原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

何故、見知らぬ相手に「死にたい」と訴える?

2017年11月06日 | 時事論評
 冒頭から話題をズラすが、本エッセイ集2008.8.27バックナンバーとして「無痛化する社会」と題するエッセイを綴り公開している。
 公開して後既に9年以上の年月が経過しているが、今尚アクセスが多いスタンダードナンバーの一つと表現出来るエッセイだ。

 そのエッセイから一部を要約して、以下に紹介しよう。

 少し以前の話になるが、ブログ関連のとある場で、若い世代の方が書いた文面に対し、私は少し批判的な反応をさせていただいたことがある。 そうしたところ、間髪を容れずにご本人から「自分に対するアクセスは今後一切しないように。書き込んだ文章は即刻削除して欲しい。」という趣旨の抗議文が私の元に届いた。 これに対し私は「今後一切(ご本人に対し)アクセスをしないことは承諾するが、(私が)書き込んだ文章が趣旨に沿っていない訳でもないのに、削除を強制するのは言論統制に当たり越権行為であるため拒否する。」旨の返答をした。
 この例に限らず例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。  誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。
 人間関係に的を絞り、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。
 既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
 他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。 一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。 たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力がなくなってしまっている時代なのであろう。
 ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。 そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。
 その場しのぎの、“痛み”を知らない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。 ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。
 “痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 私見に入ろう。

 いやはや、ブログを開始して未だ1年足らずの9年以上前に綴り公開した我が記述を読み返してみると、(いや~~、私も若気の至りだったものだ)と驚くやら、ある意味で反省させられるやら、だ。
 ただ、このブログ初期頃の事は今でもよく覚えている。
 何分ブログ新人にして、某ブログコミュニティを通じあれよあれよと読者登録が押し寄せ、わずか1年足らずの間に多く(数百人)の良質読者に恵まれ、“いい気になっていた”時代背景である。
 恵まれたブログ環境の中、こちらからアクセスをさせて頂いた事もある。
 上記の「事件」は、その中でも若き世代(未だ10代後半くらい)の男性相手に寄せた我が書き込みに対する反応を取り上げたものだ。 今思えば、相手が未成年者である事実に対する配慮もせず、こちらこそが大人げなく不躾だったと反省させられる。

 観点を変えて、更に私見を述べよう。
 そうだとして上記のやり取りとは、ある意味で“建設的”なネット上のかかわり方が出来ているとも感じ取れる。 それは文面上の論争が行われている故だ。 (我が論争を相手に拒否されたとの顛末だが、そうだとしても)、単に “私のブログを見て下さい” “友達になりましょう”云々ではなく、我が意見を相手が拒否しているところに確かに“論争”が成立している。
 その意味では「無痛」ではなく、お互いに「痛み」を伴った関係をほんの一時だが築けた有意義なネット関係だったのかもしれない。


 話題を大幅に変えよう。

 現在神奈川県にて発生している9人連続殺人事件も、ネットを通してのやり取りから事件が勃発しているようだ。  今となってはネット犯罪は何ら珍しい事象でもなく、そんな事件がまたもや発生したか、程度に万人が捉えている事だろう。
 事件の発端は加害者が(要するに)“自殺幇助”に応じるとネット発信したのに安易に反応し、その文言に引き込まれた若き女性(女子)達が犠牲者となっているとの事件のようだ。
 被害者のご関係者にとって一番許し難き点とは、実は加害者が最初から殺害を企てていて自分は死ぬ気など毛頭なかった、との部分ではなかろうか?
 しかも。 加害者によれば、「(実際に会ってみると)本当に死にたい人がいなかった」との無残さだ。

 私が一番無念なのは、何故彼女ら(男性犠牲者も1名いるようだが)は全く見知らぬ相手に「死にたい」と訴えねばならなかったのか、との点だ。
 報道によれば、加害者はネットから自分に近づいて来た女性達にさしあたり“やさしく”接したらしい。 だからこそ彼女らは加害者の棲家まで足を運び、結果として命を失う羽目となったのだろう。


 最後に私論でまとめよう。
 
 自分が抱える(究極の場合「死にたい」なる)悩みを、ネットを通じて見知らぬ相手を見つけ相談する、との事態。 
 これも「無痛化」の一現象と捉えられるのかもしれない。 

 現実世界での人間関係の希薄化が極度にまで進んでしまった現在の社会に於いて、下手に現実世界の知り合いに相談したところで、不十分な回答しか得られなかったり、そもそも相談に乗ってくれる受け皿がまったく無い事も重々想像できる。 その回答が想像可能な立場にして、無意味な現実とのことだろう。
 そうした場合、とりあえずとにかく自分の思いを表面的にでも受け止めてくれそうな相手がネット上で見つかったなら、“藁をも掴む”思いになる切実な彼女らの気持ちも理解可能とも言えようか。

 何分、髪の毛が「黒」でなければ「地毛証明書」を提出しろ! と生徒の尊厳を根本から拒絶する指導を平然と強行している現在の学校教育現場だ。  そこに勤務する教員らが指導教育を担う集団現場に日々通わねばならぬ生徒達に「優しい心」が育まれるはずもない!  家に帰っても貧しい親どもが「学校指導に従え!」と怒鳴る。 (事例が極端だった事はお詫びするが。)

 この世の不条理・不憫に悩み苦しむ若い世代が、何を心の拠り所にすればよいのか? 
 そこで辿り着くのがネット世界しかないとの現実こそが、若者達にとって実に厳しい現状と結論付けられよう。

 そんなネット世界の大いなる「マイナス所産」に対する制御機能が未だ無い事態に対し、特にネット産業にて暴利を得ている企業群は早急に着目し、改善策を提案して欲しいものだ。