原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

我がフルート演奏の目的はその“練習過程”にこそあり

2018年05月31日 | 音楽
 (写真は、現在私がフルート練習を実施している楽曲譜面の一部を撮影したもの。)


 我がフルート練習行脚に於いて個人指導講師を“斬り捨て”、音楽スタジオにての自主練習一本に切り替えた後、早くも2ヶ月近くが経過した。

 その間、フルート練習はより内容を強化しつつ続行している。
 もちろん、日々の練習成果発表の場である「舞台出演」等の機会をまったく欲しないかと言えば、嘘になろう。 ただ理性的に判断するに、下手な演奏を人をかき集め無理やり聴いてもらって何になろうとの虚しさもある。
 私が調査したところ、今の時代、(特に大都会東京に於いては)巷に幾らでも小規模ライブハウスが存在して、素人でも“カネさえ出せば”「演奏披露」の機会を持つことは十分に可能なようだ。 しかも一人で観客集めに難儀せずして、それすら“さくら”観客の人数を揃えるサービスビジネスもあるようだ。
 まあ、もっと上手くなってその気になれば、そんな “いかさま演奏会” でも開き自己満足すればよいのだろうが……


 朝日新聞2018.05.28 夕刊 「音楽・舞台」のページに、そんな現在のフルート練習に対する我が思いと重なるような記事を見つけた。
 早速以下に、大阪市立大学某教授による「二つの音楽 成果か過程か 異なる目的」と題する記述の一部を要約引用しよう。

 2年前から「オヤジバンド」をやっているが、数カ月に一度練習スタジオに入り、ブルースやロックを気ままにセッションする。 メンバーの大半はポピュラー音楽研究者であるが、研究のプロであっても演奏は決してうまいとは言えない。 かつて「鳥類学者の仕事は空を飛ぶ事ではない」と述べた学者がいたそうだが、音楽研究の専門家としては下手な演奏を披露するのも心苦しく、人前で演奏した事は一度も無い。 ただ、練習後のビールは最高にうまい。
 このような、典型的なアマチュア音楽を楽しむ人は多い。 その目的とは「自分たちが楽しむこと」であり、必ずしも音楽的成果を目的とはしない。
 アメリカの某民族音楽学者は、単一の目的を伴う一つの活動として「音楽」を捉える見方を批判する。 彼によれば、音楽とは互いに存在意義や目的が異なる複数の活動により構成される複合文化実践と捉える。 すなわち、演奏の成果よりもその過程の相互コミュニケーションを目的とする参与型パフォーマンスは音を通じた社交形成としての重要な役回りを果たす、と論じている。
 しかし、今日の音楽の社会に於ける使命とは、演奏者が「価値ある音楽」を一方的に提供する上演型パフォーマンスの成果物を指すことがしばしばである。  文化としての音楽とは、そうではなく過程に重きを置く「別の音楽」もまたそこに潜んでいる。
 音楽を考える事とは、音楽活動の成果物について考えることとイコールではない。 故に我々は、ロックな成果を生まないオヤジバンドセッションに熱中し、終わればまたうまいビールを飲むのである。
 (以上、朝日新聞記事より引用したもの。)


 原左都子の私見に入ろう。

 そうか……。 大阪市立大学教授であられる某氏は、素人「オヤジバンド」を楽しんでいるって訳ね。
 その経験に基づき自らの専門である学問としての音楽に関し、「現在の音楽が置かれている“成果か過程か” 異なる目的」に関して論じたということね。

 貴方のオヤジバンドと我がフルート練習とが決定的に異なるのは、そのド素人音楽練習を「集団」でやっているのか「単独」でやっているのかとの点だ。
 貴方の理論の場合、結局そのオヤジバンドの練習を「集団」でやっているからこそ、実り無き下手くそな練習過程であろうが、その後のビールが美味しいということだよねえ。
 そして貴方の理論とは、結局「仲間皆で飲むビールが美味しい」からこそ、音楽に於いて成果ではなく過程も認められてよい、との結論に達するという事だよねえ。

 そう結論付けられてしまうと、我が単独フルート練習は、何に救いを求めればよいのか困惑してしまう。
 ただ私はたとえ単独練習であれ、練習終了後には私なりの“達成感”を得られていると判断している。
 まあ、今後は大学教授である貴方とは異質の、「単独練習」による達成感に関する学説でも我がエッセイ集にて唱えようではないか!


 それにしても今回大阪市立大学教授氏が朝日新聞に記載した文面を読ませて頂いて、分かった事もある。
 私が何故2ヶ月程前にフルート個人レッスン講師を“斬り捨て”るとの決断をしたのかの、一つの理由が判明した。
 当該フルート講師は、こんなド素人の私に対して「自分(講師先生ご自身)の演奏レベルに近づく事」を求めていたのだ。 それは要するに、講師氏が音楽を「過程」ではなく「成果」として捉えていた故だろう。
 
 その「過酷(無茶振り)」とも表現出来る状況から解放され、私は現在音楽スタジオにて単身でマイペースのフルート練習を堪能している。


 昨日は、故・西城秀樹氏の楽曲を何曲か“楽譜無し”で(途中で歌も交えて)フルートで吹いてみた。 いやあ、感慨深いなあ。
 そんな風に私なりにフルートを通して音楽を楽しむ日常が、音楽スタジオにてしばらく繰り返される事だろう。