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Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「2分の1の魔法」

2020年08月30日 09時31分42秒 | 映画(2020)
正論も2分の1。あとは自分で埋めて。


ピクサーの作品には、邦題と原題が全然違うというパターンがある。

典型的なのは「カールじいさんの空飛ぶ家」で、原題はひとこと"Up"である。風船で空へ上がっていく絵と繋がりはあるけど、これは邦題を付けないとなかなか厳しい。

今回の原題は"Onward"、「前へ」。

100分余りの映画のメッセージを一語に集約するとこうなるということ。一語だからこそ、そのメッセージ性は強くなる。そういった意味でこの説明しないタイトル、個人的には結構好きである。

舞台は架空の世界。景色は現代の人間社会と何ら変わりないが、そこで暮らす住民はマンティコアやケンタウロスといった伝説や神話の生き物たちである。彼らはかつて魔法を使って生活していたが、便利な道具が発明されると困難を伴う魔法の習得を行う者はいなくなっていき、ついには魔法のない世界へと変わり果てていた。

この設定は慧眼と言っていい。便利さを求め続けてきた現代社会なのに、なぜ未だに人々は不満を言い、世界から争いが途絶えることがないのか。発展の代わりに何か大切なものを置き忘れてきたのではないか。

エルフの主人公・イアンの兄バーリーが、不死鳥の石を探す旅の中で高速道路を使おうとするイアンをたしなめる場面がある。「これはひっかけだ。本当の答えはこっちにある」と舗装もされていない悪路を勧めるのだ。

結果は偶然にも助けられており、ゲームおたくのバーリーの「あるある」的発想というだけで終わらせてもよいが、「必ずしも最短経路が最善とは限らない」と言い換えると、これは有益な教訓となり得る。

父の面影を求めて続けてきた旅が、実はいつも近くにいた兄弟の尊さを知ることになるという展開も巧い。父親登場の描写のさじ加減も心憎い。なんだかんだあってもピクサーの技量は安定している。

ただ、諸手を挙げてこの作品文句なしだよね、という実感には至らなかったこともまた事実である。

いちばんのもやもやは、この映画における「魔法」とは一体何なのかというところにある。上述したように過去に置き忘れてきた「何か」を表しているのであれば、本来どうするのがより適切だったのかという答えになっていない。

イアンは魔法を使える遺伝子を遺していたが、バーリーはまったく使えない。そのことに関する最も優等生的な回答は、違いを尊重してそれぞれの特徴を伸ばす生き方をすることなのだろう。持つ者と持たざる者の共存であり、ラストの描写はおそらくそんな感じの世界になっている。

それでは過去はどうすべきだったのか。魔法を継承する努力をすべきだったことは疑いないが、一方で魔法を使わずとも暮らしが便利になる開発を否定はできないだろう。便利さを選択する者たちを間違っているとも言えないだろう。

きれいにまとめているけど、難しいところはブランクなんだよなーと考えると、結局現代の不平不満を声高に訴える方々の姿と重なってきて何だか萎えてしまうのである。

(70点)
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「透明人間」

2020年07月11日 15時24分15秒 | 映画(2020)
現れるまでが透明人間。


「透明人間」とは何とも古典的なタイトルだが、1897年の小説や1933年の映画を現代風にアレンジした作品ということらしい。

光学を専門にする科学者のエイドリアンの妻・セシリアは、完璧主義の夫にすべてを支配される日常を送っていた。映画はそんなセシリアが命を懸けて自宅を脱出する場面から始まる。

途中で気付かれるもエイドリアンの追跡を何とか振り切ったセシリア。妹の知り合いである警察官ジェームズの元で平穏な日々を送っていたが、頭脳明晰で執念深いエイドリアンがいつ自分を見つけるかと常に恐怖にさいなまれていた。

そんなある日、エイドリアンが自殺したとの知らせが飛び込む。妹やジェームズは安堵するが、時を同じくしてセシリアは周囲に不穏な人の気配を感じるようになる。

サスペンス映画の肝は、先の予想がつかないことと想像の範囲を超えた展開にある。E.モスの神経質な表情と演技も相まって、セシリアの周りに漂う気配の正体が透明人間となったエイドリアンなのか、セシリアの精神が生み出した亡霊なのか、はたまた第三の選択なのか確定ができずに話が進むので、これは成功。

