一昨日の1月17日、6434人の命を奪った阪神・淡路大震災発生から22年目の朝を迎えた。
記憶の風化が懸念される一方、想定されていなかった程の大災害が各地で後を絶たない。
いかに「我が事」として災害に備えるかが改めて問われている。
(以上、朝日新聞1月17日夕刊一面記事より引用した文面。)
本エッセイは18日に綴り公開したかったのだが、ここ2日間、義母の介護認定立ち合いや義母の税務青色申告準備等々の作業に追われ、本日になってしまった。
18日のNHK昼のニュースで、発生より22年が経過した阪神・淡路大震災被災者皆さんの現地映像が写し出された。
その中で、おそらく震災犠牲者の祖母と思われる女性がニュースインタビューに応えている。
最初は気丈に話を進めていた女性だが、孫の死に関してインタビューに応えつつ涙声になっていく‥…
「被災当時1歳の男児でした。 それから毎年この命日に供養に来ている。 最初の頃はヤクルトをお供えしていたのだが、それが少し前からビールに替わった。 今日も墓前にビールとおつまみ(だったか我が記憶が不明瞭)をお供えしました。」と話した後号泣になった…。
その映像を見せられた私も、涙が止められない。
震災当時1歳だったという事は、まさに我が娘と同い年。 命が助かっていれば、現在23歳の青年になっているはずだ。 おそらく、やはり我が子同様に社会人として活躍し始めている頃だろう。
インタビュー女性の無念さに心が痛むと同時に、22年前のあの大震災当日の風景が我が脳裏に鮮明に蘇る。
何年が経過しても被災地現地に暮らす人々に何らのお役にも立てない我が身だが、せめて私なりのお悔やみの意味合いも込めて、あの日自宅にて経験した阪神・淡路大震災の風景を今一度再現してみよう。
(既に幾度かエッセイとして綴っているが、あの日の光景は私にとっても決して脳裏から消え去る事のない大災害であるため、繰り返す事をお詫びしておく。)
1995年1月17日。
あの日は、自宅売却商談のため不動産会社の担当者氏が我が家を訪れるスケジュールとなっていた。
娘は未だ1歳1ヶ月。
ただ当時を振り返るに、事情を抱えてこの世に生まれ出た我が娘も赤ちゃん範疇期だったため、成長の遅れを大騒ぎして“遅れ”と判断する時期でもない事は心得ていた。
未だ歩行が見られないどころか、ちょうど1歳の誕生日頃にやっとハイハイをし始めた娘だった。 まだ立つことも不能な我が子だが、それでもそのハイハイの姿が何とも可愛らしく、亭主や親族と共にそんな姿を見る都度目を細めていたものだ。
何時頃だったのか記憶が薄れたが、不動産会社の担当者氏が我が家にやって来た。
そして開口一番私に告げるには、「関西の方で大地震が発生して、何百人もの死者が出ているようです。」
これには仰天させられた。 元々朝からテレビを見る習慣が無いのに加え、娘の育児に追われていた私にとって、これが阪神・淡路大震災の第一報だった。
「ええーーーーー。そんな大震災が発生しているのですか!!」と驚愕しつつも、肝心の不動産売却商談を進めねばならない。
1時間程商談をして担当者が帰宅した後、すぐさまテレビを付けてびっくり仰天の私だ。
高層ビルが倒れていれば、高速道路が横たわっているではないか!! これは死者数百人で済まない大震災である事実を直ぐに察知した。
そうしたところ、まず神戸に海を面して程近い郷里から電話が入る。 「地震で揺れたが、こちらは大丈夫」と。 更には米国在住の実姉よりも電話が入り、「日本の関西地方に巨大地震が発生したとのニュースだが、大阪は大丈夫なのか?」 姉は過去に於いて大阪で何年か暮らしその地に知り合いがいる故の電話だ。 大阪の事情はよく分からないものの「神戸では多数の死者が出ていて建造物も崩壊し、大混乱状態」である事のみを伝えた。
