原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

実力を伴うならば学歴も自己ブランド価値となろう

2016年05月14日 | 教育・学校
 「原左都子エッセイ集」バックナンバーにて、幾度か「学歴」をテーマとしたエッセイを綴り公開している。
  
 その中から2エッセイを取り上げ、原左都子の結論部分のみを今一度公開させていただこう。

 まずは、2013.11.4 バックナンバー「学歴が高過ぎて何が悪い!?」
 原左都子の結論を述べよう。 それでも分かるのだ。 今現在、就職難に立ち向かっている若者が置かれている理不尽な立場が。
 要するに我が国日本に於いては過去の教育行政の失策故に、今になって尚「学歴」なるものの信憑性の程が不確実である事実を痛感させられる。
 もしかしたら将来の職業につながりにくい「文系」出身者を筆頭に、その就職不確実性が顕著ということであろう。 それを各種民間企業側が悪用して、採用後まもない時期から生産性に直結しない使い物にならない高学歴者をとっとと切り捨てている現状ではあるまいか? そうであるとしたならば、高学歴者を切り捨てる民間企業側の身勝手な論理も叩かれるべきということだ。
 何はともあれ、自分の実力とは自分自身が本気になって磨こう。
 学歴を身につけるのもその一端と志向して、私など30代半ば過ぎてから「大学院修士課程修了」の学位をゲットした。 現在に至っては我が意に基づく就職先には恵まれないものの、学位取得の経験とその実績は今尚私自身の生活上大いに役立っている。(自らの不動産賃貸管理、あるいは義母の財産税務管理等々の実務に於いて。)
 学歴が高過ぎようと、自分自身が一生に渡りその学問経験を有効活用可能ならば何らの支障も無い事は元より、世間からバッシングされる筋合いなど皆無なのはもちろんの事だ!
 (以上、当エッセイ集バックナンバーより結論部分のみを引用したもの。)

 次に、2009.11.4 バックナンバー「博士の行く末」
 「修士」はともかく、「博士」の学位を取得すると就職の受け皿がないという話をよく耳にする近頃である。 博士の方々の就職難の実態が気の毒にさえ思えてくる。
 私事で恐縮だが、我が家にも「博士」が1名いる。  我が家の博士は“理学博士”なのだが、自分自身の研究者としての意思と希望を優先するために、やはり“真っ当な”就職までには難儀した人物であるらしい。(“らしい”と表現するのは、私はこの人物が親掛かりを離れて自力での生活が安定して以降に知り合っているためである。) 我が家の博士の場合、学位取得後、理系の博士に多い“ポスドク”(ポストドクター = 任期付きの博士研究員)を2大学に於いて経験している。 その間に科学誌“ネイチャー”に研究論文を発表した後、30歳代半ばになってやっと日本の某企業の研究所に就職を決めたとのことである。  それでも、我が家の「博士」の場合はその頃の時代背景にも助けられ、遅ればせながらも就職先にありつけ、その後は一応安定収入を得つつ現在に至っているため、まだしも恵まれている方なのであろう。
 「博士」の“数”だけ増やせばよいと安易に考えた文科省の政策は、やはり失策だったのではなかろうか。 そして、その責任を教育現場の大学になすりつけて済むと言う話でもないであろう。 今後は大学の意識改革の下に、研究分野の専門能力のみならず、この厳しい経済社会で真に活躍できる総合的な能力をも兼ね備えた人材の育成に取り組んで欲しいものである。
 そして、「博士」等の学位取得を目指そうとする人々やその保護者の皆様にも提言申し上げたいのだが、学位を取ればどうにかなる時代など、とうの昔に終焉している。 どのような分野であれ、確かな実力があってこそ渡っていける世の中である。 それを肝に銘じて精進していただきたいものだ。 
 (以上、同じく当エッセイ集バックナンバーより引用したもの。)

 ついでだが、私は娘が大学4年に進級するに先立ち、以下のような指導・アドバイスをしている。
 もしも貴方が大学院進学を目指したいのならばその学費を親が負担してもよいが、それには条件がある。 必ずや大学院進学に関して自らの明確な学問・研究ポリシーを持つ事。 大学院に於いては、その学問研究及び修士論文作成に全力投入する事。 大学院修了時には、自分が大学院にて励み獲得した学位を誇れる程の実力を身に付けておく事。  それらの一つでも達成不能と判断するならば学費負担はしない故に、就活に精を出して自ら就職先を確保せよ。
 結果として、我が娘は後者の就活を選択した。 現在新入社員として職場の諸先輩の方々に“絞られて”いる様子だ。


