「太ったソクラテス」…
大変失礼ではあるが、現在のマララさんの写真を見て私の脳裏に浮かんだフレーズがこれだ。
まるで「4,50台のおばさん」の風貌だ。 いや、むしろ「ノーベル平和賞」を狙うためには、(よく言えば)この“貫録”を故意に演出せねばならなかったのかもしれない。
もちろん、マララさんが生まれ育った過酷な環境を私も十分に理解出来ている。
ただ、やはり今回のノーベル平和賞受賞は、欧米の価値観により“仕組まれた劇場ドラマ”であった感が否めない。
それではここで、マララさんが歩んだ17歳までの半生(1/5生と言うべきか)を、ウィキペディア情報を参照しつつ少し振り返ってみよう。(敬称略)
マララ・ユサフザイ(1997年7月12日 生 )は、パキスタン出身の女性。 フェミニスト・人権運動家。
スンニ派の家庭に生まれる。 父親は地元で女子学校の経営をしており、マララは彼の影響を受けて学校に通っていた。 2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)が一家が住むスワート渓谷の行政を掌握すると恐怖政治を開始し、特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、命を狙うような状況になった。 2009年、11歳の時にTTPの支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBC放送の依頼でブログにペンネームで投稿してターリバーンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、欧米から注目された。
2009年、TTPがパキスタン軍の大規模な軍事作戦によってスワート渓谷から追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表し、「勇気ある少女」として表彰した。 その後、パキスタン政府主催の講演会にも出席し、女性の権利などについて語っていたが、この事によってTTPから命を狙われる存在となる。
2012年10月9日、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。
奇跡的に回復後、2013年1月3日に約2カ月半ぶりに退院した。家族とともにイギリス国内の仮の住まいでリハビリをしながら通院を続け、2月2日に再手術を受けた。
2013年1月9日、シモーヌ・ド・ボーボワール賞(英語版)を受賞。 同年7月12日、国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。国連は、マララの誕生日である7月12日をマララ・デー(英語版)と名付けた。また、同年10月10日にはサハロフ賞を受賞した。
2013年10月13日、容疑者とみられる5人が逮捕された。 2013年11月10日、ホワイトハウスでオバマ大統領一家と会談。
そして2014年10月、「ノーベル平和賞」受賞。
(以上、ウィキペディア情報の一部を引用要約。)
次に、「ノーベル賞」受賞直後のマララさんの談話を10月11日付朝日新聞より引用しよう。
「この賞を与えられてとても光栄。私一人に与えられたものではなく、声を聞かれるべき子供達すべてに対するものだ」 共同受賞が決まったインドのサティヤルティさんと電話で話した後、「これは始まりにすぎない。私はすべての子供に学校へ行って欲しい。」「パキスタンでは、私には黙って殺されるか、発言して殺されるかしか選択肢がなかった。だから私は立ち上がって殺されようと思った」と、イスラム過激派の武装勢力タリバーンと対峙した時の自らの決意の固さを説明した。
(以上、朝日新聞記事より一部を要約引用。)
引き続き、朝日新聞記事よりノーベル賞委員会委員長の談話を紹介する。
ノルウェーのノーベル賞委員長ヤーグラン氏は、朝日新聞よりのインタビューに応じ、今年の平和賞授与の狙いに関してこう語った。「世界中の若者に希望を与える事に、焦点を当てたかった」 「その最善の方法は、学校に通う権利を与える事だ」と指摘。 インドとパキスタンについては「両国は長年紛争を抱えている」と指摘し、「子供の労働問題や教育を受ける権利のためにベテランのサティヤルティさんが長年取り組んできた活動に、若きマララさんが光を当て推進した」と話した。
(参考だが、ヤーグラン氏は、今回「憲法9条」護憲の日本国民の動きに関しても平和賞検討対象だった事を認め、真剣に検討した。との事だ。)
(以上、同じく朝日新聞記事より一部を要約引用。)
更には、今回のマララさん平和賞受賞への各国からの賛否両論意見を朝日新聞記事より紹介しよう。
国連バンギムン事務総長は、「彼女は一本のペンが世界を変える事ができると述べ、一人の若い女性が模範を示せる事を証明した。国連は彼女と共に過激主義に立ち向かい、暴力から逃れ、学校に通い学ぶ権利を享受するという全ての少女の権利を擁護し続ける」と宣言した。 マララさんが現在暮らす英国ブラウン前首相は、「彼女の教育ビジョンや勇気、決意は平和賞に値する」とのコメントを発表した。
