原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“あおられる”恐怖

2017年11月02日 | 時事論評
 私が車の運転を完全リタイアして以降、既に十年以上の年月が流れている。

 その間、ただの一度足りとて “運転を再開しよう” と考えた事がない。
 一番の理由は、その後特段車の運転をする必要が無い生活を送っている故だ。

 特に子育て中は何処のご家庭も、子どもの習い事等々の送り迎えをするのは母親の役割であることだろう。
 大都会で車を動かすこととは様々な理由で難儀な生業だが、この私も子育て中は無い知恵を働かせてそれを乗り越えて来た。
 たとえば駐車場確保に難儀する。
 都会の場合ほとんどの習い事教室付近に駐車場が無いため、他に車を止める場所を確保せねばならない。 しっかりした子供さんを持つ母親氏など、路上に違法駐車したまま車内運転席で待機し、子供が車まで来たら発車すれば済む様子だった。(実際、その種の母迎え車が大多数だった。 ただ、現在は違法駐車に厳罰が下されるめ減少しているかもしれないが。)
 残念ながら我が家の場合、その種の早業を我が子に課すのは“命取り”であり所詮無理だ。 必ずや母の私が習い事教室の玄関先まで迎えに行き、時には指導者に娘の成長具合を確認したりしつつ、娘の手を引いて私が確保した駐車場まで連れて行き帰宅した。
 
 その後、そんな娘も私立中学生となり、電車を3本乗り換えて通学する身となった。
 クラシックバレエ及び油絵絵画の習い事を続行させていたが、通学の帰り道に自身で教室へ立ち寄ってくれるようになったため、我が送り迎えの生業終了と同時に車の運転リタイヤの運びとなった。


 私の車運転リタイヤを一番残念がったのは、郷里の実母だ。
 私が郷里に帰省する都度母がそれを責めた。 その気持ちも分かる気がする。 交通網が発達し得ない過疎地郷里に於いては、“車無し”生活など成り立たないのは百も承知だ。
 そんな母が我が帰省の都度必ずや言った。 「何も“運転完全リタイア”せずとも、空港からレンタカーを借りたら身軽だよ」と。
 この発言から母は“旅の楽しみ”を知らない人種だと、私はいつも感じる。 帰省とは言えども郷里実家に立ち寄る時間帯が少ない私の場合、路線バスとタクシーがあれば十分だし、その方が自家用車やレンタカーの中に身内で閉じこもるよりも “一期一会” の出会いが格段に増えるとのサプライズ楽しみがあるのだ!


 話題のテーマを表題に戻そう。

 当時の女子としては早期の19歳時に運転免許を取得した私だが、決して運転が得意ではないとの感覚はあった。
 自動車教習所でも(自己分析で周囲と比較して)劣等生であることを自覚していたのだが、どういう訳か、仮免も本免許も周囲より早期にゲット出来た。 それを後に分析するなら、要するに“試験の要点”を心得る能力に長けていたからに他ならない。

 免許ゲット当初、実際車を運転するとの事実が私にってどれ程恐怖だったことか!  早速大学へマイカー通学を始めた私だが、日々の運転が怖い事この上なかったものだ。
 そんな私に、最初の“あおり運転”恐怖機会が訪れた。 過疎地にしては広い交差点に差し掛かった際黄信号に変わったため、初心者としては安全確保のために停止したのだ。 それに怒り狂ったらしき後部の大型トラック運転手が、最大限の警告音を出しつつ、小さき車の運転席の私を睨み付けながら猛スピードで接近しつつ走り去った。
 ただその後郷里にて、“若葉マーク”を貼りつけていた私をあおる運転手と遭遇しなかったのはラッキーだったと言えるだろう。


 話題を上京後に変えよう。

 若き世代の男女の付き合いに於いて、「ドライブ」なるデート手段は今現在もスタンダード形態であることだろう。
 上京して後自家用車を持たなかった私も、独身時代は彼氏の車でドライブも堪能した。

 20代後半期に差し掛かり、いつもは都心の飲み食い処デートが中心だった某彼氏(B氏としておくが)と初ドライブと相成った。
 その時、私は初めてB氏の車に乗ったのだが。
 驚愕させられたのは、B氏に車の運転をさせると極端に人格が変貌する事実だった。 いつもは優しいB氏が、突如として「何やってんだ!前の車は!」等々と運転席で怒り始めるのだ。  その事態に私こそが仰天させられ、「何言ってるの!前の車は特段悪い事をしていないよ!」等々なだめるにも関わらず、「こんちくしょー!」と叫び始めた時点で、私は即刻B氏との付き合いを終焉させる決断を下した。


 最後に、私論でまとめよう。

 前方をノロノロ運転車が走っていたり、合流時に割り込まれたした際、普段は口にしないような罵声を浴びせたり、抜き返そうと荒い運転になってしまったり、という「あおり運転」。
 朝日新聞記事によれば、その実態とは「車特有の“匿名性”と“万能性”が火に油を注ぎ」、その場では身元が相手に分からないため感情の抑制がききにくい、とある。 
 要約するならば、車に乗ったらまるで「鉄のよろい」でも被ったつもりになり自分が強くなった錯覚に陥るとの記述だが、まさにその通りであろう。

 いやはや、恐ろしい限りだ。
 私自身は十年程前に車の運転から完全リタイアした人間である故に、今後一切運転席には座らないつもりだが。 
 今後車の運転を続行したい方々は、どうか他力本願勘違いの「鉄のよろい」を外して自己の人格を取り戻した後に、運転席に座って欲しいものだ。