先だっての朝日新聞記事によると、長野県庁において県職員らの酒宴の席での「お酌禁止令」が発令されたとのことである。
長野県内の日本酒生産量が減少の一途を辿る中、若手の酒造組合会員からの「最近はお酌を嫌う若者も多い」との発言を受け、自らも「お酌文化」に疑問を抱いていた長野県副知事が、早速年度替わりの県幹部の送迎会で「お酌禁止」を宣言したというのがそのいきさつであるようだ。
必ず「手酌で自分のペースで飲みましょう」という副知事の呼びかけは、職員に好評であるらしい。
「お酌」によって嫌々飲まされるのが迷惑、という理由以外に、女性職員からは「つぎに回らなければならないという気負い等がなくなった」、あるいは、「宴会後、おちょこやコップに残っている酒が減った」という“エコ”観点から歓迎する意見も出ているようだ。
さて、本ブログの「酒」カテゴリーバックナンバー等においても再三暴露してきているが、私は自他共に認める正真正銘の“飲兵衛”である。
(ペンネーム原左都子の“左”には種々の由来があるのだが、酒好きの“左党”の意味合いも実は含まれているのよ~~。)
そんな私も、若かりし頃より「お酌」は断固として反対派である。あれは、飲兵衛にとっても大いにストレスが溜まる飲み方なのだ。
「お酌」というのは飲兵衛の立場から言うと、いちいち他人様についでもらわないことには“次が飲めない”飲み方なのだ。 それはまるで“犬がお預けをくらっている感覚”なのである。 私の場合、飲むペースが異様に速いのだが、「お酌」飲み会の場合、次は誰がいつ頃つぎに来るのか周囲を見計らって状況観察しつつ、自分を押し殺してちびりちびりと飲まねばならないことになる訳だが、欲求不満ばかりが溜まる宴会とならざるを得ない。
もちろん、親しい間柄の飲み会では皆がそれぞれのペースを心得ているため、たとえ「お酌」によってもストレスが溜まることはない。
一方、ひと昔前の職場の宴会等においてはこの「お酌」方式による飲み会が大多数だったのだが、これがいただけない。
まだ若かりし頃、この「お酌」飲み会において大いに傷つけられたのは、杯を飲み干して次の「お酌」がなかなか来ずにイラついていた私に投げかけられる一言であった。
「あら、ごめんなさいね。気が付かなくて。」 などと言われつつ「お酌」されると一気に酔いが覚めてしまい、とっとと帰ろうかと思ったものだ。
「おー、いける口だね。どんどんいこう!」 といってどんどんつぎ足してくれるのは飲兵衛にとってありがたかったよなあ~。
何はともあれ、マイペースで心地よく飲ませて欲しいものである。
冒頭の長野県庁の女性職員の発言にもあるように、「お酌」をして回ることを強要されるプレッシャーも鬱陶しいものだ。
一昔前の時代には、職場の“女性”や“新人”に「お酌」を強要することがまかり通っていたのだが、私は基本的に周囲に“媚を売る”ことが我が娘時代から苦手な人間だった。 自分は酒好きな癖に勝手なのだが、周囲に「お酌」をして回ることを忌み嫌いつつ今まで我が酒人生を歩んで来ている。
私の場合飲兵衛だったことが幸いしたのか、女であるのに「お酌」を強要されずに娘時代の数ある宴会を無事に渡り歩いて来ているのだが、数年前にある職場の宴会において、そんな私にも「お酌」を強要する人物が出現して、愕然とさせられた経験がある。
それは、当時の私の(医学専門職としての)アルバイト先だった“国がらみの某特殊法人”の職員の飲み会においての出来事だ。
この職場の飲み会はとにかく形式ばっていた。(私に言わせれば)ほとんど飲めない人物の集合体であったため、“ここではまともに飲めない”と判断した私はいつも一滴も飲まないことに決めて(なぜならば飲兵衛にとって中途半端に飲む事ほどストレスフルなことはないため)、白けつつ時間が過ぎ去ることのみを待っていたものである。
ある時、そんな私に近づいてきた職場長(某分野において世界的に名立たる人物なのだが)が、「あなたは新人なのだから、ここで座っていないで職場の皆に“お酌”をして回るべきだ。」と直言したのだ。
おそらくその職場長と大きく年齢も変わらず、既にある程度人生経験を積んでいた私は、この不躾な言葉には驚愕させられたものである。 その暴言を受けて周囲を見渡すと、アルバイトの女性達がせっせか「お酌」をして回っているのだ。(「お酌」をするために雇われた訳でもなかろうに…)
“セクハラ”で訴訟を起こされる事態がまかり通っているこの時代に、ずい分と世間知らずの“勇気ある”職場長の発言に呆れつつ、その後、この職場の飲み会には二度と出席することはなかった私である。
何はともあれ「お酌」はするのもされるのも勘弁願いつつ、飲兵衛も下戸も、女性も男性も、上司も新人も、あなたも私も、お酒とは自分のペースで美味しく楽しみたいものですね!