ただ、パキスタンでは冷めた意見も根強い。 外務省幹部は「なぜマララだけが注目されるのか。米国の無人機巻き添えで亡くなった数多くの子供達に世界はなぜ目をつむるのか」と指摘する。 インターネット上の書き込みにも「マララは欧米の操り人形だ」「かつて平和賞を受賞したオバマ大統領と同類だ」など、批判的な見方が圧倒的だ。
米軍による対テロ戦のあおりで、治安が悪化した隣国アフガニスタンなどでは欧米に対する反感が根強い。 ノーベル平和賞に「欧米価値観の押しつけ」を感じる世論を反映したものとみられる。
(以上も、同じく朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
最後に、原左都子の私論で締めくくろう。
マララさんが生まれ持った「不運」と「幸運」が私の脳裏に入り混じる。
戦闘下にある国家に生まれ出るを得なかった事実は確かに不運であろうが、マララさんは家庭環境には恵まれていたようだ。 学校を経営する父親の下、教育の素晴らしさを幼い頃より体得可能だった環境下に育ったマララさんは幸運だったと言えよう。
それを自らの武器とするマララさんが、イスラム過激派の標的となったのも“運命のいたずら”範疇かもしれない。
マララさんが今まで歩んで来た17年間の人生の中で一番評価されるべきは、襲撃を受けた後(先進国医療のバックアップに恵まれた事は事実であろうが)未だ10代半ばにして恐らく“うつろな脳裏で”「自分はパキスタンの子供を救うべく生き延びよう!」との決意の下、奇跡的に回復した事実であろう。 その類稀な“意気込み”に関しては私も大いに評価対象としたいものだ。
ところがその後マララさんとは今尚、英国バーミンガムに居住しているとの報道だ。 それもそのはず、今現在自国であるパキスタンに帰国したとて、タリバーンの襲撃を受けかねない事を配慮しての措置であろう。
ただそうした場合、マララさんの教育理念とは“机上の空論”に過ぎないと表現されても致し方ないのではなかろうか。 教育とは、まさに現場で子供と親身に向き合ってこそ成就が叶う対象現象でしかないのだ。
その意味で、インドのサティヤルティさんの国内行動は直に「ノーベル平和賞」に結びついたと言えるのではあるまいか。
未だ17歳のマララさんが「ノーベル平和賞」を受賞しても、恐らく世界中の誰もが困らない事は歴然であろう。
ただわずか17歳との年齢故に、私は老婆心ながら今後のマララさんの行く末を案じざるを得ない。
もしも欧米価値観に依存した受賞だったとすれば、今後マララさんはこの世で如何に活躍するのであろうか?
まさか商業主義に操られる人生をマララさんが欲さない事に、期待したいものだが。
大変失礼ではあるが、現在のマララさんの写真を見て私の脳裏に浮かんだフレーズがこれだ。
まるで「4,50台のおばさん」の風貌だ。 いや、むしろ「ノーベル平和賞」を狙うためには、(よく言えば)この“貫録”を故意に演出せねばならなかったのかもしれない。
もちろん、マララさんが生まれ育った過酷な環境を私も十分に理解出来ている。
ただ、やはり今回のノーベル平和賞受賞は、欧米の価値観により“仕組まれた劇場ドラマ”であった感が否めない。
それではここで、マララさんが歩んだ17歳までの半生(1/5生と言うべきか)を、ウィキペディア情報を参照しつつ少し振り返ってみよう。(敬称略)
マララ・ユサフザイ(1997年7月12日 生 )は、パキスタン出身の女性。 フェミニスト・人権運動家。
スンニ派の家庭に生まれる。 父親は地元で女子学校の経営をしており、マララは彼の影響を受けて学校に通っていた。 2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)が一家が住むスワート渓谷の行政を掌握すると恐怖政治を開始し、特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、命を狙うような状況になった。 2009年、11歳の時にTTPの支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBC放送の依頼でブログにペンネームで投稿してターリバーンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、欧米から注目された。
2009年、TTPがパキスタン軍の大規模な軍事作戦によってスワート渓谷から追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表し、「勇気ある少女」として表彰した。 その後、パキスタン政府主催の講演会にも出席し、女性の権利などについて語っていたが、この事によってTTPから命を狙われる存在となる。
2012年10月9日、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。
奇跡的に回復後、2013年1月3日に約2カ月半ぶりに退院した。家族とともにイギリス国内の仮の住まいでリハビリをしながら通院を続け、2月2日に再手術を受けた。
