原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子どもは “絶対評価” で褒めてよい

2014年10月15日 | 教育・学校
 親が未だ幼き我が子を褒める場合、その基準として「絶対評価」以外考えられないのではあるまいか。

 ところが、世の中にはそれを実行して悔やんでいる母親が存在するようだ。


 少し前の朝日新聞「声」欄に、自分の子を「絶対評価」で褒めた事実を「裸の王様」だったと反省している投稿があった。  早速その内容を、原左都子の記憶に頼り紹介しよう。

 幼稚園児の我が息子は元々運動能力が劣っていたのだが、今まで出来なかった“飛越し”運動が出来たため、母の私はそれを瞬時に褒めた。  その時、隣にいた息子の友達がそれを見て、軽々と“飛越し”運動をやってのけた。  その時に、母である私は悟った。 我が子が今まで出来なかった事が突然出来たとは言えども、すぐさま褒める行動とは「裸の王様」状態である事実を…。 我が子を褒める場合には、必ずや世間標準と照らし合わせてそれを実行せねば、今後の息子の成長の足を引っ張る事態ともなりかねない。
 (以上、朝日新聞「声」欄投稿より原左都子の記憶に頼り引用。)


 早々に私論に入ろう。
 
 自分の子を“絶対評価”で褒めた事態が、「裸の王様」???
 それならば、世の中のすべての子を持つ親は「裸の王様」であってよいと私は結論付けたい。

 原左都子の私事を語るならば、多少の事情を抱えて誕生した娘幼少の頃より、我が子が幼稚園や学校等の集団内では恐らく他者から“褒められる”という事を経験する事が稀であろうと推測していた。 そんな私は、娘と1対1対応時には何をさて置いても娘のほんの少しの成長を親の私が“褒めまくった”ものだ。
 その我が行動がその後の娘の成長に於いて、大いなるプラスになったと私は自負し続けている。

 我が娘の場合、(親馬鹿ながら)他者から褒められるべく各種要素を生まれ持つDNA及び生育環境レベルで大いに兼ね備えていた子であり、私のみならず学校等集団内でも“褒められる”経験を数多く重ねて来れた事が幸いしている事を私も認めている。

 ただやはり特に子どもが幼き頃には親こそが我が子を褒めずして、一体誰が我が子を褒めてくれる?? 


 話題を変えよう。

 娘が既に大学3年生にまで成長している我が家の関心事とは、今後の娘の就職先に他ならない。

 ところが一旦都心の電車に夕刻時間帯に乗れば、未だ若き世代である受験生達の“ぼやき”の声が聞きたくなくとも我が耳に入る。 その多くが「偏差値」に翻弄される嘆きの声である事に我が心が痛む…。

 「偏差値」すなわち「相対評価」に翻弄されつつ、それでも未来を目指して精進せねばならない若者群像に真の未来が訪れるのだろうか?? 
 そんな老婆心すら抱かされる程に、子供の学力評価を巡る教育背景とは昭和終戦直後から一切変貌していない事を実感させられる次第だ。

 電車の中で「偏差値」すなわち「相対評価」を頼りに大学受験対象を絞り込もうとしている若者の親達こそが、幼き我が子を褒めるに当たり「絶対評価」ではなく、周囲の子供達と比較した「相対評価」に依存してきた事実が歴然とも言えそうだ。

 
 
 私自身が「親」の立場として、娘の受験時期を既に無事クリア出来ているからこそ言いたい事がある。

 我が子の教育を「塾」や「予備校」等による市場競争原理主体に任せ切る親達とは、可愛い我が子を“編差値”基準で序列化される事態に慣れ切ってしまい、悲しいかな神経が麻痺している現実を突きつけられる思いだ…。
 そんな親どもに私が何を提言したとて、子の能力に関し、例えば「結婚相手」選択等に関しても、一生「相対基準」評価を下し続けるであろう事を危惧する。


 そのような日本の現状に於いてこそ、親自身が現在置かれている我が子を取り巻く厳しい環境を再度振り返る事に期待したい思いである。
 現世代の過ちを引き継ぎ、次世代を生き抜かざるを得ない若者たちにとって、「絶対評価」「相対評価」にかかわらず厳しい現世を突き進まねばならない事実を、親世代こそが今一度顧みて欲しい思いだ。