 さて、話題を変えよう。

 本日(5月14日)朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談は、20歳 大学3回生女性による、「母親に学歴上げろと言われて」 だった。
 早速、その相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 20歳のこの春大学3回生になった女性だが、そろそろ就活のことや将来自分が何をしたいかを考えねばと近頃思うようになった。 その矢先、母親から電話があり「大学院に行って」と言われた。 母親が言うには、私が今通っている大学を卒業するとそれが私の学歴となるのでそれが許せない、との事だ。 現在私が通っている大学を上回るレベルの国立大学大学院に進学しなさい、と言う。 私は悲しくなった。 どうして私の人生を親に言われた通りに生きねばならないかと。 そして、社会に出ると学歴だけで人は判断されてしまうのかと。 親の意見に構わず、自分のしたい事に突き進んでいいだろうか?
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より要約引用したもの。)

 とりあえず、原左都子の感想を述べよう。

 一体どうしたんだ?  何とも低レベルな母娘の確執に娘さん側が悩んでいる様子に驚かされる。
 相談内容から察するに、どうやらこの娘さんは実家を離れて大学へ通っている様子だ。 そしておそらくこの娘さんは、大学3年生にして明確な将来目標を持っていないと推測出来よう。 まあ確かに特に文系学部の場合、それは致し方ないかもしれない。  で、母親から「大学院へ進学せよ」と電話で言われ、やっと学歴社会を垣間見たのだと??  しかも、自分がやりたい事に突進していいのか?と相談内容にあるが、肝心の「自分がやりたい事」すら何もない事実に唖然とさせられる。

 片や、母親側の“愚かさぶり”にも心が痛む思いだ。
 おそらくこの母親自身が大学院経験が一切無いと推測するが、そもそも大学院とは大学とはまったく異なり、いわゆる“偏差値”で評価するべき学問の府ではない。 故に、この相談者の母親氏が言われるところの「(娘さんが現在通っている)大学を上回るレベルの国立大学院へ行け!」との指令自体が根本的に誤っている事実に母娘共々無知な事実こそが墓穴を掘っているのだ。
 例えば東大を例に挙げると(私自身が過去に東大大学院法学研究科修士課程を狙い願書を提出した立場だ。残念ながら「民事訴訟法」の学習が間に合わず受験を断念したが…。) 大学に関しては超難関(とは言えどもあくまでも偏差値レベルの話であるし、学部間差異も大きい)であるとして…。  大学院とはそもそもその存在命題が大学とは異質であり、他大学や外国人入学者の学問・研究有志に対し門戸を開いて歓迎している学問研究機関であるため、様々な個性溢れる人材が在籍している。 特に東大大学院の場合、院生数が何千人規模と膨大で、他大学や一般人・外国人の入学者が多いと心得ているが。
 要するに、大学院に「学歴」を求める母親の要求自体が根本的に誤っているのだ。 私が思うには、この相談者の母親とは自分自身の狭い周囲の付き合いに於ける井戸端会議にて、単に「娘は現在〇〇国立大学大学院へ通っているのよ!」と自慢したいレベルの話ではなかろうか? 
 大学院に真に興味があるならば、娘さんではなくお母様ご本人が入学される事を是非お勧めしたい。 


 そうした場合、上記“悩みのるつぼ”相談に対しては、今回の回答者であられる評論家 岡田斗司夫氏の回答が的を射ている。
 (参考のため原左都子の回答に関しては、冒頭に紹介した我がエッセイ集バックナンバー等々にて既に幾度となく述べている。)

 以下に、岡田斗司夫氏による“悩みのるつぼ”ご回答の一部を紹介して締めくくろう。
 「学歴だけで人は判断されてしまう?」 「社会に出るとみんな学歴で判断する?」 答えはすべてノーです。  (中略)  学歴とは「セールスポイント」の一つではある。 それが無い人は逆を考えよう。
 どこでも構わないから、とりあえず雇ってくれる会社を見つけて働いちゃう。 そこでやりたい事を見つけるのがポイント。 母親や自分のプライドを納得させるのはずっと後回しにしよう。 本当にしたい事よりも、「自分はどう役に立つのか」を考えた方が、たぶん幸せになれる。

 いやはや、まったくもって現在の原左都子の娘とは、大学での専攻とはまったく異なる分野への就職をゲットし、岡田斗司夫氏が言われるところの「自分が社会に如何に貢献出来るか!?」なる課題に対する自分なりの答えを求めるスタートラインに立ったばかりだ。