今回のエッセイは前々回(2017.1.14)公開 「そばに自分を受けとめてくれる人がいる。」の続編の形となる。
前々回のエッセイとは、1月11日朝日新聞夕刊記事より、作家小野正嗣氏が執筆された 文芸・批評 思考のプリズム 「排他的な世界 今こそ文学的聴力を」 と題するコラムを取り上げ論評した内容だ。
その主旨を今一度繰り返すならば、小野氏が言われるところの人が「文学的であること」とは、“相手の話を聞き入れる態度があり、その<聴力>により相手と心より対応可能な人間性を育成している人物” との意味合いだろう。
その小野氏の提言に同感した故に綴った、前々回エッセイである。
冒頭から、私事に入ろう。
つい先だって、いつも通っているスポーツジムへ行った時の事だ。
補足説明をしておくと、当該ジムは公立体育館併設のため、着替えをするロッカールームはジム使用者のみならず、各種ダンスやヨガ等々スタジオ団体プログラムに参加する人達も併用する形となっている。
さて、私が着替えをするため女子ロッカールームへ入ると、団体プログラム参加の2名の女性がおしゃべりをしながら着替えをしていた。
いつもの習慣でその女性達に「こんにちは」と声掛けした私に対し、二人揃っておしゃべりをピタリと止め私の顔をじっと見るのだ。
てっきり「こんにちは」の挨拶が返ってくるかと思いきや、ご両人の対応はまったく違った。 ニコリともせず会釈もせず、(知らない人に挨拶されても困るな)と言わんばかりに、私を完全無視して二人のおしゃべりに戻った。
この種の場面は、今回ならずとも当該ロッカールーム内で以前にもよく経験している。 特に団体プログラムに参加している女性仲間達に特徴的な反応だ。
片や、私同様にジムにて個人自主トレーニングをしている女性達は、たとえ面識がなくともフレンドリーだ。 挨拶を手始めに会話が弾む事は多い。
両者の態度の違いに関して、私なりに少し分析してみよう。
まず、年齢層の違いが一番大きな要因ではなかろうか。
団体プログラム参加女性達は、私より年齢的に少し若い世代の30代~50代程のメンバーが大方のように見受ける。
片やジム個人トレーニングメンバーは、おそらく還暦過ぎた私の世代が最年少。 (稀に若い女性も利用しているようだが、どうも長く続かない様子)であり、そのほとんどがご年配の女性達だ。
ここでいきなり我が国の歴史を振り返るに、私より少し下の世代が俗語で「新人類」と呼ばれる時代があった。 それは、おそらく高度経済成長期が落ち着いた後に思春期を迎え大人になった世代だったとの記憶がある。
彼らとそれ以前より日本を生き抜いている我々世代の一番大きな違いとは、日本の高度経済成長過程を自分の事としてまざまざと見せられたか、既にそれが叶っていたか、の決定的な分岐点によるのではなかろうか、と私は分析する。
要するに、大人になった時点で既に(あくまでも“まやかし”で)この国が豊かだと信じた世代とは、自分自身が浮かれる事こそが重要であり、その後も自分と関係の無い他者に興味を持たぬ道程を辿っているのではあるまいか?
片や、日本の戦後貧しい時代を体験している高齢者達は、見知らぬ人々も共にこの世を生きていることを経験的に知っている。 そのため、垣根無く挨拶を交わす事が出来るのではないかと、「もはや戦後ではない」との時代に生まれた私は想像したりする。
もう一点、何故若き世代が公共の場で見知らぬ相手と挨拶をしないのか、に関して分析しよう。
それは、彼女らの「コミュニティ帰属意識」に端を発する行動ではないだろうか?
団体スタジオプログラムに参加している彼女達は、既にその団体行動により自分の“仲間意識”が芽生えている。 それで必要十分なのかもしれない。
その仲間内で仲良くしていれば、自分の安泰が守れる。 ここで見知らぬ他者と挨拶などして仲間を裏切ったものならば、今度は自分こそが“いじめ対象”となるやもしれぬ…… その種の学校教育を経て大人になったか弱き女性達が、集団志向に進むのは必然的だったのかもしれない。
ましてや、当該女性達が30、40、50代に達した暁に、「ママ友達と上手く渡って行かねば、自分が産んだ子供にさえ被害が及びそうだ…」なる域に至っては、もはや助けようが無い有様だ……
そんな我が推測はデフォルメだとしても、確かに彼女らには必死とも言えそうな「コミュニティ帰属意識」が見て取れそうに思うのが悲しいところだ……
そのような現実下に置いて、人は如何なる行動を取り、文学的な人間になるべきだろう。
「挨拶」をすることすら(我が推測通り)、もしかしたらコミュニティに所属している仲間を裏切る事になるとの判断がなされているとしたら、これは実に厄介な問題だ。
そう言えば、我が国を現在牛耳っている政権トップも、しょっちゅう外国に逃げる行動を採っている。
日本国民に対しては一切の<聴く>耳を持たないくせに、諸外国首長たちとはヘラヘラ作り笑いして握手パフォーマンスを繰り返す。
彼(A氏)が反論して言うには、「諸外国と仲良しになるために貴方達から集めた巨額の血税を世界各国に配りに行っているんだよ~~」との事かもしれない。
そうだとすれば尚更、やはり人間こそが「文学的」に対応して周囲の人々との関係を深め自らの「聴力」を育成しつつ、「そばに自分を受けとめてくれる人がいる」状況を、一人ひとりが創出して欲しいものだ。
前々回のエッセイとは、1月11日朝日新聞夕刊記事より、作家小野正嗣氏が執筆された 文芸・批評 思考のプリズム 「排他的な世界 今こそ文学的聴力を」 と題するコラムを取り上げ論評した内容だ。
その主旨を今一度繰り返すならば、小野氏が言われるところの人が「文学的であること」とは、“相手の話を聞き入れる態度があり、その<聴力>により相手と心より対応可能な人間性を育成している人物” との意味合いだろう。
その小野氏の提言に同感した故に綴った、前々回エッセイである。
冒頭から、私事に入ろう。
つい先だって、いつも通っているスポーツジムへ行った時の事だ。
補足説明をしておくと、当該ジムは公立体育館併設のため、着替えをするロッカールームはジム使用者のみならず、各種ダンスやヨガ等々スタジオ団体プログラムに参加する人達も併用する形となっている。
さて、私が着替えをするため女子ロッカールームへ入ると、団体プログラム参加の2名の女性がおしゃべりをしながら着替えをしていた。
いつもの習慣でその女性達に「こんにちは」と声掛けした私に対し、二人揃っておしゃべりをピタリと止め私の顔をじっと見るのだ。
てっきり「こんにちは」の挨拶が返ってくるかと思いきや、ご両人の対応はまったく違った。 ニコリともせず会釈もせず、(知らない人に挨拶されても困るな)と言わんばかりに、私を完全無視して二人のおしゃべりに戻った。
この種の場面は、今回ならずとも当該ロッカールーム内で以前にもよく経験している。 特に団体プログラムに参加している女性仲間達に特徴的な反応だ。
片や、私同様にジムにて個人自主トレーニングをしている女性達は、たとえ面識がなくともフレンドリーだ。 挨拶を手始めに会話が弾む事は多い。
両者の態度の違いに関して、私なりに少し分析してみよう。
まず、年齢層の違いが一番大きな要因ではなかろうか。
団体プログラム参加女性達は、私より年齢的に少し若い世代の30代~50代程のメンバーが大方のように見受ける。
片やジム個人トレーニングメンバーは、おそらく還暦過ぎた私の世代が最年少。 (稀に若い女性も利用しているようだが、どうも長く続かない様子)であり、そのほとんどがご年配の女性達だ。
ここでいきなり我が国の歴史を振り返るに、私より少し下の世代が俗語で「新人類」と呼ばれる時代があった。 それは、おそらく高度経済成長期が落ち着いた後に思春期を迎え大人になった世代だったとの記憶がある。
彼らとそれ以前より日本を生き抜いている我々世代の一番大きな違いとは、日本の高度経済成長過程を自分の事としてまざまざと見せられたか、既にそれが叶っていたか、の決定的な分岐点によるのではなかろうか、と私は分析する。
要するに、大人になった時点で既に(あくまでも“まやかし”で)この国が豊かだと信じた世代とは、自分自身が浮かれる事こそが重要であり、その後も自分と関係の無い他者に興味を持たぬ道程を辿っているのではあるまいか?
片や、日本の戦後貧しい時代を体験している高齢者達は、見知らぬ人々も共にこの世を生きていることを経験的に知っている。 そのため、垣根無く挨拶を交わす事が出来るのではないかと、「もはや戦後ではない」との時代に生まれた私は想像したりする。
もう一点、何故若き世代が公共の場で見知らぬ相手と挨拶をしないのか、に関して分析しよう。
それは、彼女らの「コミュニティ帰属意識」に端を発する行動ではないだろうか?
団体スタジオプログラムに参加している彼女達は、既にその団体行動により自分の“仲間意識”が芽生えている。 それで必要十分なのかもしれない。
その仲間内で仲良くしていれば、自分の安泰が守れる。 ここで見知らぬ他者と挨拶などして仲間を裏切ったものならば、今度は自分こそが“いじめ対象”となるやもしれぬ…… その種の学校教育を経て大人になったか弱き女性達が、集団志向に進むのは必然的だったのかもしれない。
ましてや、当該女性達が30、40、50代に達した暁に、「ママ友達と上手く渡って行かねば、自分が産んだ子供にさえ被害が及びそうだ…」なる域に至っては、もはや助けようが無い有様だ……
そんな我が推測はデフォルメだとしても、確かに彼女らには必死とも言えそうな「コミュニティ帰属意識」が見て取れそうに思うのが悲しいところだ……
そのような現実下に置いて、人は如何なる行動を取り、文学的な人間になるべきだろう。
「挨拶」をすることすら(我が推測通り)、もしかしたらコミュニティに所属している仲間を裏切る事になるとの判断がなされているとしたら、これは実に厄介な問題だ。
そう言えば、我が国を現在牛耳っている政権トップも、しょっちゅう外国に逃げる行動を採っている。
日本国民に対しては一切の<聴く>耳を持たないくせに、諸外国首長たちとはヘラヘラ作り笑いして握手パフォーマンスを繰り返す。
彼(A氏)が反論して言うには、「諸外国と仲良しになるために貴方達から集めた巨額の血税を世界各国に配りに行っているんだよ~~」との事かもしれない。
そうだとすれば尚更、やはり人間こそが「文学的」に対応して周囲の人々との関係を深め自らの「聴力」を育成しつつ、「そばに自分を受けとめてくれる人がいる」状況を、一人ひとりが創出して欲しいものだ。