原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

松葉杖歩行での電車利用にて「マイナカード」を作りました。

2022年12月24日 | 自己実現
 (冒頭写真は、先だって区役所まで出かけて作成してきた原左都子のマイナカード。 裏面を撮影しています。)


 原左都子は、“マイナンバー制度”自体を決して肯定している立場ではないが。

 何故、この年末に当該カードを作成しに出かけたのかと言うと。
 その第一の目的は、現在我が身に抱えている膝の複雑骨折後の松葉杖による歩行訓練の一環に過ぎなかった、と言うのが本音だ。

 我が家が普段利用している鉄道路線は、自宅から歩ける距離で3路線存在するが。 
 そのうち、区役所へは2番目に近い駅利用にて11分の徒歩で行ける距離にある。
 これ、松葉杖歩行練習に最適と考えた私は、この機会に区役所へ出掛けて「マイナカード」を作成することとした。


 さて、区役所へ到着すると、「マイナカード」コーナーが区民でゲロ混み状態だ! 掲示板によると「待ち時間150分」の表示だ。

 そんなには待てないぞ! と多少苛つきつつ係員に問うてみると、「この待ち時間は最長の方の目安です。 本日の目的により待ち時間が異なりますが、マイナカード受け取りのみの方は短時間で済みます。」

 ならばと思い椅子に座ろうとすると、狭い会場が大混雑だ。
 (何でこんな狭い会場を「マイナカード」手続き会場としてるんだ?!? コロナ対策も何もあったもんじゃないなあ! まるで、マイナカードを受け取りに来た区民は“どぶ”扱いだなあ。) と怒りつつ、狭い会場を見ると、空き椅子が全く無い。
 (何?? 骨折した身で長時間立って待たされるのか!?!?)
 と更に怒っていると。

 な、なんとご親切に、私とさほど年齢が変わらないと思しき区民女性が、我が松葉杖を見るなり、「気が付かなくてすみません。こちらにどうぞ。」と席を譲って下さろうとする。
 それはとても嬉しいのだが、その女性とて高齢域のはずだ。 (それに甘えさせていただいていいのか??) と多少躊躇していると。

 今度は斜め前に座っておられた同じく同年代程の女性が、「こちらの席の方が呼ばれた時に立ち易いですから、こちらにお座りください」と言いつつ、さっさと立って下さる。

 重ね重ね有難く思いつつ、ご両人に丁重に御礼を申しあげて立ち易い方の席に座らせていただいた。
 
 お蔭を持って待ち時間約20分程だったが、事なきを得て順番待ちタイムを過ごすことが叶った。

 これに対して、係員(若手職員が多かったが)の対応は残念ながら行き届いていなかったと言えよう。

 とにかく、こんな場で区民女性の親切に触れることが叶い、行った甲斐があったとの有難い思いで会場を後にした。


 ついでに、電車内での松葉杖の身からの状況を語ると。

 昼間の時間帯につき混雑が無かったのが幸いしたが。
 電車の椅子に座る場合は、どうしても我が身を支えるつっかえ棒が欲しいため、ドアのすぐ隣の席に座るべきだと悟った。 
 それが叶わない場合は、乗車中はドア付近で立っているべきだとも悟った。
 下手に中ほどの座席に座ってしまうと、立つ際につかまるものが無く、立つのに苦労するであろうと察した。

 元より駅構内がバリアフリーを採用していなければ、現在の我が身体状況では電車の利用は無理とも悟った。 
 同じく、これがもしバスであったとしても、ノンステップバス以外は利用不可と悟った。


 マイナカードに関して少し語ると。
 
 私本人がその効用をよく理解していない立場なのだが、どうやら来年2月までに作成すると最大2万ポイントが付与されるらしい。
 ただし そのポイントに関しては様々な条件があるし、簡単に手に入る代物ではないようだ。
 