不穏な空気を助長する音楽、というより低く割れて響く効果音は、透明人間というより地球外生命体の登場を想起させる。そして現れたのは少しプレデターっぽい造形の透明人間。これも合っていたようだ。

正体が分かると途端に怖さがなくなってよくある娯楽作品へ急に転換するのも、映画のあるある。サイコパスな敵は透明である以外に特に武器を持っておらず、それ以上にセシリアに対する感情が弱点となっており、姿が露わになった途端に攻撃力は激減。それでも見応えはあるので、全篇にわたって十分に楽しめる作品ではあった。

それにしても、予告等で見ていた「心神喪失が判明したら遺産相続は無効となる」という設定が出てこなかったのだが、あれはミスリードか?そもそも正規のストーリーのとおり宣伝しても何も支障はなかったように思ったが、何があったのだろう。

(70点)
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「レイニーデイインニューヨーク」

2020年07月06日 22時32分44秒 | 映画(2020)
帰るべき場所は、もうそこにはない。


W.アレンはしばらくニューヨークを離れて映画を撮っていたことがあった。その中にはキャリアで最高級の評価を受けた「ミッドナイトインパリ」といった作品もあり、決して彼の製作能力が衰えたわけではなかった。

しかし、やはりアレンといえばニューヨークである。本作は、これまでの作品の中でもニューヨークの街並みに焦点をひときわ多く当てたものとなっており、宣伝広告の中では「アレンによるニューヨークへのラブレター」といった言葉も見られる。

T.シャラメ演じるギャツビーは、ニューヨークのエリート家庭に育った青年。親への反抗心を抱きながら郊外の大学へ通っている。アリゾナの銀行経営者を親に持つアシュレーというガールフレンドがいるが、社交界に肌が合わないこともあり将来のことはほとんど考えていない。

ある日、アシュレーが学校の課題としてニューヨークで映画監督のインタビューをすることになった。せっかくだから彼女にいいところを見せようと地元デートのセッティングをするギャツビー。しかしこの二人の些細な週末の計画は思わぬ方向へ。

生き生きと描かれた多くの登場人物が交錯し合い、ちょっとしたアクシデントの積み重ねで運命が転がり出す独特のアレン節は健在。T.シャラメの斜に構えた青年も魅力的だが、負けず劣らずの存在なのがアシュレーを演じたE.ファニングだ。

かわいいけれどまったく垢抜けない、アリゾナの人が見たら苦笑するんじゃないかと思うようなアシュレーが、ニューヨークのどまんなか、しかもショウビズのセレブたちの中に入っていってみんなを掻き回す。いや、正確に言えばショウビズ界の男たちが光に群がる虫のように勝手に振り回されているだけなのだが。

彼女を巡るどたばた劇はこれまたアレン作品の醍醐味と言える。いい大人が何やってるの?という役を演じるのがJ.ロウL.シュライバーD.ルナというのも贅沢。

そのどたばた劇の裏でギャツビーには新たな展開が訪れる。多彩な顔を持つニューヨークの街。雨が降るだけで街の表情は変わる。生まれ育った場所なのにまったく気付かなかったこと。彼は新しい可能性を感じ取る。

最後の場面でギャツビーが取る選択には、おそらくアレン自身の思いが投影されているのだろう。ヨーロッパで映画を撮るのも悪くないけどやっぱりニューヨークが好きだと。

しかし皮肉なことに、いまの米国ではアレン作品に出演した自分の行動を間違いだったという流れが出始めている。直接の原因は30年近く前に起きたアレンの性的虐待疑惑だと言う。2年以上前に完成した本作は米国では未だに上映されていない。

故郷に戻って溢れんばかりの愛を捧げたつもりが、その愛はいつしか片思いになっていた。いや、そこにもう愛するひとはいなくなっていた。

W.アレンが描くニューヨークの映画とはこれでお別れなのかもしれない。40年近く彼の新作を映画館で観ることが楽しみだっただけに、まさかこんな最後になろうとは寂しくてやりきれない。

(90点)
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「ストーリーオブマイライフ/わたしの若草物語」