2013年1月9日、シモーヌ・ド・ボーボワール賞(英語版)を受賞。 同年7月12日、国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。国連は、マララの誕生日である7月12日をマララ・デー(英語版)と名付けた。また、同年10月10日にはサハロフ賞を受賞した。
2013年10月13日、容疑者とみられる5人が逮捕された。 2013年11月10日、ホワイトハウスでオバマ大統領一家と会談。
そして2014年10月、「ノーベル平和賞」受賞。
(以上、ウィキペディア情報の一部を引用要約。)
次に、「ノーベル賞」受賞直後のマララさんの談話を10月11日付朝日新聞より引用しよう。
「この賞を与えられてとても光栄。私一人に与えられたものではなく、声を聞かれるべき子供達すべてに対するものだ」 共同受賞が決まったインドのサティヤルティさんと電話で話した後、「これは始まりにすぎない。私はすべての子供に学校へ行って欲しい。」「パキスタンでは、私には黙って殺されるか、発言して殺されるかしか選択肢がなかった。だから私は立ち上がって殺されようと思った」と、イスラム過激派の武装勢力タリバーンと対峙した時の自らの決意の固さを説明した。
(以上、朝日新聞記事より一部を要約引用。)
引き続き、朝日新聞記事よりノーベル賞委員会委員長の談話を紹介する。
ノルウェーのノーベル賞委員長ヤーグラン氏は、朝日新聞よりのインタビューに応じ、今年の平和賞授与の狙いに関してこう語った。「世界中の若者に希望を与える事に、焦点を当てたかった」 「その最善の方法は、学校に通う権利を与える事だ」と指摘。 インドとパキスタンについては「両国は長年紛争を抱えている」と指摘し、「子供の労働問題や教育を受ける権利のためにベテランのサティヤルティさんが長年取り組んできた活動に、若きマララさんが光を当て推進した」と話した。
(参考だが、ヤーグラン氏は、今回「憲法9条」護憲の日本国民の動きに関しても平和賞検討対象だった事を認め、真剣に検討した。との事だ。)
(以上、同じく朝日新聞記事より一部を要約引用。)
更には、今回のマララさん平和賞受賞への各国からの賛否両論意見を朝日新聞記事より紹介しよう。
国連バンギムン事務総長は、「彼女は一本のペンが世界を変える事ができると述べ、一人の若い女性が模範を示せる事を証明した。国連は彼女と共に過激主義に立ち向かい、暴力から逃れ、学校に通い学ぶ権利を享受するという全ての少女の権利を擁護し続ける」と宣言した。 マララさんが現在暮らす英国ブラウン前首相は、「彼女の教育ビジョンや勇気、決意は平和賞に値する」とのコメントを発表した。
ただ、パキスタンでは冷めた意見も根強い。 外務省幹部は「なぜマララだけが注目されるのか。米国の無人機巻き添えで亡くなった数多くの子供達に世界はなぜ目をつむるのか」と指摘する。 インターネット上の書き込みにも「マララは欧米の操り人形だ」「かつて平和賞を受賞したオバマ大統領と同類だ」など、批判的な見方が圧倒的だ。
米軍による対テロ戦のあおりで、治安が悪化した隣国アフガニスタンなどでは欧米に対する反感が根強い。 ノーベル平和賞に「欧米価値観の押しつけ」を感じる世論を反映したものとみられる。
(以上も、同じく朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
最後に、原左都子の私論で締めくくろう。
マララさんが生まれ持った「不運」と「幸運」が私の脳裏に入り混じる。
戦闘下にある国家に生まれ出るを得なかった事実は確かに不運であろうが、マララさんは家庭環境には恵まれていたようだ。 学校を経営する父親の下、教育の素晴らしさを幼い頃より体得可能だった環境下に育ったマララさんは幸運だったと言えよう。
それを自らの武器とするマララさんが、イスラム過激派の標的となったのも“運命のいたずら”範疇かもしれない。
マララさんが今まで歩んで来た17年間の人生の中で一番評価されるべきは、襲撃を受けた後(先進国医療のバックアップに恵まれた事は事実であろうが)未だ10代半ばにして恐らく“うつろな脳裏で”「自分はパキスタンの子供を救うべく生き延びよう!」との決意の下、奇跡的に回復した事実であろう。 その類稀な“意気込み”に関しては私も大いに評価対象としたいものだ。
ところがその後マララさんとは今尚、英国バーミンガムに居住しているとの報道だ。 それもそのはず、今現在自国であるパキスタンに帰国したとて、タリバーンの襲撃を受けかねない事を配慮しての措置であろう。
ただそうした場合、マララさんの教育理念とは“机上の空論”に過ぎないと表現されても致し方ないのではなかろうか。 教育とは、まさに現場で子供と親身に向き合ってこそ成就が叶う対象現象でしかないのだ。
その意味で、インドのサティヤルティさんの国内行動は直に「ノーベル平和賞」に結びついたと言えるのではあるまいか。
未だ17歳のマララさんが「ノーベル平和賞」を受賞しても、恐らく世界中の誰もが困らない事は歴然であろう。
ただわずか17歳との年齢故に、私は老婆心ながら今後のマララさんの行く末を案じざるを得ない。
もしも欧米価値観に依存した受賞だったとすれば、今後マララさんはこの世で如何に活躍するのであろうか?
まさか商業主義に操られる人生をマララさんが欲さない事に、期待したいものだが。