 そもそも、ポイントには何らの期待をしていない私としては。

 とにかく現在不具合を抱える身にして、単身での電車利用が叶った事実が最大の収穫だったと言える。

 今後も、松葉杖での電車利用を拡大したい意向だ。


自分が迷惑な存在であるとの事実を自覚できない奴

2022年12月23日 | 人間関係
 現在の原左都子にとって、今一番困惑しているのが表題の件だ。

 
 高齢者介護施設にて暮らしている我が義母が、かなり以前より認知症状及び難聴を抱えていてほぼ恍惚状態である事実に関しては、バックナンバーにて幾度となく述べている。

 その義母が、現在またこの私に難題を投げかけて来ていて困惑している。

 それは、左膝を複雑骨折して手術を施し全治3か月の身との事情を抱える私に対し。
 義母が今どうしても会いたいから施設へ来て欲しい、としつこく嘆願してくる事実だ。

 亭主を通して、全治3か月の身であることは重々伝えてある。
 それにもかかわらず義母が何故今すぐ私に会いたいのかの理由を、私はお見通しだ。
 それは、義理母なりの“義理の心遣い”なのだが。
 要するに、大怪我との災難に遭っている私を一日も早くねぎらってあげたいとの心理状態にがんじがらめになっているのだ。
 これ困ったことに、義母とは昔からその心理状態を引きずっている人物だ。

 とにかく現在未だ普通の歩行が困難であり、平地ならば松葉杖で何とかゆっくり歩けるものの。 一段でも階段があると歩行を遮られるとの厳しい状況である事実を何度伝えても。
 電話口で、どうしても高齢者施設まで来て欲しい、と言って聴かない。

 昨日はこちらが根を上げて亭主に伝えた。「もうアンタの母親が鬱陶しくて、このまま年を越す気分になれない。 いっそ年内に一度、タクシー利用で一度アンタの母親に会いに一人で施設へ行ってくるわ。」

 それに同意するこれまた軟弱な亭主だが…

 ただ詳細を考慮すると、やはりこの身で施設を訪問するのは施設のスタッフの皆様に対して失礼な行為だと考える。
 そうでなくとて認知症等々手がかかる高齢者相手に日々多忙を極めているスタッフの皆さんは、年末の多忙な時期に猫の手も借りたい思いであろうに。 こんな不具合者が松葉杖ついて訪問したならば、目障りであろう。
 しかもコロナ禍がまたもや猛威を振るい始めているこの時期だ。
 今は、訪問を遠慮するべきと考えるのが常識であろう。


 結果としては 12月31日大晦日の日に、我が一人娘も連れて一家3人で義母が暮らす高齢者施設を訪問することとした。

 本音を言えば、大晦日の日は一人娘を我が家へ呼んで一家3人でゆっくり寛ぐ予定でいた。
 その前に、3人で少し早めに高齢者施設を訪れて義母に面会する段取りとした。
 幸いなことに、施設の方も“コロナ対策”で外部からの面会の時間を短時間に限っている。



 怪我や病気とは、それを患っている本人にとっては外部者が思うよりも実際、苦痛や苦労が多いものだ。
 その辺に配慮してもらって、外部者はそっと放っておいてくれるのが一番有難いのが本音だが…

 何分、義母はそんな判断や気遣いも不能なほどに年老いてしまっている。
 不具合を抱える我が身にして、年末に仕事が増えたのもやむを得ないと考える他ない… 😫 😭 


外交機会を模索した跡が無い岸田政権の安保戦略で戦争を防ぐことができるのか??