2020年06月21日 22時24分41秒 | 映画(2020)
いまの幸せ。それぞれの幸せ。


うちの子に弟か妹がいたらどうなっていただろう。もう叶わないことだけれどよく考える。

兄弟は化学反応だ。同じ遺伝子を受け継ぎながらこうも性格が違うものかと、自分の兄をみると思い知る。そして性格が違う存在が近くにいるからこそ、その影響はとてつもなく大きい。

二人の兄弟でそれだけ感じるのだから、四人になったらどこまで可能性は広がるのか。もちろん良いことばかりではないだろうけれど、わくわく感は確実に大きいことだろう。

恥ずかしながら、若草物語は本を読んだことも映画を観たこともなく、まったく初めての体験であった。アカデミー賞のノミネートがなければ今回も観なかったかもしれない。

四姉妹の物語ということはかろうじて知っていた。主役は次女のジョー。小説家を目指す彼女は、結婚こそが女の幸せなどという古い考えには目もくれず、持ち前の感性と情熱で人生を切り開いていく行動的な女性である。

ジョーの人物設定は、多様性を正義とする現代にあまりにぴったりとハマっていて、はじめは原作を時代に寄せてアレンジしたものと思い込んでいた。後で調べると設定はほぼ忠実。南北戦争と言えば150年以上も昔のはなし。なるほど欧米はさすがに進化が早かったのだ。

四人はこれでもかというくらい徹底的にキャラクターが分かれている。趣味嗜好も異なり、次女が小説ならば、三女は音楽、四女は美術である。こんなにキレイな分かれるのも作ってるんでしょ、と思ったらこれまた原作通り。わが国だと、弟や妹は上の兄弟と同じ部活に入っちゃうことが多い気がするけど、これもお国柄か。

父は北軍の従軍のため長期間家を空けており、留守を守るのは母を含めた女性たち。長女のメグと三女のベスがおとなしめな一方、ジョーと四女のエイミーは勝気な性格でお互いに衝突を繰り返す。

ジョーを演じたS.ローナンとエイミーを演じたF.ピューはいずれもアカデミー賞にノミネートされた。クセのある次女と四女を魅力たっぷりに演じ、観ているうちに彼女ら以外での二人は考えられないと思えてくるようになった。

映画の脚本は、ジョーがNY、エイミーがヨーロッパに移住して家族が離れ離れになった現代と、四姉妹がぶつかりながらも一つ屋根の下で仲睦まじく暮らしていた7年前とを頻繁に行き来する構成を採用している。

ややもすると混乱を来す手法だが、下手に冒頭に全員の紹介をするよりも、四姉妹の特徴を自然に観る側の脳内に植え付けるとともに映画への興味を掻き立てることに成功している。

繰り返しになるが、原作を捻じ曲げたり誇張したりという部分はほとんどないらしい。それでいながら、これだけ高い評価を受ける作品と成り得ているのは、物語が現代にこそ通じる生き方を描いていることと、その魅力を損なわず、むしろ増幅して伝えた作り手の技量によるものにほかならない。

そのような中で、最後の場面でジョーが出版社と原稿料を交渉する下りは興味深い。

ジョーは「ビジネスのために、主人公が結婚するよう結末を書き換えた(だから著作権や印税の取り分を考慮すべき)」と主張する。その後に出てくるジョーは実際にも結婚しているのだが、彼女の理想は必ずしも結婚ではなかったということを映画は語る。

つまりこれは、150年前と現在はまったく逆で、いまは「結婚してめでたしめでたし」ではビジネスが成立しないということを示している。幸せの定義は時代によって変わるのだ。

他方、夫を持ち、叔母が遺した家に作った学園で姉や妹と語らうジョーは限りなく幸せそうではあるが、それはあくまで彼女のはなし。いつの時代でも、幸せは人によって変わるのである。

(90点)
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「デッドドントダイ」

2020年06月07日 14時15分02秒 | 映画(2020)
ほぼ公平に因果応報。


先週に引き続いて、ゾンビである。自分の選択ながら、20世紀末よりも世界の終末観が増しているのを実感する。

本作のウリは、あのJ.ジャームッシュ監督がゾンビ映画を撮るということである。個人的にはこれまでピタッとハマる作品に出会ってはいないが、何と言っても巨匠である。今回も多くの著名な俳優陣が名を連ねている。

