原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

推薦入試制度の不透明さを問う

2016年03月09日 | 教育・学校
 広島県府中町立中学3年の男子生徒に対する高校推薦入試をめぐり、担任が生徒指導に関する誤った記述の資料に基づき推薦不可との判断を下した事により、当該生徒が自殺に追い込まれるとの痛ましい事故が発生している。


 当該事故報道に関する記述及び私見は後に回すとして、私は常々、高校、大学を問わず「推薦入試」制度自体の不透明性に関して疑義を抱き続けている。

 「原左都子エッセイ集」2013.11.21バックナンバー 「『人物本位入試』が掲げる“人物”善悪の基準って何??」 の一部を要約して、以下に今一度反復させていただこう。

 2013年11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。   この記事の表題のみを一見した私は、咄嗟に我が娘が高校時代に大学推薦を受けるに当たり、その“推薦基準”に関し学校面談時に担任相手に説明責任を迫った事を思い出した。
 その内容を以下に紹介しよう。
 「高校による大学推薦に際し、貴校の場合は生徒の学業成績以外に“人物評価”も吟味していると聞く。 その“人物評価”に関してお尋ねしたい。 既に指定校推薦者は決定済みのようだが、如何なる“人物評価”基準によりそれを決定したのか?  我が家の娘は“指定校推薦”を得られなかった立場だが、学業成績に関してはその基準を満たしていると捉えている。 そうなると、娘の場合“人物評価”面で指定校推薦決定者より劣ったとの結論となろう。 それが得られた生徒との間に如何なる差異があったのかを明確に説明して欲しい。」 
 これに応えて担任曰く、「○さん(娘のことだが)の場合、高3直前に進路変更したことが最大のネックとなった。 指定校推薦を決めた他生徒の場合、もっと早くから当該大学の推薦を狙いずっと頑張り続けていたためこちらの生徒を推薦した。」
 分かったようで分からない解答ではあるが、要するに決して“人物評価”でお宅の娘さんが劣ったとは、担任の口からは発されなかったのだ。   これには親として多少救われると同時に、親との面談の場で担任が“禁句”を発しないよう、よくぞまあ徹底的にマニュアル化されていると、当該私学の教員指導ぶりに根負けの思いも抱いた。
 ただ、元教育者である私は更に食い下がった。
 「娘が指定校推薦を得られなかった事由に関しては、一応納得しよう。 それはそれとして、推薦制度に於ける“人物評価”の不透明さを私は常々懸念している。 例えば、一基準として“リーダーシップ力”が挙げられるようだが、たかが10代の子どもの如何なる能力を持って“リーダーシップ力”が優れていると捉えるのか? 特に年齢が若い場合は本人が天然気質で無邪気に騒いでいるのみの要因も否定できなければ、単に学校現場にとって扱い易い生徒にしか過ぎない場合もあろう。 そうではなく、10代レベルでは表出し得ない“リーダーシップ特性”を水面下に内在している今だ未完成の生徒も数多く存在する現状を如何に評価出来るのであろうか?」 等々…   この私の問いかけに関して、おそらく担任は「今後の検討事項とします。」と応えたような気もするが、明確な回答は得られずに面談が終わったと判断する。
 大学入試担当者の判断とて、高校現場の推薦制度とさほどの差異はないと捉えられる程の低レベルどころか、もっと劣悪な結果を導きそうな懸念を抱かされる。   一体全体如何なる“人物本位”基準で合格させたり振り落とされるかの明暗とは、入試担当者の勝手気ままな趣味によるしかないであろう事は誰しも想像が付く事態だ。  この事態とは不透明性が高いと表現するより、試験委員の“好き放題”あるいは“学内で取り扱い易い受験生”を入学対象としている意図が目に見えるとの制度となろう。
 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。   そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。  氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーは、学校のほかにも病院や監獄にも同じ機能があると見ていた。 このフーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。  氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
 いやはや、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??    この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう???  
 人間の個性とは実に多様だ。  大学進学時点で既に大学試験委員相手にアピールできる“程度”の人物像を描ける若者も、もしかしたら存在するのかもしれない。  ただ、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?
 そもそも、大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。 それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。   それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。
 (以上、2013.11.21 「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 ここで私事に入ろう。