長野県内の日本酒生産量が減少の一途を辿る中、若手の酒造組合会員からの「最近はお酌を嫌う若者も多い」との発言を受け、自らも「お酌文化」に疑問を抱いていた長野県副知事が、早速年度替わりの県幹部の送迎会で「お酌禁止」を宣言したというのがそのいきさつであるようだ。
必ず「手酌で自分のペースで飲みましょう」という副知事の呼びかけは、職員に好評であるらしい。
「お酌」によって嫌々飲まされるのが迷惑、という理由以外に、女性職員からは「つぎに回らなければならないという気負い等がなくなった」、あるいは、「宴会後、おちょこやコップに残っている酒が減った」という“エコ”観点から歓迎する意見も出ているようだ。
さて、本ブログの「酒」カテゴリーバックナンバー等においても再三暴露してきているが、私は自他共に認める正真正銘の“飲兵衛”である。
(ペンネーム原左都子の“左”には種々の由来があるのだが、酒好きの“左党”の意味合いも実は含まれているのよ~~。)
そんな私も、若かりし頃より「お酌」は断固として反対派である。あれは、飲兵衛にとっても大いにストレスが溜まる飲み方なのだ。
「お酌」というのは飲兵衛の立場から言うと、いちいち他人様についでもらわないことには“次が飲めない”飲み方なのだ。 それはまるで“犬がお預けをくらっている感覚”なのである。 私の場合、飲むペースが異様に速いのだが、「お酌」飲み会の場合、次は誰がいつ頃つぎに来るのか周囲を見計らって状況観察しつつ、自分を押し殺してちびりちびりと飲まねばならないことになる訳だが、欲求不満ばかりが溜まる宴会とならざるを得ない。
もちろん、親しい間柄の飲み会では皆がそれぞれのペースを心得ているため、たとえ「お酌」によってもストレスが溜まることはない。
一方、ひと昔前の職場の宴会等においてはこの「お酌」方式による飲み会が大多数だったのだが、これがいただけない。
まだ若かりし頃、この「お酌」飲み会において大いに傷つけられたのは、杯を飲み干して次の「お酌」がなかなか来ずにイラついていた私に投げかけられる一言であった。
「あら、ごめんなさいね。気が付かなくて。」 などと言われつつ「お酌」されると一気に酔いが覚めてしまい、とっとと帰ろうかと思ったものだ。
「おー、いける口だね。どんどんいこう!」 といってどんどんつぎ足してくれるのは飲兵衛にとってありがたかったよなあ~。
何はともあれ、マイペースで心地よく飲ませて欲しいものである。
冒頭の長野県庁の女性職員の発言にもあるように、「お酌」をして回ることを強要されるプレッシャーも鬱陶しいものだ。
一昔前の時代には、職場の“女性”や“新人”に「お酌」を強要することがまかり通っていたのだが、私は基本的に周囲に“媚を売る”ことが我が娘時代から苦手な人間だった。 自分は酒好きな癖に勝手なのだが、周囲に「お酌」をして回ることを忌み嫌いつつ今まで我が酒人生を歩んで来ている。
私の場合飲兵衛だったことが幸いしたのか、女であるのに「お酌」を強要されずに娘時代の数ある宴会を無事に渡り歩いて来ているのだが、数年前にある職場の宴会において、そんな私にも「お酌」を強要する人物が出現して、愕然とさせられた経験がある。
それは、当時の私の(医学専門職としての)アルバイト先だった“国がらみの某特殊法人”の職員の飲み会においての出来事だ。
この職場の飲み会はとにかく形式ばっていた。(私に言わせれば)ほとんど飲めない人物の集合体であったため、“ここではまともに飲めない”と判断した私はいつも一滴も飲まないことに決めて(なぜならば飲兵衛にとって中途半端に飲む事ほどストレスフルなことはないため)、白けつつ時間が過ぎ去ることのみを待っていたものである。