センターヴィルは、時代から取り残されたようなアメリカの田舎町。活気はないが日々は平和で、高齢の住人は町に1軒だけあるダイナーに立ち寄るのを日課とする。

そんな何の変哲もない町の墓地から死体が蘇り、ダイナーの店長と従業員が惨殺される。小さな警察署に勤務する3名の警察官が駆け付け、そのうちの一人・ロニーがつぶやく。「これはまずい結末になる」。

本作に登場するゾンビは最近流行りのウィルス性、敏捷なものではなく極めて古典的で、墓場の中から蘇り、のろのろ歩く。ただそれぞれが何らかの欲求に突き動かされているらしく、コーヒーを欲しがったり、Wi-Fiを求めたり、DIYの店に押しかけたりする。

タイトルでもあり劇中に頻繁に流れる歌の題名でもある"The Dead don't Die"。うろ覚えだが、「この世の後には、あの世があるから」なんて歌詞もあったように記憶している。

欲望を持って他人の迷惑、将来の心配など顧みずにうろうろするゾンビたちは、現世に生きる人間たちと基本的には同根だ。その意味からも、警察官だろうが、都会の旅行者だろうが、差別主義者であろうが、何らかの欲を持っている者たちは、本作の中で公平に裁かれる。いや、あの世へと導かれると言った方がいいかもしれない。

極めつけは、T.スウィントン演じるゼルダである。意味ありげに描き続け、常にオーラをまとっている彼女の最後の場面は、この映画最大のギャグであり、同時に我々を突き落とす。

この映画を検索すると「文明批評」という言葉が目に留まる。行き過ぎたなんとかの結果、というのは実に分かりやすい。コロナパニックもそう。自然の摂理からすれば、物事には必ず逆バネが働くんだよなーと、思いながらも「新しい生活様式」へ移行するのはそう簡単ではない。

(80点)
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「CURED キュアード」

2020年05月31日 16時02分15秒 | 映画(2020)
ポストウィルスの世界の預言書。


まだまだポストコロナウィルスと言える状況ではない。しかし、とにもかくにも首都圏の多くの映画館が営業を再開し、世の中は新たなフェーズに入った。

この映画はウィルスが蔓延した後の世界を舞台にしている。ウィルスとは新型コロナウィルスではもちろんなく、最近の映画でおなじみのゾンビ系ウィルスである。

治療法が開発され、完治した人は他者を襲うことはなくなったものの、治癒率は75%であり残された25%の患者は政府によって安楽死させられようとしていた。

3月に公開されたがすぐに映画館が閉鎖されてしまったために鑑賞まで随分かかってしまった。扱っているネタがネタだけにもう少し話題になってもいいような気がするが。

主人公は<キュアード>=回復者のセナン。回復者はウィルスに罹患していたときの記憶を持っているという設定であり、自分が犯した非人道的な所業がトラウマとなって彼の社会復帰を阻む。

周りは更に辛辣で、回復者の社会復帰を許さないと差別的行動に走る者が登場すれば、回復者の中にも不当な差別に対して力で立ち向かおうと連帯を呼びかける人物が現れる。憎むべきはウィルスなのに誰かを攻撃せずにはいられない・・・って、どこかで聞いたことがあるような。

セナンはウィルスに感染する前も完治した後も心優しい善良な青年であるが、世界はそのままでいることを許さない。曇りがちなアイルランドの空と同様に全体的に暗いトーンで話は進み、理不尽に発生する社会の分断の描写が重く刺さってくる。

本作が本国で公開されたのが2018年と結構前であることも興味深い。

今観ると、ウィルスで混乱する現代社会にシンクロしているように感じるが、これは偶然でも何でもない。2年前には世界各地で分断の芽が見えており、それをウィルスを題材として描いたに過ぎないのである。

今回のコロナショックをグローバリゼーションへのカウンターなどと評する人もいるが、ウィルスとは別の意味においても、今後いかにして社会のあり方、自分の生き方を変えていくかが問われていることは間違いない。

その点で本作が見事だと思うのはエンディングだ。単なる甘いハッピーエンドではなく、異なる主張の者が別の場所で生き残って、希望よりも不安が大きい世界へ踏み出していく姿が描かれる。

明日のことは分からない。ただ今日を懸命に生きる。改めて働く人たちに感謝を。

(80点)
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「ミッドサマー」

2020年03月14日 22時46分39秒 | 映画(2020)
伝統の継承こそ大義なり。


「ヘレディタリー/継承」 - Con Gas, Sin Hieloが非常に高い評価を受けたA.アスター監督の最新作が公開された。

「ヘレディタリー/継承」は個人的に好きな作品ではなかったがインパクトは絶大で、ワイヤーでギーコギーコするあの場面はいまだにはっきりと思い出すことができる。もはやトラウマに近い。

今回の作品も相当にクセが強いらしく、公開前から結構話題に上っていた。それは「明るいことがおそろしい」という触れ込みだ。

舞台は北欧・スウェーデン。白夜の土地で90年に一度開かれるという祝祭にゲストとして訪れた若者たちが恐怖の体験に巻き込まれるというお話。

実は残念ながらこの設定を知ってしまうと、意外と作品を楽しめない。はじめから登場人物をカルトな村人と哀れな被害者に固定して見てしまうので意外性がなくなってしまうのだ。

「13日の金曜日」のようなショッキングを売りとするホラー映画であれば、設定がある程度分かっていようとも影響はないのだが、本作はジャンル分けするならばもう少し奥が深いスリラーである。主人公たちと同じ意識で村に入った方がきっと展開を楽しむことができたであろう。

作品の肝となる祝祭の描写はすばらしい。

輝く太陽の下で花と緑がきれいに飾られ、一様の民族衣装に身を包んだ村人たちが歌って踊る。表の光景だけでも芸術的に良く作られているが、それ以上に印象に残るのは、何の変哲もない田舎の祭りの傍らで、後の惨劇の舞台が隠すことなく映されていたことである。

着飾った装飾の植物や食卓に並べられた食材が特殊技術でゆらゆらと蠢く。村の至るところに歴史遺産として存在する意味ありげな絵画や石板。檻に入れられた熊。入ってはいけない建物。明るいのに次第に不穏な空気に覆われていく演出は独特である。

そしてその空気が決定的となるのがアッテストゥパンという儀式だ。来訪者たちは祝祭の異常さを確信するが時既に遅し、である。

上述のように来訪者がとんでもない目に遭うということは事前に知ってしまっていたので、関心はやられ方とどこまでやられるかに絞られた。特に家族を凄惨な事件で失った過去を持つ主人公・ダニーの結末はまったく予想がつかなかった。

それは劇中で明らかになる祝祭の意義によるのだが、これがもう一つ理解できなかった。ダニーたちを祝祭に招き入れたペレは、どこまで筋書きを設定していたのか。メイクィーンの冠を戴くことになるダンス合戦の勝者ははじめから決まっていたのか。

最後のダニーの選択が筋書き通りだったのだけは飲み込めた。ただ、A.アスター監督は優しいなと思ったのは、犠牲になる来訪者に少しずつ負のエピソードを付け加えていたことである。何の落ち度もない若者たちが殺されていくとなれば恐怖感は倍増したのだろうけれど、恐怖を描くことは監督の目的の中心ではなかったということなのかもしれない。

(75点)
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「1917 命をかけた伝令」

2020年03月01日 18時38分42秒 | 映画(2020)
100年前の戦場風ドラマ。


アカデミー賞作品賞の本命でありながら、ちょっとした風向きの影響で受賞を逃したとも言われている本作。

宣伝で盛んに流れていた最大の売りは、戦場の臨場感を最大限に引き出したワンカット風の撮影技術である。

冒頭、戦争とかけ離れた青い空と緑の草原が広がる中で若い男性兵士が寝転んでいる。どうやら束の間の休息らしい。そこへ上官が歩み寄り新たな任務を告げることで、ノンストップのドラマが幕を開ける。

任務の詳細を聞くために将軍の元へ向かうブレイクとスコフィールド。舞台は、草原のすぐ傍に張り巡らされた塹壕へ移る。細い溝のような狭い空間を兵士がひっきりなしに行き交う。敵を目前にしている緊張感がひしひしと伝わってくる。

将軍の指令は、最前線にいる部隊が計画しているドイツ軍への一斉攻撃を中止するよう伝えること。ドイツ軍が仕掛けている罠にハマれば千人単位の犠牲者が出てしまう。重大であることはもちろん、敵の目をかいくぐって次の朝が来る前に指令を伝えるという点でも、とても困難なミッションであった。

