日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

満載ワゴンで。

2011-12-18 | リブレリア
旅行の必需品は人によって様々だろう。

持病の薬

くるくるカールドライヤー
お気に入りのタオル

あたしには忘れてはいかん!という必需品が2点。


本と香水



これ大切ね!
これを忘れると落ち着かない。
香水は旅行先で手に入れるという方法もありだが
何より本を忘れるのがツライ。
今回の旅行は本を入れたつもりが忘れ、
あわてて東京駅構内の本屋に駆け込むもレジ待ち長蛇の列に阻まれ
本を持たずに新幹線に乗り込んだ。


暇すぎて死亡。


活字なしで新幹線に乗り込むなんて
ダシなしの味噌汁みたいなもので味気ないことこの上なし。
お湯に味噌溶いて飲めるかっていう話ですよ。

何もすることがない3時間。
帰路の新幹線なら寝てしまうっていう手が使えるが
遠足を明日に控えた子供の心境にある往路の新幹線では
あたしは眠れない。

眠いけど寝れない。
起きていてもやることはない。
暇すぎる時間は本当に針のムシロだ。




車内販売で雑誌ぐらい扱ってもらえると有難い。
雑誌にコーヒーをつけてもらって割高でも構わない!
どうだぁ!結構、商売として成立つと思うのはあたしだけだろうか。
どうでしょう?考えちゃあもらえないか?




ビジネスチャンスはゴロゴロあるのさ。
ワゴン一台、一獲千金!







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻想な光

2011-12-18 | Weblog
闇の中に小さな灯りがあるのとないのでは
こんなにも心持がが違うのかと思う。

暗闇の中で人はこんなにも
心細く、畏怖と恐怖と覚えるものなのか。
 
今でこそ人類は火を手に入れ
電気で明かりを操るけど
やっぱりその本能は変わらない。
 
光を見ると高揚し華やぎ、安心する。




 
この時期に
やはりイルミネーションが欠かせないのは周知の事実
光は暗い闇に浮かべば浮かぶほど貴重なものになっていくのだ。
 
 
月光や星の淡い光が
かくも明るく
夜を照らし出すものかという事を月食で知る。





 
 
嵐山の竹林を照らす灯篭の幻想的なことといったら・・。
寒い日に寒い寒いと乗ったトロッコ電車の車内も
ライトアップされ
トンネルを抜けるたび
幻想的な空間に変化する。
赤い光につつまれた車内はまるで宮沢賢治の銀河鉄道の夜を体験しているかのようだ。
窓に映りこむライト、木のボックス席、赤い窓枠。
終わってしまった紅葉をみるよりよっぽど印象に残る



ほのかな光はなにより幻想的でマジックのような驚き。
 











平等院、鳳凰堂にも光のマジックがひとつ。


 
ご本尊の額にある白毫(びゃくごう)が水晶で
本殿の中で見ると黒いのだが、敷居を一歩外に出てその額を見上げると
白く輝きだす。
埋め込まれた水晶の底に銀板があってそれに光が反射して白く輝くとのこと。
古の人たちにとってこの光のマジックは現代のあたしたち以上に大きな印象を
与えるに違いない。

電気のない時代の光は何より貴重。
ただ悲しい哉。
光を自在に操る術を手に入れた現代では
闇に潜む奥ゆかしさと陰影の美しさを忘れがち。
ほのかな明るさでさえ楽しむ余裕さえも失いがちなのだ。

光を操り、楽しむことができたのならそれはきっと時間を楽しくということなんだろう。
幻想的な光は幻想的な時間というところだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶の標本

2011-12-18 | Weblog
今回の旅行は本当に奇跡と言うべき偶然が重なりに重なって
ドラマチックで有意義でヘトヘトになった。


 
 
皆既月食に始まり
夢枕獏で終わる京都の旅
 
 
思うところがあり過ぎてなかなか文章にまとまらない。
旅行中に少しづつと思ったんだがゆっくり、記憶を反芻し
もう一度、旅行を楽しみたいと思ったのだ。
 
旅行の良し悪しはいかに鮮明にその記憶を維持できるかにかかっている。
1週間後、はたまた10年後・・・・・。
あの旅行は楽しかったと思い起すことが出来れば
それは間違いなく良い旅行だったといえる。
 
些細なこと、
足元に転がった石でさえ記憶に残ることもあるのだもの。

記憶の標本を採取するのが旅の面白さであり
醍醐味で目的なんだと思う。

記憶の標本

あたしの標本はまだまだこれから充実するのだ。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリの女

2011-12-18 | リブレリア
パリの女






アンドレ・モーロア 「パリの女」

京都にて「パリの女」に出会う。
パリジェンヌは一つの伝説であり、一つの概念であり、
一つのエサンスであったのだ。
という定義ではじまる「パリの女」

パリでしたたかに生きる女を切り取るフォトブック。



結局のところパリであれ、NYであれ東京であれ
女性とは逞しく、ふてぶてしい一面と
同性であれ、異性であれ他と自分を比べてしまうの繊細さとをもちあわせるのは
万国共通なのだと理解した。

京都も然り。


日本全国、津々浦々
世界各国、櫓櫂の及ぶ限り女は逞しくかつ繊細だ。




怒り
笑い
疲れ
それでも真摯に生きていく。




京都で「女」の醍醐味に出会うとは。
旅にはでてみるものよね。
普段忘れていたことに気がつくのも旅行の楽しさ。



女の真価はーどれだけ「生活」を楽しめることーなんだろう。


辛くてもその中に、
楽すればもちそんそれで!!
京都で忙しく逞しく時に優雅に楽しげに働く女性を
見て、すかっとする。
勤労は正しく人間の本能だと確信する。
やっぱり女はエサンスが大切。
逞しく、しぶとく 図々しい余裕。
本当は軽やかに可憐でしなやかな余裕を持ち合わせたいが・・・・・



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする