)でも区別なく貧乏であり、財政、税制、幣制(貨幣制度)、其の他全般にわたって混沌として収拾がつかない状況で、一言で言ってしまえば総てが御話にならない状態にあった。これは『目賀田種太郎(二)』に述べられている李氏朝鮮末期の姿である。(http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10000765621.html#main

ちなみに「4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮」は、このブログでも言及されている。

こんな状況の韓国がわずか30年足らず(1905年~1935年頃)で隆盛を見るに至ったことは、日本の朝鮮政策が良かったことに尽きるのであるが、特に目賀田種太郎財政顧問の達見による諸般の改革がその基礎をなしたことに負うところ大である、と『目賀田種太郎(二)』は続けている。

30年足らずでの朝鮮の興隆は、その人口増加を見ればよくわかる。

ねずきちの ひとりごと」によれば、朝鮮半島の人口増加は次にようになっている。
(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-220.html)

1753年  730万人(1.00)
1850年 750万人(1.03)
1906年 980万人(1.34) (1.00)
1910年 1,312万人(1.80) (1.34) (1.00)
1920年 1,691万人(2.32) (1.73)
1930年 1,968万人(2.70) (2.01)
1940年 2,295万人(3.14) (2.34) (1.75)
1944年 2,512万人(3.44) (2.56) (1.914)

この人口増加は、先にあげた「歴史再検証日韓併合-韓民族を救った「日帝36年」の真実-」(祥伝社黄金文庫)にも記載されているので、間違いない事実である。要約を下記する。

韓国の教師用国定歴史(国史)教科書によると、李朝時代の総人口は
1777年 1,804万人(1.00)
1877年 1,689万人(0.9362) -6.38% 李氏朝鮮時代

これに対して日韓併合時代は
1910年 1,313万人(1.00)
1942年 2,553万人(1.944)+94.4%  日韓併合時代

という数字を挙げている。

李氏朝鮮時代の人口は「ねずきち」と「教師用国史教科書」では、「教科書」の方が倍以上のサバを読んでいるが、6%以上も人口は減っている。これに対して日韓併合時代では、減るどころか倍近く人口は増えていることがわかる。日韓併合以降の両者の人口の数字は似通っているので、韓国併合以降で人口が爆発的に増加していることは事実なのであり、如何に日本の統治が韓国社会の発展に寄与したかを物語るものである。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする