原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

防衛大学卒業生の任官拒否者が多い程、私は世の安泰を感じる

2016年03月21日 | 時事論評
 私の母方の従弟が防衛大学出身であることは、既に当エッセイ集にて公開している。

 その記述をした約1年前の 2015.3.25 バックナンバー「安倍総理の安保歴史認識の歪みに今こそ野党は対抗せよ!」 より、一部を以下に要約して記そう。

 昨年3月22日、防衛大学卒業式に関するテレビニュースを視聴していた私は、内閣総理大臣かつ自衛隊最高指揮官の立場で訓辞を述べた安倍総理の、今後の国家安全保障に関する発言内容の大いなる「偏り」に辟易とさせられた。
 冒頭より私事を記させて頂こう。
 私の従弟が防衛大学出身者であり、現在防衛庁のトップ幹部として活躍中である。 参考だが、彼は民主党政権時代に蓮舫氏が政権の売りとして“事業仕分け”を高らかに実施していた頃、防衛庁幹部の立場で事業仕分け特番のテレビ出演もこなしている。
 この従弟、我が血縁親戚筋の中でも1,2位を争う秀才だった事は間違いないのだが、現役にて京都大学及び防衛大学に合格した。 当然京大へ進学するのかと思いきや、本人が進路として最終決定したのは、なんと! 防衛大学だった。  特段生活に貧窮している家庭ではなく、また、至って穏やかかつユーモアセンスもある従弟が何故防衛大学を進路としたのかに関しては、さほどの深い付き合いが無かった私には今尚未知数だ。   防衛庁トップに君臨している現在たまに電話で話す機会があるが、昔と変わらぬユーモアセンスに双方が電話口で笑い転げる始末だ。  私の解釈としては、(従弟の真の国家安全保障上のポリシーは未だ不明だが)この一見柔和で人懐こい人格をもって、虎視眈々と防衛庁の上位まで上り詰めたものと推測している。
 ここで、防衛大学卒業式に臨んだ安倍総理の訓辞の一部を紹介しよう。
 戦後、我が国はひたすらに平和国家としての道を歩んきた。  しかしそれは「平和国家」という言葉を唱えるだけで、実現したものではない。   自衛隊の創設、日米安保条約の改定、そして国連PKOへの参加。 国際社会の変化と向き合い、憲法が掲げる平和主義の理念のもと、果敢に「行動」してきた先人たちの努力の賜物である。私はそう考える。    「昨日までの平和」は「明日からの平和」を保障するものではない。  「不戦の誓い」を現実のものとするためには、私たちもまた先人たちに倣い、決然と「行動」しなければならない。  それ故、いわゆるグレーゾーンに関するものから集団的自衛権に関するものまで、切れ目のない対応を可能とするための法整備を進めている。
 「行動」を起こせば批判にさらされる。 過去においても、「日本が戦争に巻き込まれる」といった、ただ不安を煽ろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。しかし、そうした批判が荒唐無稽なものであったことは、この70年の歴史が証明している。  「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」  この宣誓の重さを、私は最高指揮官として、常に心に刻んでいる。  自衛隊員に与えられる任務は、これまで同様、危険の伴うものだ。 しかし、その目的はただ一つ。すべては、国民の命と平和な暮らしを守り抜くため。そのことにまったく変りはない。
 その強い使命感と責任感を持って、これから幹部自衛官となる諸君には、それぞれの現場で隙のない備えに万全を期し、国防という崇高な任務を全うして欲しい。  (以下は略するが、以上防衛大学昨年度卒業式にて安倍首相が卒業生へ贈った訓辞より一部を要約引用ししたもの。)
 私論だが、この安倍氏の訓辞を受けて民主党枝野氏が反論した通り、内閣総理大臣である安倍氏本人こそが戦中戦後時代に日本国民及び近隣諸国が置かれていた悲惨な事態に関し、あくまでも“庶民の立場”に立った歴史感覚を学び直すべきではあるまいか?    頭でっかちなど組織最上部の“口ばかりで実質何の役にも立たない”立場で済む人種のみに留めて欲しいとの、世界中の末端人民からの切なる希望ではなかろうか…
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより引用したもの。)


 さて引き続き、本日(2016.3.21) 防衛大学卒業式に臨んだ安倍氏が卒業生相手に訓辞した内容を、ネット情報を参照して以下に要約して記そう。

 安倍晋三首相は21日午前、防衛大学校の卒業式で訓示した。 首相は、集団的自衛権行使などを可能とする安全保障関連法の意義を重ねて強調した上で、29日の同法施行に関し「法制に基づく新たな任務も、安全を確保し適切に実施できるよう、周到に準備しなければならない」と述べ、部隊の行動基準策定や訓練実施など万全の措置を講じる考えを表明した。
 安保法制について首相は、「いかなる状況にあっても国民の命と平和な暮らしを守ることを考え抜いた結論だ」と指摘。 その上で「自衛隊員の任務はこれまで同様、危険を伴うが、全ては国民のリスクを下げるためだ」と述べた。  (中略) 
 一方、今年度の防大卒業生は、外国人留学生を除く419人(うち女性31人)。 民間企業への就職などによる任官拒否者は47人となり、昨年度の25人からほぼ倍増した。 辞退率は過去4番目に高い11.2%で、25年ぶりに1割を超えた。 雇用情勢の改善とともに、安保関連法による任務拡大への懸念も影響したとみられる。 
 (以上、ネット情報より一部を要約引用したもの。)


 冒頭に記した、我が従弟の話題に戻そう。

 彼は(実母の話によると)現在50歳程で、防衛庁に於いて働き盛りの年代であるようだ。
 だが、安倍氏が表明するがごとくの防衛庁の先頭(戦闘?)に立つべく職務には就かずに済み、例えば上に記した“事業仕分け担当でテレビ出演”したり、防衛大学校の教授任務を遂行したりしている(言い方は悪いが、軟弱な立場の)様子だ。  私に言わせてもらうと、それぞ幸いとするべきだろう。 
 実母が私に告げるには、彼が仕事で移動する時には必ずや運転手付きの専用車が出迎えるらしい。 「それはおそらく防衛庁の機密保持政策に基づいた処置だと思うよ」と私が諭しても、実母は単に従弟が「偉い」からだと勘違いしている様子であるのは放っておくとして…

 防衛大学出身者としてその幹部にまで上り詰めるには、越えねばならない関門がある事を私は従弟を通して認識している。
 要するに一旦国家の僕(しもべ)となったならば、家庭を持って子供が生まれようと容赦なく「転勤」また「転勤」を一生国家から強制される様子だ。 それは防衛庁組織の上部に君臨する程厳しさを増すようだ。
 従弟の家族もその被害に遭ったと言えよう。  離婚こそ何とか回避してはいるものの、ずっと単身赴任で別居を強いられてきた従弟の子供達は常に母一人に育てられ、その家庭は“崩壊状態”と言って過言でない有様だ。
 (参考のため、上層部ではない自衛隊員の家庭など一生官舎に住めば済む話かもしれない。 それでも、家族全員が幾度も引越しを強制され、子供達は転校また転校を余儀なくされているのではあるまいか?)

 民間企業や国家公務員の家族とて同じ思いをしている例もあるだろう。 が、特に防衛大学を卒業し防衛庁幹部に上り詰めた場合、過去に於いてその学費等のすべてを国家が血税にて賄うとの恩恵に授かっている以上、一生に渡りその代償をも負担させられるべく結末となる事は私も想像が付く。


 最後に私論を掲げよう。

 従弟の生き様を通したり様々な人生模様を総括して我が結論を出すならば、表題のごとく防衛大学卒業生の任官拒否者が多い程、世は安泰な未来を歩むと思えるのだ。

 まさか、国家が任官拒否した防衛大卒業生達から血税を没収する事はないだろう。
 任官拒否した防衛大学卒業生達には、どうか民間人として勇気を持って輝かしき業績を上げ、我が国の真に平和な未来を背負って欲しいものだ!

クレーマー v.s クレーマー

2016年03月19日 | 時事論評
 私が本日のエッセイ表題に掲げた「クレーマー」には、 プラスの解釈では「主張する人・意義申し立てする人」との意味合いがある。
 一方、マイナスの解釈によれば、「苦情を申し立てる人。特に,本来の苦情の領域を超えて,あら探しのような苦情を企業に寄せたり,執拗に抗議を繰り返したりする人をいう。」との意味合いがあり、今現在の我が国ではこちらの方が一般的な理解のようだ。

 参考だが、今回の我がエッセイは1979年公開の米国映画「クレイマー・クレイマー(原題: Kramer vs. Kramer)とは一切無関係であることをお断りしておこう。
 当該映画は、夫婦である夫クレイマー氏と妻クレイマー氏が離婚に際し被告と原告の立場で幼少の子供の親権をめぐり裁判にて争うストーリーであるが、当時第52回アカデミー賞等々著名な賞を受賞している名作だ。  おそらくクレイマー氏との姓と、「主張する人」の意味合いがある「クレーマー」をひっかけて映画の題目としたものと思われる。
 私事だが、私はこの映画を20代の独身時代に観賞して、いたく感動した記憶がある。 結婚願望も子育て願望も一切なかった頃だが、ダスティン・ホフマン氏演ずる夫側こそが勝利するべきと最初から応援していた。 そうしたところ、結果としては妻側が裁判にて勝利した。 
 ところが最後の場面で一家3人が暮らした家へ子供を引き取りに立ち寄った妻が、「我が息子はこの部屋で暮らす権利がある、ナンタラカンタラ…」と自分の事実上の敗北を涙ながらに認める場面に、私も泣けてしょうがなかった。  妻が子供を自宅に置いてけぼりにして親権を取るべく裁判で勝利せんと躍起になっている間に、夫側は我が子との関係を下手なりにも築き上げるべく日々弛まぬ努力を続けた。 子供もそんな父親こそが自分の親と信じるに至っていたのだ。 その子供部屋の壁紙が青空に雲が浮かんでいる絵柄だったことを、今尚鮮明に覚えている。


 余談が長引いたが、本題に入ろう。

 我が「原左都子エッセイ集」など 「クレーマー エッセイ集」と題してもおかしくない程に、日々社会に生じる諸現象に対し“異議申し立て”を展開し続けている事実を自覚している。

 そんな私の「社会諸現象に対する異議申し立て活動」は、何も今に始まった事ではない。

 郷里より上京後社会人として自立し、新聞等のニュース報道に大いに興味を持ち始めた20代後半の頃より、既に例えば所属している企業の上司や上層部に対して「意見書」を提出する等々の手段で“クレーマー活動”を執り行って来ている。
 少し記憶にあるのは、企業が東証上場に向け大きく成長するに伴い「工程効率化」に動いた時期に “社員一人一人の人権こそを尊重するべき!”なる意味合いの投書をした記憶がある。 この我が投書をきっかけに、その後上司と幾度も話し合いを持ったものだ。

 その後長き時を経て晩婚後子供が生まれて以降は、「意見書提出」に励む日々だった。
 (手元にそのコピーを今現在も保存してあるのだが)、例えば我が子の公立小学校を管轄している自治体市長宛に、直々「意見書」を提出したことがある。  その内容とは「発達障害児(当時はまだその名称が一般的ではなかった)の指導教育の充実を願う」趣旨だったのだが、市長の直筆署名入りの回答書が自宅まで届いた時には、その回答内容が不十分だった事は不本意ながらも、自治体市長が一市民に回答せんと志した事実に一応安堵した。 
 あるいは、我が子の所属公立小学校長宛に幾度も「意見書」を提出して来たことに関しては、当エッセイ集バックナンバーにて公開している。 


 さて、話題を変えよう。
 本日(3月19日) 朝日新聞 “悩みのるつぼ” の45歳妻の相談内容が、「クレーマーの夫どうしたら?」だった。 
 その内容を以下に要約して紹介しよう。
 45歳の妻だが、我が夫はいわゆる「クレーマー」だ。 何か商品を購入したり新しいことをするときは必ず相手や会社に対し、怒鳴り散らしていちゃもんを付ける。 「電話連絡の時間帯が悪い」 「こんなにたくさんの書類を顧客に書かせるな」 「個人情報を欲しがっているんだろう」 「こんなものに手数料を取るのか」 等々…。  結婚して15年。 遠距離恋愛で私も気付かなかったのだが、頻繁に外で喧嘩をする人だと知った。 穏やかな時もあるが、3人の子供達も亭主の姿を見ては「またか…」と慣れきっている。 最近は、「そういう奴らばかりだから世の中がいい加減になる」とエスカレート。 このまま傍観するべきか。 私が何らかのクッション材となるべきか教えて頂きたい。
 (以上、本日の朝日新聞“悩みのるつぼ”より引用したもの。)


 原左都子の私論に入ろう。
 
 私として分かりにくいのは、相談者がたとえ遠距離恋愛だったとはいえ結婚相手の「クレーマー気質」に気付くまでに15年の年月を要し、その間に3人の子どもを設けているとの事実だ。
 この事実こそが、私に言わせてもらうと「超ビックリポンや!!」
 結局、このご夫婦を含めたご一家とは、仲がいいんじゃないの~~~?、と言いたくもなる。 特に子供さん3人がご亭主のクレーマー気質に関して、「またか…」との反応で済んでいるのならば、特段問題はないとも思える。

 相談者ご夫婦お二人の成育歴等が把握しにくいのがネックだが、とりあえずの原左都子の提案としてはご亭主に対し 「今後は直接や電話ではなく、一呼吸置いて“文書”にてクレーマー活動を実施したらどうか?」とアドバイスしては如何か???

 と言うのも我が思考によれば、「クレーマー」とは今後の世の中を変貌させるべく素晴らしい“反発力”の源と捉えるのだ!

 社会構造の下部に位置する庶民の皆が皆世に迎合する世界になど、何らの進化ももたらされない事は歴然だ。

 安倍政権が故意にでも「戦争が出来る国」を作り上げようとしている現在、庶民は何を目指すべきか!??
 有志国民が「クレーマー」となって、今こそ政権に対抗する事ではあるまいか!!

顧客の購買心をそそる今時のセールスのやり方

2016年03月17日 | 時事論評
 (写真は、昨日某行楽施設にて撮影した写真。 春風に誘われて娘と二人で青空を遊泳してみました!?   本文とはまったく無関係です。)


 昨年還暦を迎えた私だが、それに伴い厚生年金や個人年金の受給が開始した(する)この頃、生命保険会社や金融機関の担当者が我が家を訪れる機会が多い。


 昨日は、セールスではないが某大手着物会社より「友の会満期継続のお知らせ」なる封書が我が手元に届いた。

 アベノミクス経済政策の大失策により世に“マイナス金利”の荒波が押し寄せる中、聞くところによればデパート等の「友の会」入会が活況とのことだ。
 金融機関に預貯金等金融資産を放置しておいても何らのプラスの還元もないどころか、元本の保証すら不透明なのに対し、「友の会」の場合は原資に大幅増し特典で商品が購入可能となる。
 そこに目を付けた顧客層が、我先にと「友の会」入会に押し寄せているとの報道だ。

 そんな世の流れを利用せんと某着物会社が企てたか否かは不明なれど、(我が認識では入会3年で満期を迎えると記憶していたのに)1年早く、「満期・継続のお知らせ」が届いたのだ。
 これは顧客の私側としては好都合!  何分、和服の趣味など一切ない私としては、少しでも早く当該「友の会」を退会したいと以前より志していた。
 手元に届けられた「お知らせ」を読むと、「今回の満期金で我が社の商品をご購入いただける場合、満期時ボーナスが通常よりも2%増しの12%付く」との触れ込みだ。  元より和服及び小物類を購入しようとの意思がない私にとっては、たとえボーナス増額をしてくれたとて不用品を購入させられる事態こそが屈辱的だ。
 そこで、早速本日午前中に当着物会社に「友の会」“退会”の電話を入れた。
 どうせ、「そんな事をおっしゃらずどうかご継続下さい」と返されるものと予想していたところ、「承知しました。それでは解約退会手続きを致しますので当店にお越し下さい。」なる回答だ。
 ははあ、顧客をわざわざ店舗までおびき寄せて、現場で商品を売る戦略だな。 と察した私は、すかさず「退会後の解約金は必ずや全額(利子無し)で返金して頂けますか?!」と突っ込んだ。 「はい。そう致します。」と言うものの、おそらく店舗にてセールスに遭う事など想像が付く。 
 ただ、電話口にて約束した“元金全額返済!”を私側も執拗に迫る予定だ。 相手は一応一部上場企業として社会的信頼を失っている場合ではない立場でもあるし、まさかヤクザもどきに商品を買わせるなどとの行為は回避可能と予想している。


 次なる事例は、我が個人年金受給に関して。

 私は高校教員時代に「教育公務員共済会個人年金保険」に加入している。 これに加入したきっかけとは、当時35歳にして未だ独身だった身として、老後も独り身で生きて行く覚悟の上で公的年金のみでは心細い老後となろうと予想したためだ。
 私が当該個人年金を契約した当時の「教公保険個人年金」とは、全国一の保険金受給額を誇っていた!  ところがその時代背景とは、まさに“バブル経済”が煌びやかに輝いていた頃だ。
 何と、相次ぐ中小保険会社の倒産に追随して「教公保険」を取り扱っていた中小保険会社も経営破綻の道程を歩んだ…

 どうしてくれる?? 我が個人年金…  と恨んでみても、98歳頃まで生きねば支払った保険料の元が取れない有様…   それでも、中途解約は避けた。何故ならば損失が絶大な故だ。 
 その後も金額的には期待出来ない個人年金受給のために、新たに引き継いだ保険会社に私は毎月少なからずの保険料を支払い続けた。
 その外資系保険会社の(私担当と名乗る)営業マンが我が家を訪れたのは先だっての事だ。

