原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅲ

2020年05月28日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「科学哲学」授業の“米哲学”分野の講義ノートを撮影したもの。)


 W先生の授業では、英語をはじめ外国語が多発した。

 大学生たる者、当然ながらそれらを聞き取ったり読み書き出来て当然、とのご認識があったことだろう。

 それが証拠に、授業中に配布される資料のほとんどが「英文」だった。
 それを配布した直後に、「じゃあそこの貴方、訳して下さい。」と振られた事に関しては、バックナンバーにても述べた。
 昨日公開した「プラトン」の授業内で、いつも前方の席に座っていた私がトップバッターとして突然指名され、難解な資料を訳すことになった話題は既に述べている。

 私の場合、過去の医学業務に於いて医学論文を読み込んだ経験があるため、ある程度即興でそれが可能だったかもしれない。 
 よく覚えているのは、「positive」を「陽性」と訳して、W先生が「この場合は“実証的(だったかな??)”と訳した方がよいでしょう」等々と比較的優しくアドバイスして下さったことだ。


 冒頭写真も“英語”連発のため、ここで現在の私が訳してみよう。

 Dewey(米国の哲学者 ジョン・デューイ プラグマティズムを代表する思想家。 米哲学者の中でも、代表的かつ進歩的な民主・民衆主義者。)
 真理とは、保証された主張可能力である。
 何かを主張してよいが、その主張する内容が保証されたものでなければならない。
 Rorty (米国の哲学者 リチャード・ローティ ネオプラグマティズムの代表的思想家。 後にスタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。)
 合理的であることとは真実ではない。 まだ見解に達していない。
 我々にとって合理的だと思うことが、必ずしも真実でないかもしれない。
 もっと可能性あるより良きことがあるかもしれない。
 そのギャップを考える。
 我々を超越するのではなく、我々をより良く広げていこうという要求。

    一つの意味しか持たない  ←→  曖昧な

      自国民(自集団)中心主義 




     


     
    

     


     


 米哲学に触れるのは、私にとってW先生のこの授業が最初で最後だったかもしれない。
 原左都子としては不本意ではあるが本日はこの後多忙でもあるため、ここまでで素通りさせて頂くことにしよう。😝 

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