 バックナンバーにて記載している通り、我が娘も結果としては高校からの「公募制推薦制度」を利用して大学に進学している。 (明日3月10日、娘なりに立派に卒業式を迎えるが。)
 上記の通り高校からの(その理由は不透明ながら)「指定校推薦」は得られなかったものの、我が娘は高校内の学業成績基準及び英検・漢検準2級以上合格、はたまた高校3年間皆勤等々の「公募制推薦」の条件は十分に満たしていた。 それを利用しサリバン母(私の事だが)の厳しい指導により、大学が公募制推薦生徒に課した「小論文」と「面接」試験課題を本人に徹底的に努力させて合格を導いて来ている。

 母娘二人三脚でその経験をしているから分かる部分もあるのだが、やはり目指す学校(大学も含めて)へは本人の実力で入るべき! なる思いが強い。
 と言うのも、「指定校推薦」とは高校側が大学へ全面的に生徒を推薦する制度である。 下手をすると、当該生徒に一度も会わずして高校推薦を鵜呑みにし、大学が当該生徒を迎え入れるとの極端な制度である。 (要するに「指定校推薦」とは全面的に“コネ”に頼る制度とも理解可能だ。 ただし現在はこの制度も少しは進化している様子で、大学側も一度は「面接」を実施して、一応推薦生徒の“人となり”を見ようといていると見聞している。)


 さて、冒頭に記した広島県町立高校生の自殺事件に話題を戻そう。
 
 広島県府中町立中3年の男子生徒(15)=当時=が昨年12月8日自宅で自殺した問題で、1年生当時の生徒指導の会議で配布された資料にある生徒の万引記録が誤っていることに気付いていたが、資料の内容を保存しているサーバーでの修正作業をしていなかったことが8日分かった。同校には万引などの行為があった際、校長推薦を認めないルールがあった。 生徒と両親、学校側との三者懇談はこの資料に基づいて進められており、ずさんな管理態勢に非難が集まりそうだ。
 自治体教育長と学校長によると、生徒が1年生の時に万引をしたことがあるとの誤った記録を理由に志望校の推薦を出せないとの話を、学校側が三者懇談で両親に伝える予定だった。 生徒は三者懇談の当日に亡くなった。万引の記録は自殺後の調査で別の生徒のものと判明した。
 生徒は公立高校を第1志望とし、受験するために校長の推薦が必要な私立高校を第2志望にしていた。
 12月に入り、推薦できない旨を両親に伝えたかどうか生徒に確認。 8日の三者懇談で両親と会ったが、生徒は姿を見せず、同日夕自宅で自殺しているのを父親が見つけた。
 自殺した男子生徒の両親は、代理人弁護士を通じ「ずさんなデータ管理、間違った進路指導がなければ、わが子が命を絶つことは決してなかった」とのコメントを出した。
 (以上、ネット情報より、一部を要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論に入ろう。

 この事件の場合、学校や自治体教委側の生徒情報管理やその運用措置のずさんさこそが一番に叩かれるべきだ! それに関しては私からも何らの異論もない。
 自殺により亡くなった中三男子のご冥福を、心よりお祈り申し上げる。

 ただ、男子生徒が亡くなって月日が流れていないこの時期に酷な事を承知の上で、申し上げたい事がある。 

 実にやるせない事件だ。

 人間にとって何が大事か。
 15歳少年を取り巻く誰彼に関係なく、彼を成長に導くべく大人達が彼に問うべき事柄とは、「貴方は過去に万引きしたのか?」ではなく、「未来に向かって頑張る気力があるか!」だったはずだ! 
 一時の(国政や自治体や私学の身勝手な受験制度改革に錯乱され続ける)推薦受験制度になど翻弄されるよりも、一人間として一生を賭けて自己実現し続けるべく努力する事がずっと大事なはずなのに……