自陣の塹壕を一歩出ると、そこには別の静寂な世界が待っていた。引きちぎられた鉄条網、無造作に転がる死体。爆発でできたと思われる穴には泥水が溜まっている。敵は撤退したのか、待ち構えているのか。いつ銃声が轟いてもおかしくない正体不明の静寂は、塹壕の喧騒より更に張り詰めた空気に支配されていた。

この映画について、RPGのゲームのようだという感想を見たことがある。上述の草原から塹壕、そして静寂の戦場へと、途切れなく特徴の大きく異なる舞台へ移り変わる様子は、確かにゲームのようでもあった。

そしてそれぞれの舞台でスコフィールドたちに事件が発生する点もゲーム的であった。眼前での敵機の墜落、味方部隊との出会い、橋の崩落と銃撃戦、地下に隠れていた市民との遭遇・・・。中盤以降はドラマティックな展開が続く。

100年以上前の戦争だから生き証人はいない。映画の最後にも「この話をしてくれた誰々に感謝」といった字幕が出ていたが、言ってみれば「事実に基づいた~」よりも脚色が強いのである。戦争映画をリアルとドラマに分けるのであれば、本作はかなりドラマに重心を置いた作品であると言える。

もちろんそれは良い悪いではなく好みの問題である。将軍の指示を受けた二人が何もない戦場をただ半日歩くだけでは映画にならない。しかし個人的には、冒頭の緊張感で身構えたところに立て続けにドラマを見せられることになって、少し拍子抜けしたというのが本音である。ご都合の展開も多かったし。

それでもワンカット風の効果は絶大であった。2時間の映画で翌日の朝まで描いているので、もちろん「風」には違いないのであるが、強引な辻褄合わせを感じることはほとんどなかった。撮影賞の受賞は至極当然と言えるだろう。

(75点)
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「星屑の町」

2020年02月24日 13時47分01秒 | 映画(2020)
その星は輝き続ける。


子供のころ、日曜日は必ず家族でドライブに出かけた。BGMはカーステレオから流れる内山田洋とクールファイブ。特にクールファイブのファンだったわけではなく、それしかカセットテープがなかったのだ。

小学生の兄弟が「噂の女」なんて曲を元気に歌う姿は、いま思えばシュールかもしれない。でも昔は音楽チャートに必ず演歌が入っていて、老若男女みんなが知っていて、歌詞の意味など関係なく誰もが口ずさんでいた。

数十年の時が流れて、昭和の歌謡曲は一つのジャンル的に扱われるようになった。そんな曲ばかりが流れるコンセプトのお店ができて、結構人気を集めているという話も聞く。日常で触れる機会がなくなった分、若い人たちには新鮮に映るのかもしれない。

25年前にラサール石井小宮孝康らが結成したユニット「星屑の会」。「笑ってホロリとする作品」を世に送る目的で作られたのが、売れないコーラスグループを巡る人間ドラマを描いた演劇「星屑の町」シリーズである。

何度となく映画化の話があったがなかなか実現せず、舞台の方は2016年公開の第7弾をもって完結した。今回は、改めて舞台版第1作のストーリーをベースに書き下ろした新たな脚本で臨んだ新作である。

時代は変わっても「笑って泣ける」は演劇の王道だ。「男はつらいよ」シリーズはその真骨頂と言えるが、本作の主人公たちも欠点だらけですぐに何かをやらかす。それでもどこか憎めなくて、最後は逆に彼らの魅力に惹きつけられてしまう。そんな骨格を持っている。

25年間演じ続けてきたメンバーだけあって、一瞬見ただけで「山田修とハローナイツ」というグループの歴史や立ち位置を感じ取ることができる。「超」が付く安定感の演技に観る側は依存してしまっていい。

今回そこに「台風の目になってほしい」とヒロインの役をオファーされたのがのんこと能年玲奈ちゃんである。ベースとなったシリーズ1作めでも登場する歌手志望の女の子の役を彼女向けにアレンジした脚本が作られた。

彼女にとっての実写映画の出演は「海月姫」 - Con Gas, Sin Hielo以来なんと6年ぶりだそうである。それでも、キラキラとした瞳で、少し猫背っぽく、東北弁を畳みかける前向きな女の子を演じる姿を見ると、時間の経過を忘れてしまいそうになる。とっておきの宝箱を久しぶりに開けたような、そんな気持ちにさせられた。