2022年12月22日 | 時事論評
 本日は、朝日新聞2022.12.21付夕刊  “時事小言”  国際政治学者:藤原帰一氏による「安保政策大転換 NATO化する日米同盟」を取り上げる。


 以下に、その一部を要約引用しよう。

 岸田政権は、自衛隊の新たな装備と態勢拡充を盛り込んだ3文書を閣議決定した。 今後10年を想定した「国家安全保障戦略」を中心に、防衛計画の大綱と中期防衛力整備計画と呼ばれてきた文書を改訂した「国家防衛戦略」と「防衛力整備計画」をおく構成だ。
 3文書は、日本の安保政策を転換するものだ。 国内総生産1%を2%に倍増する規模である。 自衛隊の装備では反撃能力の名の下にミサイル基地を「たたく」、つまり攻撃する手段を持つ方針に転じた。 国産ミサイル、トマホーク購入も計画されている。
 反発が生まれた。 基地攻撃能力は専守防衛の骨抜きではないかと懸念され、防衛力整備財源の多くを増税に頼る点にも批判が集まった。
 私(藤原氏)は、やや異なる角度から考えてみたい。 今回の安保戦略は抑止力強化を目的に掲げているが、その役にたつのか、戦争を防ぐことはできるのかという問題である。
 日本を取り巻く安保環境は厳しい。 中国は通常兵器と核兵器の両方で軍拡を進め、北朝鮮はミサイル発射を繰り返している。 中国、北朝鮮、あるいはロシアによる攻撃を未然に阻止する抑止力の強化は確かに必要だ。
 では長射程ミサイル保有が抑止力を強化するのか。 日本単独で攻撃の抑止を試みるのなら、その効果は限られている。 どれほど日本がトマホークを購入しても既に大量のミサイルを保有するギャップは著しい。 日本のミサイルのために北朝鮮が攻撃を思いとどまるとも考えにくい。 日本の戦力は、米国とその同盟国の持つ抑止力の一環として考えなければならない。
 既に米国と中国との競合はテクノロジーから郡司まで全面的な対抗に至り、中国脅威論は米国に加えてその同盟国に共有されている。 (中略)
 ここで拡大抑止の実行力が課題となる。 有事において米国が日本を守るのか。逆に、日本が米国の戦争に巻き込まれても良いのか。 (中略)  日本は米国と同盟を結びながら、専守防衛に基づき日米協力の範囲に限定を加えて来た。
 今回の3文書は日本単独ではなく、米国とその同盟国と連携した抑止力強化の試みとして捉えられる。 これは、いわば米国同名のNATO化である。 専守防衛に基づいて制限してきた日米協力の範囲を広げ、有事に自衛隊と米軍の連携を強め、日米防衛協力をNATOにおける老明国の連携に近づける構想だ。
 だが、中国や北朝鮮は以前から自衛隊の戦力を米国、オーストラリアや韓国など米国の同盟国とそれと一体のものと捉えて来た。 日本が戦力を増強しても両国の行動が変わることは期待できないが、西側に対する脅威認識は拡大する。 その結果は米ソ冷戦の時代のような軍事緊張の恒常化である。
 侵略に対する抑止は必要であるが、抑止に頼る対外政策は戦争の危険を高めるリスクがある。 このジレンマがあるからこそ、抑止戦略と並んで外交による緊張緩和の可能性を模索しなければならない。
 外交によって中国や北朝鮮との緊張を打開することは極度に難しい。 だが、岸田政権には外交の模索をした跡がみられない。 抑止力強化に積極的な政権の、そこが危い。

 (以上、朝日新聞「時事小言」より国際政治学者・藤原帰一氏による論評の一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の感想を述べよう。

 藤原氏が文面の最後に述べられている文章を繰り返すが。
 「岸田政権には外交の機会を模索した跡がみられない」
 
 原左都子の感想もその通りである。
 岸田政権発足後、この方は時々海外へ出向かれている様子だが。 まさに一国の首相として何らかの「外交」を築きあげた功績を、私は未だ拝見していない気がする。

 そんな岸田氏が突如とこれまでの我が国の安保政策を大転換し、防衛費を国内総生産2%の規模まで倍増し攻撃力を持つ方針を発表した事実に、心底驚かされた。
 しかもその防衛力整備財源を国民に対する巨額増税に頼ると大々的に発表した。


 こんな危い政権の下で、のほほんと生きている訳には行かなくなってしまった。
 今後の巨額増税によりこの国の人民もさらなる貧困をつきつけられるのだろう。

 力無き一国民として今何をどうすれば岸田政権の暴走を阻止できるのか??
 
 その手だてが探れず、日々先行き不安感・不透明感が強まるばかりだ…
 

学校給食に於けるアレルギー死亡事故を完全撲滅するには

2022年12月20日 | 教育・学校
 本日の話題は、学校給食におけるアレルギー死亡事故に飛ぶが。


 今からちょうど10年程前に東京都調布市の市立小学校で給食を食べ、アレルギーショックで亡くなった小学5年生の女子に関するエッセイを、私は我がエッセイ集内で綴り公開している。


 以下に再掲載しよう。

 2012年12月に東京都内某公立小学校において、食物アレルギーのある女子児童が、担任が誤って渡した給食の食材によりアナフィラキシーショックを起こし死亡するとの痛ましい事故があった。

 このニュースを先だってNHKニュースで見聞した原左都子だが、その報道のし方に大いなる違和感及び疑義を抱かされた。
 当該NHKニュース報道では、「女児が給食で『おかわり』をした際に担任が手渡した食材によりアレルギー反応が起こった」との表現を用いていたのだが、ニュース表題にも「おかわり」の文字を使用する等、女児自身が「おかわり」をした事を殊更強調しているかのように私の耳に入ってきたのだ。
 これでは、まるで「おかわり」をした女児側の自己責任範疇の事故と視聴者に受け取られかねないのではあるまいか?!?
 とんでもない話だ。 
 女子児童は未だ11歳の小学5年生。 もしも周囲の児童達が元気よく「おかわり」をするのが日常であったとするならば、女児とて担任が自らのアレルギー体質を理解してくれているものと信じ「おかわり」を要求することは重々想定内の出来事であろう。

 今回の我がエッセイは、当該事故を時事問題あるいは医療問題として取り上げる趣旨ではないため、ここでは専門的な発言を差し控えることとする。
 ただ、元医学関係者として一言のみ私論を付け加えさせていただくならば、義務教育現場は一部の児童が抱えている食物アレルギーを絶対に軽く捉えてはならない事を再認識するべきである。
 現在公立小中学校に通う児童達は、全員学校で給食を取る事を強制されている。 そうであるなら尚更、現場の教職員は一部の医療的弱者児童の存在を肝に銘じるべきである。 一見元気そうだからと、児童が抱えている体質を安易に見過ごしてはならない。 
 
 学校給食が元でアナフィラキシーショックにより命を落とす児童は、今回に限らず後を絶たない現実だ。
 もしも学校現場の教職員がそれら児童の徹底管理にまで手が回らないのであれば、全員一斉食材を基本とする給食システムこそを、今一度その細部に至るまで再考し直すべきだ。
 食物アレルギー児童を抱える家庭によっては、自宅から弁当を持たせる事例も存在する事は私も承知している。  それが時間的制約等様々な事情で叶わない家庭が多い実情をも踏まえ、時代の要請に応じてもうそろそろ義務教育行政は何らかのきめ細かい対策を練る事に着手するべきではないのか。

 参考のため、1月8日付朝日新聞の当該事故に関する報道のタイトルは 「担任、誤り料理渡す」と記されている。
 記事を読み進めたところ、最後の目立たない場所に一言のみ「おかわり」の文字があるものの、この記事においてはあくまでも担任教諭の落ち度を前面に出す体裁となっている。
 原左都子としては、当然ながら朝日新聞の報道観点・姿勢こそに賛同したい思いだ。

 さてさて今回の記事は、学校給食における 「おかわり」 を考察することを趣旨としているのは表題に掲げた通りである。
 上記女子児童の学校給食による痛ましい食物アレルギー死亡事故に際して、NHKニュースが給食を 「おかわり」 したことを執拗にまで繰り返していた事実に、とことん反発したい思いが我が脳裏に渦巻き続けている故である。