ある時、そんな私に近づいてきた職場長(某分野において世界的に名立たる人物なのだが)が、「あなたは新人なのだから、ここで座っていないで職場の皆に“お酌”をして回るべきだ。」と直言したのだ。
おそらくその職場長と大きく年齢も変わらず、既にある程度人生経験を積んでいた私は、この不躾な言葉には驚愕させられたものである。 その暴言を受けて周囲を見渡すと、アルバイトの女性達がせっせか「お酌」をして回っているのだ。(「お酌」をするために雇われた訳でもなかろうに…)
“セクハラ”で訴訟を起こされる事態がまかり通っているこの時代に、ずい分と世間知らずの“勇気ある”職場長の発言に呆れつつ、その後、この職場の飲み会には二度と出席することはなかった私である。
何はともあれ「お酌」はするのもされるのも勘弁願いつつ、飲兵衛も下戸も、女性も男性も、上司も新人も、あなたも私も、お酒とは自分のペースで美味しく楽しみたいものですね!
この時だけは、異性にモテた気分に、一瞬だけなれる。
確かに、嫌がる女性の気持ちも分かるのだが、この一瞬があるから、大勢で飲むお酒は、止められない。
時代は確実に変化して、お酌を頼んでも「セクハラ」と叫ぶ・・・。
カサカサ、ザラついた人間関係と言えなくはないが、これもグローバル・スタンダードなの?
日本の会社システムは、欧米よりいいはず・・・。
セクハラの概念は、必ずしも日本にメリットばかりを、もたらさなかった。
おそらく、プロの女性等は単なるノルマで酒の席で「お酌」をしていることと私は思いますよ。
「お酌」が苦痛な一般女性が多数である現在、それをセクハラと捉える事は、もはや“グローバルスタンダード”と言い切れます!
決して嫌がる女性に“ノルマ”で「お酌」をさせてはいけません。
お酒とは、あくまでも老若男女を問わずに楽しい一時を過ごさせてくれるものであるはずです。
「お酌」を強要されて内心苦痛に思いつつ表面だけ取り繕ってしてくれる相手よりも、一緒に馬鹿騒ぎが出来て、心より一時を共有できる方がよほど楽しいと私は感じますが…。
コレにも閉口しています。飲めないんですから困ります。ジュースをお酌して頂きます。
お酌禁止大賛成です。早く普及して貰いたい。
原さんほどはいける口ではないと思いますが。
私の場合はドカッと腰を落ち着けて飲みたい為に若い頃から「お酌」には出向きませんでしたしされるのも嫌いでしたねぇ。
自分のペースが一番ですし女性にも気を使わせるのはどんなものかと思って。
だってその女性が楽しめないでしょう。新人でも同じことだと。
少し外れるかもしれませんが「ビール」を継ぎ足すっては最低じゃないですか?美味しいわけないし…良いと思ってやってるんですかねぇ本人は。多分、顔に出てます。嫌われてもしょうがないかな。
お酌廃止、うれしいじゃありませんか。
ぼくは原さんと違って、のんべではありませんが(ただ、焼酎とかウオッカを愛好するので、周囲ではいける口だと思われている)、あのお酌という習慣、何とかならんのかと思っていました。
よくいませんでしたか? 人が飲んでいる真っ最中にぴったり引っ付いて、注ごうとする人。挙句の果てには「オレの注いだ酒が飲めねぇっていうのか?」と絡む人。ああいう人は酒飲みの面汚しだと思っています。今で言えば「アルハラ」ですかね。
各人それぞれのペースがあるから、飲みたい様に飲ませてくれ、というのがぼくの本音です。