当時40年程の我が人生経験に於いて、まさにこれ程の国内大災害は初めての経験だ。
その後は、テレビニュース報道より目が離せない。 夜になりテレビ報道を確認すると神戸市長田区のほぼ全域が火災に巻き込まれているとのニュース。
遠く東京に暮らしていた私にとっても、ただ呆然とさせられるばかりで、この大震災地獄から現地の人々を一人でも救い出すには一体どうすればよいのか、途方にくれ悲壮感のみに陥ったものだ。
22年前に勃発した「阪神・淡路大震災」後、この国はある程度、国家及び自治体政策として“防災に向けて直ぐに動く体制”を作るべく動く原点として、当該大震災をモデルにしたのかもかもしれない。
にもかかわらず「東日本大震災」では、上記阪神大震災時に経験していない巨大津波災害が発生した。 その教訓も、ある程度活かされていると解釈するべきだろう。
その後、近年の「熊本大震災」等々に於いて、市民のボランティア活動が充実した事実はプラス評価に値するのかもしれない。
ただし自然災害の困難さとは、その予見に限界があるのが実情ではなかろうか。
たとえば、長野県御嶽山噴火に関しては、未だ遺族が国・県に対して提訴を続けている有様だ。
火山国家でもある我が国は、もっと早期に各火山の噴火予想研究を進めておくべきだったのかもしれない。
あるいは近年各地で多発している「突風被害」など、何処の地で発生するか予見が出来ないのが脅威だ!
これなども国家や自治体は、理化学研究者達にその調査・対策を急がせるべきではなかろうか?
そういう意味で、1995年に勃発した「阪神・淡路大震災」とは、現代我が国に於ける大災害発生の最初のモデルとなった大震災でなかっただろうか。
その教訓がある程度活かされているのかと“贔屓目に”考察しつつも……
その後国内に発生し続ける各種巨大災害に直面する現状に際し、国家や自治体こそが真正面からその対策に向き合い続けるべきではなかろうか。
記憶の風化が懸念される一方、想定されていなかった程の大災害が各地で後を絶たない。
いかに「我が事」として災害に備えるかが改めて問われている。
(以上、朝日新聞1月17日夕刊一面記事より引用した文面。)
本エッセイは18日に綴り公開したかったのだが、ここ2日間、義母の介護認定立ち合いや義母の税務青色申告準備等々の作業に追われ、本日になってしまった。
18日のNHK昼のニュースで、発生より22年が経過した阪神・淡路大震災被災者皆さんの現地映像が写し出された。
その中で、おそらく震災犠牲者の祖母と思われる女性がニュースインタビューに応えている。
最初は気丈に話を進めていた女性だが、孫の死に関してインタビューに応えつつ涙声になっていく‥…
「被災当時1歳の男児でした。 それから毎年この命日に供養に来ている。 最初の頃はヤクルトをお供えしていたのだが、それが少し前からビールに替わった。 今日も墓前にビールとおつまみ(だったか我が記憶が不明瞭)をお供えしました。」と話した後号泣になった…。
その映像を見せられた私も、涙が止められない。
震災当時1歳だったという事は、まさに我が娘と同い年。 命が助かっていれば、現在23歳の青年になっているはずだ。 おそらく、やはり我が子同様に社会人として活躍し始めている頃だろう。
インタビュー女性の無念さに心が痛むと同時に、22年前のあの大震災当日の風景が我が脳裏に鮮明に蘇る。
何年が経過しても被災地現地に暮らす人々に何らのお役にも立てない我が身だが、せめて私なりのお悔やみの意味合いも込めて、あの日自宅にて経験した阪神・淡路大震災の風景を今一度再現してみよう。
(既に幾度かエッセイとして綴っているが、あの日の光景は私にとっても決して脳裏から消え去る事のない大災害であるため、繰り返す事をお詫びしておく。)
1995年1月17日。
あの日は、自宅売却商談のため不動産会社の担当者氏が我が家を訪れるスケジュールとなっていた。
娘は未だ1歳1ヶ月。
ただ当時を振り返るに、事情を抱えてこの世に生まれ出た我が娘も赤ちゃん範疇期だったため、成長の遅れを大騒ぎして“遅れ”と判断する時期でもない事は心得ていた。
未だ歩行が見られないどころか、ちょうど1歳の誕生日頃にやっとハイハイをし始めた娘だった。 まだ立つことも不能な我が子だが、それでもそのハイハイの姿が何とも可愛らしく、亭主や親族と共にそんな姿を見る都度目を細めていたものだ。
何時頃だったのか記憶が薄れたが、不動産会社の担当者氏が我が家にやって来た。
そして開口一番私に告げるには、「関西の方で大地震が発生して、何百人もの死者が出ているようです。」
これには仰天させられた。 元々朝からテレビを見る習慣が無いのに加え、娘の育児に追われていた私にとって、これが阪神・淡路大震災の第一報だった。
「ええーーーーー。そんな大震災が発生しているのですか!!」と驚愕しつつも、肝心の不動産売却商談を進めねばならない。
1時間程商談をして担当者が帰宅した後、すぐさまテレビを付けてびっくり仰天の私だ。
高層ビルが倒れていれば、高速道路が横たわっているではないか!! これは死者数百人で済まない大震災である事実を直ぐに察知した。
そうしたところ、まず神戸に海を面して程近い郷里から電話が入る。 「地震で揺れたが、こちらは大丈夫」と。 更には米国在住の実姉よりも電話が入り、「日本の関西地方に巨大地震が発生したとのニュースだが、大阪は大丈夫なのか?」 姉は過去に於いて大阪で何年か暮らしその地に知り合いがいる故の電話だ。 大阪の事情はよく分からないものの「神戸では多数の死者が出ていて建造物も崩壊し、大混乱状態」である事のみを伝えた。
当時40年程の我が人生経験に於いて、まさにこれ程の国内大災害は初めての経験だ。
その後は、テレビニュース報道より目が離せない。 夜になりテレビ報道を確認すると神戸市長田区のほぼ全域が火災に巻き込まれているとのニュース。
遠く東京に暮らしていた私にとっても、ただ呆然とさせられるばかりで、この大震災地獄から現地の人々を一人でも救い出すには一体どうすればよいのか、途方にくれ悲壮感のみに陥ったものだ。
22年前に勃発した「阪神・淡路大震災」後、この国はある程度、国家及び自治体政策として“防災に向けて直ぐに動く体制”を作るべく動く原点として、当該大震災をモデルにしたのかもかもしれない。
にもかかわらず「東日本大震災」では、上記阪神大震災時に経験していない巨大津波災害が発生した。 その教訓も、ある程度活かされていると解釈するべきだろう。
その後、近年の「熊本大震災」等々に於いて、市民のボランティア活動が充実した事実はプラス評価に値するのかもしれない。
ただし自然災害の困難さとは、その予見に限界があるのが実情ではなかろうか。
たとえば、長野県御嶽山噴火に関しては、未だ遺族が国・県に対して提訴を続けている有様だ。
火山国家でもある我が国は、もっと早期に各火山の噴火予想研究を進めておくべきだったのかもしれない。
あるいは近年各地で多発している「突風被害」など、何処の地で発生するか予見が出来ないのが脅威だ!
これなども国家や自治体は、理化学研究者達にその調査・対策を急がせるべきではなかろうか?
そういう意味で、1995年に勃発した「阪神・淡路大震災」とは、現代我が国に於ける大災害発生の最初のモデルとなった大震災でなかっただろうか。
その教訓がある程度活かされているのかと“贔屓目に”考察しつつも……
その後国内に発生し続ける各種巨大災害に直面する現状に際し、国家や自治体こそが真正面からその対策に向き合い続けるべきではなかろうか。