 実は我が子が小学2年生の時、公立小学校担任先生との保護者個人面談において、「○○ちゃん(我が子のこと)は給食の『おかわり』ができるまで成長していますよ!」と告げられた経験がある。
 これには仰天した。 (「原左都子エッセイ集」読者の方はご存知であろうが)我が子は出産時のトラブルにより若干の事情を持って産まれ出ている。 特に幼少の頃は衣食住全てに関してケアが必要な身であった。 「食」に関しても例外ではなく、必要最低限の栄養源を摂取させることに日々精進した私である。 
 公立小学校入学後は、案の定給食を時間内に食することが出来ず、担任先生のご好意による配慮で我が娘のためにクラスの給食時間を最大限長くして頂いた経験もある。
 その後上記担任先生がおっしゃるには、娘が小学2年生に進級した時、級友達の勢いに煽られて給食の「おかわり」をしたと言うのだ!(それを娘が食べ切れたか否かは不明であるものの…。)
 このようにまだまだ未熟な児童にとっては、公立学校に於ける給食時の「おかわり」とはその成長を物語る一場面の意味合いもあるのかもしれない。  集団生活内での「給食」という場を有効活用して、我が子を成長に導いて下さった当時の担任先生に感謝申し上げたい思いである。

 原左都子自身の昭和30年代後半頃の郷里過疎県での小学校給食を振り返ると、それはそれは実に“まずかった”の一言に尽きる…
 既に4時間目あたりから給食時間が嫌で嫌で、(今思えば)そのストレスで胃液が我が体内を襲い、とても給食が食べられる身体環境ではなかったものだ。(後々考察するに“集団嫌い”だったことも理由として大きいのだが…)
 そんな厳しい学校給食現場を経験した私は、当時級友が「おかわり」をしていたかどうかの記憶すらない。
 今思うに、当時から学校給食とは給食当番児童生徒が「アルマイト」の食器にテキトーに配るシステムだったため、当然ながら“残り”が存在していた事であろう。それを元気な児童が「おかわり」していたのだろうと考察するものの…。
 中学生になってからは、多少事情が変化した。
 身体が大きく育っているこの私とて昼食時にはお腹が空き始めたのである。 ところがこれまた当時の時代背景であろうと考察するが、女子生徒が学校給食の「おかわり」など出来る訳もないのだ。 まだまだ控え目な女子が好まれた時代背景である。
 周囲の女子生徒皆が「もう食べられない~ ウッフ~~ン」などと(言ったかどうかの記憶はないが)、給食のパンを残すことが美徳とされていたのだ。 「ゲゲ!私は完食できるのに…!」とは思いつつそれに同調しないことには、その中学を女子として渡っていけない気がしていた私だ…
 そうこう思い起こしてみるに、人間最低限の食の場であるにもかかわらず集団行動を強制される学校給食とは実に辛いなあ…… 

 最後にやはり冒頭の事件に戻りたい私だ。
 義務教育学校現場における給食が国民に果たしている役割は、その恩恵に与った時代がある私も確かに大きいものであることは自覚できている。
 そうであるからこそ、「食」に関するあらゆる多様性を学校現場は認識し直すべきであろう。

 今一度言うが、公立小学校に通っていたアレルギー女児は、決して給食の「おかわり」をしたから死に至ったのではない。
 人間の多様性を心得ない、あるいはその対策を怠っている義務教育学校現場が招いた悲惨な事故に他ならない。

 (以上、本エッセイ集2013.01公開のエッセイのほとんどを再公開したもの。)


         

         

 これらの写真は、2022.12.19付朝日新聞記事「『ちょっとちがう』11歳の命の先に 給食アレルギー事故10年 対策の訴え形に」と題する記事より引用したもの。

 上の写真は、亡くなった少女が生前授業中に書いた詩「ちょっとちがう」。 
 この作品を見れば、少女のお母上は我が子の食物アレルギーを十分に理解しつつ少女に接していた事実が読み取れる。
 