 訪問直後より、担当者氏がお詫び行脚をし始める。  「前社経営破綻後に我が社が経営を引き継いだと言えども、そのご挨拶が遅れた事をお詫びする。どうのこうの…」
 ただ私側としては、何故営業担当者が我が家にわざわざやって来るのかのその魂胆は既に把握していた。 それは、私が個人年金保険の特約として付けている「医療保障」に関してランクアップを提示し、更なる増額保険料を迫る目的だろうと察していた。
 ところが営業マン氏は(今回は)それには最後に少しだけ触れたのみで、そそくさと帰って行った。 もちろん私がすぐさま反応を示したならば契約に持ち込んだのであろうが、そうではない風に捉えたのだろう。
 何分、長年に渡り支払って来た「個人年金保険料」だ。
 今後一体何歳まで保険金を受給可能か否かは、受給者の寿命にかかっている年金制度の運命である。
 年寄りを捕まえて「更なる追加保険料を払え!」と迫ってそれで済んだ時代は既に終焉している事を、保険会社側も理解している事実に安堵した。


 あるいは、我が公的年金受給先として昨年選定した自宅近くの金融機関の担当者氏も2月に我が家を訪れた。 その目的とは、「公的年金受給者に対する定期預金利子増額」だった。
 ただ、アベノミクス経済失策によりまさに“マイナス金利”時代に突入している現況下に於いて、一体如何程の利子が上乗せされるのかなど、直ぐに想像が付くというものだ。 0,00何%であることは見え透いている。
 私側が当日多忙との理由でそれをお断りしたのだが、その後、担当者が我が家へやって来ることはない…
 その金融機関とは零細組織なのだが、もしかしたら今後破綻する運命にあるのだろうか??

 
 とにもかくにも今現在の厳しい時代に於ける正しいセールスのあり方とは、経営者側こそが“身の程を知り”自身の経営力を保つべく自助努力の上で経営破綻を回避し、その中で顧客満足度を維持するのが基本だろう。

まもなく終焉を迎える我がサリバン人生へのノスタルジー

2016年03月14日 | 自己実現
 (写真は、先週3月10日我が娘が大学卒業式を終えた後、大学構内にて母の私が撮影した娘の晴れ姿。 個人情報保護の観点よりあえて小さく映っている写真を縮小して掲載した。)


 娘の卒業式を終えた翌日の3月11日、我が郷里に一人暮らしの実母が孫の卒業祝いの電話を掛けて寄越した。
 それは、朝早い時間帯だった。
 娘本人は着慣れない和服や、大学にての最後の懇親会等の行事出席、その後の写真撮影、義母のケアマンション訪問やその後の家族夕餉会等々のハードスケジュールで疲れ果て、未だ眠りこけていた。

 実母が電話にて私に告げるには、「○ちゃん(娘の事)は起こさなくていいよ。 卒業式の写真は後で送って欲しい。 それにしても、貴方(私の事)はこの20年間、本当に頑張ったね。  あの子を4年制大学卒業まで導き続けた貴方の20年間に及ぶ指導教育の道程はそれはそれは大変だった事と思う。 私は貴方にそんな大変な事を何一つしてあげていないのに、自分一人で頑張って自分の人生を歩んで来たことは十分わかっているよ。 孫の○ちゃんが大学卒業するまで、どれ程貴方が苦労したかは遠くに暮らしていても想像はついている。 そんな貴方にこれからも東京の義母さんや私の面倒で迷惑をかけるけど、とにかく貴方自身がしばらく体を休めなさい。」 

 実母からのこの電話を受けた当日とて、私は認知力が低下している義母から幾度となく繰り返される(訳が分かりにくい)連絡や、娘の大学卒業祝いのフォトブックをパソコンで作成する作業等々で休む暇がないスケジュール状態だった。
 娘の卒業式当日の夜中に私が見た夢とは、過去に嫌っていた人物から塩酸と硝酸を飲まされて苦しむとの、とてつもない悪夢だった。   あの日、私は実質夜中に胃を傷めていたと振り返る。 おそらく胃液が喉まで戻って来てその苦さに耐えられず苦しんでいたのだろう。
 そんな私は実母より電話を受けた朝も、未だ軽い吐き気を催したものだ。 
 正直言って休む暇もなく胃痛を起こしつつ、親族の皆に我が働きを期待されながら弱音を吐かずに激務をこなしている今、何で実母が電話を寄越すのか! とのイライラ状態で電話を受けた私だ。 少し落ち着てからにして欲しいのに…、と。

 それでも実母の電話から2、3日が経過し、娘の卒業祝いフォトブック作成も終了した今、再び郷里に一人暮らす実母の電話内容が感慨深く私の心に迫るのだ。
 上京して後の私の苦労など露知らず、実母は今に至って尚身勝手にも私の献身を出来るだけ利用せんと企んでいると、少しの憎しみすら抱いていた。