アルハラする人が一人でもいると、とたんに酒ってまずくなるのはどうしてでしょうかね…
体質的にお酒を“飲めない”人にとっては命にかかわる話なのに、それを心得ない“飲兵衛”が未だに存在する実態が私には解せません。
私が決して他人に「お酌」をしない背景には、こういった医学的理由もあります。
飲めない方に酒宴に同席いただき、飲兵衛の“馬鹿共”にお付き合い下さるだけでも申し訳ないのに、ましてや「お酌」をするなど言語道断です。
isseiさん、今後も「お酌」は避けて通って下さい。
ある程度酔いが回るまでは、「お酌」などには借り出されずに腰を落ち着けて飲みたいものです。
何分私の場合肝機能が相当強力なようで、飲み会の当初はとにかく飲む事に集中しないと酔えないのです。 食べ物を少しでも口にしたものなら直ぐに酔いが覚める程の、強靭な「アルコール解毒作用力」なのです。
そんな私もアルコールが程よく回ってきましたら「お酌」に精を出してもいいのですが、その頃には周囲の皆さん、残念ながら既に酔いつぶれていますね。 トホホ…。
ビールの“通”にとっては、継ぎ足されることは味が落ちて我慢ならないようですね。
実は私はビールを好まない(アルコール濃度が低いため、いくら飲んでも酔えないためです)のですが、そのお気持ちも十分お察しします。
とにかく、「お酌」とは“迷惑行為”以外の何物でもないですよね。
今の日本における「お酌文化」というのは、する側もされる側も要するに“アルハラ文化”ですよね。
ごまめさんが1年半程前にも焼酎やウォッカのような濃いお酒を愛好されていることについてこのコメント欄でお書き下さったことを、私はよく憶えています。
ごまめさんのように、ご自身の“飲む楽しさ”を心得てご自分の飲み方を楽しんでいらっしゃる場で、「お酌」などまったく無用の長物ですよね。
飲兵衛の私にとっても「お酌文化」により自分の飲むペースを乱される事は我慢なりません。
「お酌」は本当に大きなお世話です。
でも、そもそも職場の飲み会それ自体がわずらわしいものですから、仕方ない気もします。
明らかに人命軽視の職場です。
自分のペースとか、体質とか、それまでの人生経験とかそういったものをいったんリセットすることを求められる職場だったのでしょう。そしてその時点ではそれでうまくいっていたのでしょう。
それ以上でもそれ以下でもないように思えます。
それでうまくいってきた職場ならば、一人二人の力じゃ変えられないでしょう。どんなに偉い人が変革したって無理だったはずです。
でも、うざったらしいお酌文化など温存していてなおかつ社会で通用する成果を上げる組織なんてこの少子高齢化で不景気時、あるはずない気もします。
いくらなんでも人の命を軽視しすぎてますものね…・きっと命以外のものもいろいろと軽視してきたことでしょう。
変革できなければ、組織自体が消滅でしょう。
もし自浄作用がなければきっといろいろな理由で今頃はとっくに自然淘汰されているんじゃないでしょうか?
職場を離れて手酌。これが一番いいですね。
飲ませるためじゃなくて、おしゃべりするためにその人のところに行くの。
ビール瓶持ってても、全然注がずに話しこんじゃったりする。これは楽しい。
お酒は禁止されてて、と断られても、それはすみません、でも実はお話したくて来たんです、といえばそんなに嫌な顔はされないことが多いです。素手じゃ近づきにくいですが、お酌にかこつければやりやすい。
その意味ではまだあまり仲が良くない組織の場合は御酌文化はあったほうがいいかもしれない気もするのです。
要は思いやりなんでしょうか…・