 下の写真は、現在実施されている「学校における食物アレルギー対応の「調布モデル」」。
 これだけの配慮があれば、児童生徒の給食時の食物アレルギー事故を防げるであろう。
 小学校現場が進化を遂げている事実に、安堵する。


 話題を変えて、我が一人娘も生後間もない頃より若干の食物アレルギーを抱えている。
 その事実にすぐに気づいた私は、私なりの最大限の注意を払いつつ接してきたものだ。
 今尚絶対に食せない食材が複数あるため、寡黙な娘には、「必ずその事実を食材提供者に伝えよ!」と言い聞かせる日々だ。
 お蔭で事なきを得ている様子だが。

 とにかく、食物アレルギーを決して軽くみてはならない。

 特に学校給食等々集団現場に於いては、今後共それを肝に銘じた対応を願いたい。 


国力を超えた国防はあり得ない

2022年12月19日 | 時事論評
 昨日公開のエッセイと同趣旨の記事が続くが。



 本日も、朝日新聞2022.12.18付「天声人語」より一部を引用しよう。

 アフガニスタンで3年前に殺された医師の中村哲さんは、武器を手にした人間の弱さと狂気を知り尽くした人だった。 現地で人道支援をしながら幾度も戦闘に巻き込まれたからだろう。
 「『撃つな』という方が勇気が要って、ぶっ放すことは本当に簡単だと思いました」と作家の半藤一利さんとの対談で語っていた。
 日本の防衛政策が大転換することになった。 安保保障関連3文書が閣議決定され、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有が宣言された。
 専守防衛を揺るがす、何とも危い動きである。 疑念は尽きない。 どんな基準で相手国を攻撃するのか。 専守攻撃にならないよう歯止めはきくのか。 こちらが強めれば、相手も強めるかもしれない。際限なき軍拡競争への懸念もある。防衛費は5年間で1,5倍以上の43兆円にするというが、そんな急増が本当に必要なのか。
 社会保障の予算の伸びは厳しく抑え込まれている。 国力を超えた国防はあり得ない。 防衛費増額を求めて来た人も疑問を呈しており、元自衛隊司令官の幸田洋二さんは本誌の取材に「身の丈をこえたものになっています」
 もっと時間をかけて広範な議論をするべきだったのではないか。 国民に覚悟を求める重大時なのにあまりにも拙速で乱暴な政治である。
 
 (以下略すが、以上朝日新聞2022.12.18付「天声人語」より引用したもの。)



 原左都子の感想に入ろう。

 昨日も、同趣旨の「安保保障関連」の記事を公開したのだが。

 私としては非常に残念なことに、いつものエッセイよりも世の反応が極端に少なかった。😫 

 特に当該goo内においても、いつも我がエッセイ集を贔屓にして下さっている方々の中にも、昨日のエッセイは避けて通られた方々が多発している様子だ。

 goo内ランキングを少し覗いても、上位にランキングしているブログ内に同種のオピニオン記載を見ることは無い。

 もちろんのこと、ブロガーの趣味も志向もそれぞれであるに決まっているし、それを否定する訳も無いのだが…



 それにしても。
 国民個々の今後の命までをも揺るがしかねないニュース報道に対する、国民の皆様の考えや思いを知りたくもある。

 岸田政権の発表に無条件に同意しているのか?
 いや、積極的に本気で同意したいのか??
 そうではないが、底辺国民が少しぐらい騒いでも世は変わらないと諦めているのか?
 ウクライナ情勢や北朝鮮からのミサイル発射に飽き飽きして、ああいう被害や犠牲にはなりたくないから今のうちに「反撃能力」を養いたいのか??


 原左都子の考えは、上記のいずれにも当てはまらない。
 かと言って、この問題に対する自己の確固たるポリシーを確立するまでには未だ至っていないが。
 とにかく、私としては現在朝日新聞が掲げている論調に同意したい思いであることは確かだ。
 
 今後も 事ある毎に、この安保保障関連に関する私論エッセイを述べ続けたいと欲している。