 一旦実母は放っておくとして、我がサリバン人生の道程はそれはそれは厳しいものだった。
 
 その道程に関しては、当該「原左都子エッセイ集」内で幾度も公開して来ている。
 その一つである 2009.3.26 公開の「We can graduate!」からその一部を、今一度以下に要約して紹介させて頂こう。

 長い道程だった。
 一昨日、我が子が中学校を卒業した。
 義務教育の9年間は、我々親子にとって実に長い道程だった。
 まさに、子どもの学ぶ“権利”を最大限保障してやりたいがための、親としての“義務”との格闘の9年間だったと言える。
 当ブログのバックナンバー「医師の過失責任」において既述しているが、出産時のトラブルにより仮死状態で生まれざるを得なかった我が子は、多少の事情を抱えての誕生だった。
 今回は「学習」に的を絞って、我々親子が歩んだ道程を少しだけ紹介することにしよう。
 ケアは早期から着手するほど効果が高いとの認識で、子どもが3歳時より親子で某教育研究所に通いつつ、家庭では“ヘレン・ケラーとサリバン先生”のごとくの娘に対する私の本格的な「教育」が早くも始まった。   我が子は“見よう見まねで育つ”という部分において多少の困難があり、すべての事柄を手取り足取り教え込む必要があった。 一例であるが、“スプーンを口に運んで食する”という行動が見よう見まねで出来ない。これを、まずスプーンを手に持つ動作、食べ物をすくい取る動作、それを口まで運ぶ動作、口の中へ入れる動作、等々、一動作毎に分解して段階を経つつ、時間をかけて学習できるように導くのだ。   生活上のほぼすべての行為に関して、上記のような懇切丁寧な指導を必要とした。 何事の習得においても、おそらく人の数倍以上の時間を要した。  
 小学校入学後は子どもの学習机をリビングにおいて、学校での学習の復習を来る日も来る日も私が付きっ切りで行い、確実な学習内容の理解に努めさせた。 義務教育段階で学習に遅れをとったのでは、その先々の自立が危ぶまれるためである。 低学年の頃は、国算社理4教科のみならず音楽や体育等の復習まで付き合った。(どういう訳か図工と家庭科の実技に関しては本人が興味を示し、下手で時間はかかるのだが独力で成し遂げてくれた。)さすがに高学年以降はそこまでの時間が取れず、4教科の復習のみとなったのだが。
 中学校進学段階で我が家が私立の中高一貫校を志望したのは、高校受験における私の指導の負担を回避するためというのが、実は本音の理由である。  
 我が子の場合、天性の素直さと相当の努力家であることが学習能力の向上に大きく幸いしたようだ。 加えて幼少の頃からの親子二人三脚での学習への取り組みにより、娘には学習習慣が確実に身に付いている。 中2の半ば以降は本人の学習意欲を尊重し、私は子どもの家庭学習から一歩退き、子どもの疑問質問にのみ答える方針に切り替えて現在に至っている。
 以上のように、私も共に学んだ9年間だった。  私は人生において2度、義務教育の学習をしたような感覚である。 いや、自分で学ぶことは容易であるが、人に指導する事とは自分が学ぶ何倍ものエネルギーと忍耐力を要するものだ。   そんな娘も、上記のごとくの持って生まれた素直さと忍耐力の賜物で、学習面においては何ら見劣りがしない程の学習能力を身につけての中学卒業である。
 もしかしたら、我が子ほど9年間に渡り弛まぬ努力を続けた小中学生は他に類を見ないかもしれない。
 “学ぶ権利”と“学ばせる義務”。 ふたつの力の二人三脚で、我が子の「学び」に対して真っ向から立ち向かった我が家における義務教育の9年間だった。
 心から、卒業おめでとう。
 We can graduate!
 (以上、「原左都子エッセイ集」 娘の義務教育卒業時点でのサリバンの思いを綴ったエッセイを紹介したもの。)


 いやはや、これが娘の大学卒業ともなると、サリバンとしても卒業式に対してさほどの思い入れが無い事実に救われる思いだ。

 実は、私は娘の大学卒業式には出席しなかった。
 どうせ会場後ろの方で他の卒業生父兄と一緒くたに座らされ、寒さに耐えさせられるのが“おち”だろう。
 「勘弁して欲しいよなあ」と既に成長した娘に告げ、「式典が終わった後に貴方の写真を撮影しに行くから」と申し出る“我儘・天邪鬼母”の意向を快諾してくれた娘だ。


 ただこれで、我が「サリバン任務」が終わる訳ではない。 
 
 現世は安倍政権アベノミクス経済政策の大失策により、実に歪み多き世の中と変わり落ちぶれ果てていく事であろう。
 こんな混とんとした時代に社会に進出して労働力を提供しつつ生き抜かねばならない娘の未来を、今後も引き続きサリバンの私が陰ながら見守らねばならない日々は続く。