現在は「あーちすと」として活動を続ける彼女だから、もちろん音楽は相性が良い。ハローナイツに合流してステージに立つと、今度はカラフルな衣装を着こなしてモデルとしての魅力を全開させる。

彼女が加入してから売れ始めたという説明は劇中でされないが、温泉旅館の宴会場からテレビのスタジオ収録と景色が変わる様子を映すだけで、その変化は雄弁に語られていた。

今回、幸運にも舞台挨拶に立つ彼女の姿をかなり近い距離から見ることができた。映画の中に負けず劣らず輝きが半端なかった(携帯の画像はいまひとつだけど)。



最近よく聞く「神対応」「~過ぎる」という形容を自分で使うことは滅多にないが、彼女の姿にあは他の存在を寄せつけない「神々しさ」があった。スポットライトの光が後ろのスクリーンに投影するシルエットの輪郭でさえ完璧だった。

最近はキレイな女性が増えたからある程度はそれで満足できてしまうところがあるけれど、やはり彼女には多様なステージで輝いてほしいし、その姿をもっと見てみたいと切実に思った一日だった。

(80点)
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「リチャードジュエル」

2020年02月11日 13時19分44秒 | 映画(2020)
正義を背負うリスク。


アトランタオリンピックというと24年前の話である。人々は9.11を知らないし、携帯電話もそれほど普及していなかったから、世の中の景色は現代とは隔世の感がある。

それでも、本作がスポットを当てたテーマは現代社会にも通底する、というより更に深刻化している問題である。

オリンピックの関連イベントとして開かれていた音楽フェスの会場で爆発事件が発生する。警備員として勤務していたリチャード・ジュエルは、いち早く不審物を発見し観客を避難させたとして、メディアから正義のヒーローと祭り上げられる。

しかし事態は一転、FBIがリチャードを容疑者に指定していることが伝えられると周りはバッシング一色となる。リチャードに逆転の目はあるのか。

事件を捜査するということはまだ事実が確定していないということ。だからこそ「推定無罪」という言葉があるのに、ちまたの噂は正反対の方向に広がっていく。

この人は怪しい、性格が悪そう、こんなことを言ってたよ。推測と切り取り。時には意図的に空気を操って群集心理を誘導していく大きな力。リチャードの事件は、普通に暮らしていてもそうした力の標的になりうる恐怖を見せてくれる。

うがった見方をすれば、この映画だってどこまで事実なのかは分からない。映画だから一定の脚色が含まれていることは想像に難くない。映画の中でえん罪が形成されていく過程はあまりにも杜撰だ。

ちょっと調べれば分かる話なのに何故リチャードを容疑者に仕立て上げたのか理解に苦しむし、FBIとメディアの繋がりもステレオタイプ過ぎて、この話をまともに受け取っていいのだろうかと斜に構えて観ていたというのが正直なところだ。

そんなわけで、結局リチャードは証拠不足で無罪になるもののもう一つ爽快感には欠ける結果となったのは残念であった。残念と言えば、注目を浴びるためなら何でもするとリチャードを陥れる新聞記事を出したメディアが何のおとがめもないというのにも不満が残った。真実は必ずしも劇的ではないということなのかもしれないが。

リチャードが無罪となった要因としては、相手がFBIの支局だったということも挙げられるかもしれない。これが国家の中枢だったら杜撰だろうが何だろうが握りつぶそうとパワーゲームを仕掛けてきたであろうに違いない。現実にそういうニュースは世界中でちらほら聞かれる。そう思うとやはりこの映画が描く世界は恐怖だ。

リチャードは言う。「自分を取り調べるのはいいが、今後同じように爆発物を見つけた警備員は、リチャードの二の舞になりたくないと任務を果たさなくなるだろう」

事なかれ主義。触らぬ神に祟りなし。こうした空気は世界中に蔓延している。もちろん自分だって例外じゃない。どうすれば違う流れを作れるのか。明快な答えがない難しい問題だ。

リチャードを支える弁護士でS.ロックウェルが好演。「ジョジョラビット」 - Con Gas, Sin Hieloといい、最近かっこいい役が急増中である。

(70点)
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