原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「会話はごえんりょ下さい」カフェで一息つきたいな

2013年05月13日 | 人間関係
 当「原左都子エッセイ集」において勝手なオピニオンを“言いたい放題”発信し続けている私であるが、ネットを離れた現実社会においては、以外や以外“聞き上手”であると自己分析している事に関しては、2009年11月バックナンバー 「“聞き上手”の言い分」 に於いて既に公開している。


 最近とみに、我が持ち前の“聞き上手”キャラを発揮する機会が多い。

 それは、年老いた実母と義母(特に義母の場合保証人代行を任されている)の相手を一手に引き受けているのが一番の理由である。
 お年寄り対応とは特に相手が女性である場合、何を優先してもまず話を聞いてあげる事が一番の奉仕とわきまえている。 実母や義母が何を言い出そうが、とにかくそれに耳を傾けて喋りたいだけ喋らせてあげるべきと心得つつ、相槌を打つのが現在の私の業とも言える。

 実母の場合は血縁であるが故に多少事情が異なるものの、やはり基本は上記のごとくである。
 最近の実母の最大の関心事とは、母にとって孫に当たる米国に住む姉のハーフの息子(現在15歳の成長盛り)に関してなのだ。 何分異国に住む孫であるため滅多に会えない故に母の思いが募っている事は理解できるが、これが相当しつこい。 米国の甥は(ハーフ故に?)容姿端麗、高身長(現在183cmでまだまだ伸び盛り!)しかも頭脳明晰かつスポーツ万能、等々… 最近の母からの電話はそればかりを何度も繰り返し私に伝えるのだ。  娘を仮死状態で産まざるを得ず、日々「お抱え家庭教師」として力の及ぶ限り頑張って来ている私に対する配慮心のひとかけらもない。(参考のため、米国の姉は44歳初産にして至って健康な男児を普通分娩で出産した。)
 それでも私は実母にこう返答してやっている。 「あなたが今後米国に渡るのは身体的事情面で既に不可能だろうが、米国の○○くん(実母の孫)が大学生になった暁に日本のお婆ちゃんのあなたに会いに向こうから来日してもらうといいよ。 その時には私が通訳係を担当してもいいよ。」 (参考のため、数十年前より米国在住の我が姉は自分のポリシーに基づき息子には日本語を一切教育していないのに加えて、二度と日本の地を踏まないとの信念が強靭な徹底した“日本嫌い”である。)  実母はこの我が発言に大いに活気付き、近い将来米国の孫が来日する希望を繋いで、今からその気になり長生きを志した様子だ。

 相手が義母の場合、当然ながら私の“聞き上手”の対応は大幅に異なる。
 何はともあれ全面的に我が心情を押さえ、義母の話を一身に聞いてあげるのが一番の心得である。 この私の徹底した“聞き上手”対応が功を奏しているのか、義母が住むケアマンションをいつ何時訪れようと私の顔をみるなりニコニコしてくれる事が、現在の私にとって大いなる救いでもある。  最近はよく自宅にも電話をかけて来る義母であるが、それに際しても、とにかく義母が言いたい事をとことん聞く事に専念している。  実母ほどに口数が多くない義母の話を聞く業は私にとってさほどの労力でもない。  しかも義母の場合、その“ご褒美”が凄いのだ。(不謹慎な話だが「お世話になります」などと言いつつ、あくまでも孫の教育費の名目だが“札束”をポンと手渡してくれたりもするしね…


 そもそも私が如何なる人生のバックグラウンドを経て“聞き上手”として成長を遂げたのかに関して、冒頭の我が2009年バックナンバー「“聞き上手”の言い分」から一部を紹介しよう。 
 例えば職場において上司の立場となったり外部交渉の業務を経験することは、まだ若かりし私にとって“聞き上手”のノウハウを習得するにはまたとはない修行の場だったものだ。
 あるいは学校の教員経験など、生徒の話の“聞き上手”であることが生徒指導の第一歩であるとも言える。
 子を持つ母となって以降は、これぞ“聞き上手”の力量発揮の舞台である。 子どもがまだ物心付かない頃に、人間特有に備わっている“話す”という能力を徐々に発揮し始める子どもが発するたどたどしい言語に耳を傾け反応することは、日々その子をじかに育てる母でしか享受できない至福の時間であろう。 既に高校生に成長している我が子の「日課報告」を毎日聞きつつ、親子で笑い転げたり、ある時は子の苦悩に耳を傾け親子で対策を練る貴重な時間も、出来ればずっと末長く子どもと共有し続けたい一時である。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2009年バックナンバーより一部を引用)
 

 片や、私が“聞き上手”であらねばならぬ場面でないにもかかわらず、くだらない話をくっちゃべり続ける“単細胞人間”が、今の時代老若男女にかかわらず何とまあ多い実態なのであろうか。 
 場をわきまえられずに、どなたも自分の事を話す事には熱心であられるようだ。 この現象とは早い話が、自分とそれに利害関係のある周辺にしか興味がなく狭い視野しか持てず、自己中心の閉鎖空間で生きる国民が増殖している現状と表現できるのであろう。

 つい先だって当エッセイ集で紹介した、某バレエ団公演の座席で開演直前まで自分勝手に盛り上がっていた「ママ友グループ」の会話内容も、“自己中心の閉鎖空間”で生きている証の負の所産なのであろうと考察する。
 このバレエ公演座席のごとく、公共の場であるにもかかわらず自分勝手な話で盛り上がっている連中達の“くっちゃべり現象”の「客観性の無さ」とは、もはや立派な「公害」と位置付けたい思いでもある。


 このように“自分勝手な会話”が世に氾濫している事態を嘆かわしく思っていたところ、朝日新聞5月8日「東京版」ページにおいて興味深い記事を発見した。
 題して、「会話はごえんりょ下さい」

 当該記事内容の一部を以下に要約して紹介しよう。
 おしゃべりのない、おひとり様専用の喫茶店が文京区千駄木にある。 注文や会計時の小声以外は話し声も笑い声もない。 経営者氏の心理に「一人で過ごすお客さんを大切にしたい」との思いが募った。 特に友達同士らしい団体客には「別々の席になるので、会話は不向きです」と伝えるようにしている。

 「おこもり系」の居酒屋に出かける機会がある私だが、いくら「おこもり系」とて完全個室でない限り周囲の顧客集団の会話を聞かされざるを得ないのが現状である。
 つい先だっても居酒屋を訪れた際に一応「おこもり系」座席を指定したものの、結局隣席が入って以降は自分達の会話を続行する事を遠慮する目的で、さっさと居酒屋から退散する結果となった。

 その点、上記朝日新聞で紹介されている「会話はごえんりょ下さい」喫茶店は、とことん“おひとり様”に配慮出来ているカフェであると評価申し上げたいのだ。
 この種のカフェや居酒屋が増える傾向にあるのならば、既に還暦近い私もそこを拠点として一息つきたい思いである。

 もちろん今後共私なりの人間関係を大事にしたいのは当然である。
 それはそうとして、よき人間関係を築きそれを続行する基本として 「ひとりの充実した時間」 を過ごせる事こそがそのエネルギーの根源であり、貴重なひと時である事には絶対間違いない。

 今後私は更に年齢を重ね老齢に入る運命にあるが、年老いた自分が如何に有意義に“ひとりの時間”を過ごすのかとの命題こそを再認識できた思いでもある。
 そんな思いを巡らせてもらえた今回の朝日新聞「会話はごえんりょ下さい」喫茶店の記事でもあった。