5年前の2011.3.11大震災の日、私は…

2016年03月11日 | 時事論評
 (写真は2011年3月11日午後2時46分頃、東北・関東地方で発生したM9,0大地震一波大揺れ直後に撮影した我が家の被災状況の一部。 棚からCD類が大量に落下し床に散乱した。 余震中の撮影のため、その揺れ幅に連動して大きく手振れしている。 2011.3.12公開の「原左都子エッセイ集」バックナンバーにて既に公開した写真を再び掲載した。)


 冒頭から東日本大震災発生翌日に綴り公開した、当エッセイ集2011.3.12バックナンバー 「悪夢の大震災、その時私は…」 より一部を以下に引用させていただこう。

 2011年3月11日のまさにその時、自宅に一人でいて外出予定があった私はその準備に取り掛かろうとしていた。
 「あっ、揺れている。これは地震だ。」 しかも揺れがなかなか収まらないどころか、揺れ幅を激化させつついつまで経っても大揺れが続く。
 (これは尋常な地震ではないぞ!)と思い始めるのと同時に、和室に設置してある高さ230cm程の書棚が前後に大きく波打ち始め、上部が後ろの壁にぶつかってはドーンと大音量を発し開き戸が全開した。 咄嗟に(中の書籍が飛び出したら大変!)と思った私がその扉を閉めようと和室に駆けつけたところ、横の机の上に山積みにしてあった書物や資料等々が机の揺れと共に和室一面に放り落とされるではないか。 しかも、書棚の揺れはますます大きくなるばかりだ。
 この時私は、ここで書棚を押さえていたのでは必ずや倒れて、もしかしたら我が命を失うであろう事がやっと想定できた!    (書棚が倒れる心配よりも自分の命をつなぐ心配をするべきだ!)と少し冷静さを取り戻してみるものの、和室から見えるリビングルームの置物はすべて床に放り落とされ、壁に掛けていた絵画等も落ちて散在している。
 尚、揺れがおさまる気配はない。 とりあえず自分の命を守ることを優先した私は、自宅内の物が落下しない場所に立った。 立っていられない程の揺れであるのだが、座ると上から物が落下してケガをする恐怖感で座る気になれないのだ。
 やっと大揺れ一波が通り過ぎた後に尚大小の揺れが続く中テレビのスイッチを入れると、東北地方の大津波警報が発信され 「すぐに高台に避難して下さい。しっかりした高いビルの上階に避難して下さい!」 との悲鳴にも似たアナウンサーの指示が流れている。   私自身は東京地方に特化した情報こそが知りたいのだが、そんなことよりも大被害を及ぼす津波警報が優先されるのは当たり前である。
 これは自分で今取るべき方策を判断するしかないと悟った私は、とりあえずベランダから周辺地域の状況を観察した。(参考のため、いつもは手で開けるにも力がかかる程の重量があるベランダ側の大型二重ガラス窓が、先ほどの大揺れで開いた状態だった。)  幸いな事には一見したところ近隣住居の中に倒壊した家屋はなく平静を保っている様子で、近くの公立小学校から児童向けの地震発生のアナウンスが聞こえては来るものの“古い校舎”が崩れている様子もない。  
 おそらくこのまま自宅にいるのが一番安全だと悟った私は、まだ大揺れ余震が続く中、家中の見回りを開始した。  台所に行けば食器棚の下段から食器が転がり落ちている。(食器棚上段に関しては開き戸を固定できる構造であるため、棚内部での落下にとどまっている。)   娘の部屋でも、やはり学習机の上の教材や書棚の中身が部屋に落下し散乱している。   そして、身内の部屋では(上記写真のごとく)オーディオ棚の上に積み上げてあったCD類が床一面に散乱している状況だった。
 次なる心配は我が娘! であるのは親として当然である。   首都圏の交通網は全面マヒ状態だ。 そろそろ娘の下校時かと思い早速携帯通話を試みたものの、報道で見聞しているごとく携帯電話は一切繋がらない。   16時を過ぎてパソコンからメールをしてみると、やっと繋がった! どうやら学校の指示で学内に留まった方が安全であるため学校で待機しているとのことで、娘からそのメール一報を受けて一応安心した私である。
 家族が帰宅する前にある程度室内の散乱物を片付けようと余震の中頑張った後、今度は夕食の準備をしようとするとガスが付かない。(そりゃそうだろうなあ。この余震が続く中“火”など使ったものなら被害を拡大するだけだ。)と悟りつつも、我が家では電気と水道が寸断されていなかったことが大いなる救いだった。
 娘に話を戻すと、首都圏の交通網は本日中の復旧が不可能状態のようだ。 「下手に大混乱の首都で“帰宅難民”になるよりも、もしも学校で一夜を明かせるならばそれが一番の安全策!」とのサリバン母の指示に素直に従った我が娘は、所属高校の体育館で「緊急対策グッズ」を配られ眠れぬ中何とか一夜を凌いだようだ。   今朝になってやっと復旧したJR等々大都会の交通網を大混雑の中乗り継ぎ2時間程をかけて帰宅した我が娘は、今回の記録的大震災により人生初めての惨劇を自らの心身で経験して疲労困憊した様子で今現在眠りこけている。 
 今回のエッセイでは、東京地方に住居を構える原左都子が昨日より経験している大地震の現況について伝えてきた。
 日本の歴史上最大級である今回の大震災の被害状況は、今後の調査と共に大幅に拡大するであろうことを察していたたまれない思いだ。   東京の我が家でも今まだ余震が続いていて、油断できない日々である。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2011.3.12 バックナンバーより一部を引用したもの。)


 話題を、2016年の現在に移そう。

 東日本大震災直後の私は、自宅にて単身で経験した“過去に一度も経験しない大揺れ”により我が家の棚上等の設置物のほぼ全部が床に振り落される光景を“実況で”目の当たりにしたトラウマから解放されずにいた。

 このトラウマから救われたのはずっと後のことである。 
 と言うのも、大震災発生当時に職場や学校にいた亭主や娘に聞いたところ、「そんなには揺れなかったよ」との返答だったのだ。 あるいは、都内一戸建てに住んでいる親族や知人等に尋ねても、「我が家では落下物はなかった」と返される。(まるで私が大袈裟に自分が直面した被害を吹聴しているかのごとく…)
 そんな折、時は既に夏頃だったと思うが、ニュース報道にてやっと東日本大震災時の“高層ビル”等の大揺れに関して調査分析した結果が発表された。
 この報道に、やっと我がトラウマから解放されたものだ。
 要するに高層ビルの場合、上階では予想をはるかに超える揺れが発生するとの事だ。 例えば新宿超高層ビルの上階でも、幅1~2mほどの揺れが長時間続いたとの報道だった。  更にそれは一般人が住むマンション物件でも同様で、上階程揺れ幅が大きい物件もあった。 との報道に接した時、やっと我が“大揺れトラウマ”が消滅したとも言える。

 しかも、もう一点原左都子から指摘したい事がある。
 大震災等の非常事態発生時に単身でいたか集団でいたかに関して、その心理状態が大きく左右されるのではなかろうか、と。 
 どうやら、私自身があの大震災を自宅で一人で耐えたのに比し、亭主も娘も大集団内で集団上部の指揮指令に従い行動すれば済んだ様子だ。

 ただこの「他力本願」こそが一番危険だった事は、大震災一番の被災地である東北地方こそがご経験されたことであろう…
 大津波警報を受け、皆が皆、自家用車を走らせ高地に向かう道中で亡くなった市民も多いと見聞している…
 あるいは、学校から子どもを迎えに来いと命令され、大津波が迫る中その行動を取らざるを得なかった保護者も数多く犠牲になっている。
 同調意識こそが身を亡ぼす…  とまでは言わないが、とにかく大災害の時程、自分の身の安全を自分自身で守るがごとくの対策を常に講じて欲しい気もする。


 とにもかくにも千年に一度と言われる歴史的大震災を、不幸な事に5年前に我が国は既に経験してしまった。

 この事態を、国政こそが今後の自らの教訓と位置付けられないものだろうか??
 本日東日本大震災五回忌を迎えた場面に際し、自民党政権は(夏の選挙戦を視野に入れ)小手先の国家対策を国民に告げるよりも優先して欲しいのは、今後長年に渡る「東日本大震災復興計画」の実現だ!

 昨日のニュース報道によれば、福島原発事故に関してこの5年間内ではほとんどの復興計画が成就していないがために、今後何兆円もの対策費用が国民に課せられるとの事だ。
 それを国民に言う前に、自民党政権は今一度未来に渡る緻密な福島原発事故対策を逐一国民に提示するべきだろう。

 国民側は皆、それぞれの立場で東日本大震災からの復興を願っていると私は信じている。

 そんな国民感情を把握せず、国民は既に大震災など忘れ去ったと身勝手に思い込んで自分らに有益な政策ばかりに血税を注ぎ、自滅の道程を歩もうとしているのは自民党政権が操る国政自体である事を、この日にこそ認識して欲しいものだ。