昨夜、集合住宅上階に自宅が位置する住居前道路の四つ角で交通事故が発生した。
原左都子が現在の住居地に転居して既に10年余の年月が流れているが、上階の我が家からの視界にある四つ角で交通事故を目撃するのはこれがなんと!3度目だ。
現場の道路状況を説明すると、我が住戸の南側に片側一車線の道路がある。町内のメインストリートとも言える道路ではあるが、そもそも住宅地域の道路であり普段車の通行量は少ない。 我が家の東側にその“町内メインストリート”を横切る小路があるが、この道路に関しては車も人もほとんど通行していないと表現しても差し支えない。 このように普段より通行量が少ない交差点であるため信号機が設置されておらず、おそらく今後も設置されることはないであろう。
私が数年前に初めて目撃したのは、車とバイクが衝突した事故だった。
幸いバイク運行者側の負傷の程が軽度だった様子で、事故直後に双方が話し合って解決したようだ。 当時は朝早い時間帯で、偶然住宅上階の窓から我が子の登校の様子を見守っていてこの事故を目撃した私は、警察なり救急車なりを手配するべきか!?と一瞬考えた。 この小規模事故を目撃したのはおそらく私のみであろう。 私の判断で公的機関に一報を入れれば、必ずや大音量を立てつつパトカーなり救急車なりが到着する事が想像可能だ。 そうした場合、事が大袈裟になるのは目に見えている。 バイク運行者側の負傷は一見軽いようだし、車運転手との話し合いも双方で決着した様子でもあるのに、ここで部外者の私が事を荒立てても…… なる思いが我が脳裏に過ぎり、公的機関への一報は避ける判断を下した。
ただその後、バイクに乗っていた女性の“後遺症”ばかりが我が脳裏に過ぎるのだ。あの若き女性はもしかして後々“鞭打ち症”で人生を台無しにするのかも… 私が目撃した限りでは当該事故は車側の過失である事は絶対間違いなかった。 であるのに何故私は事故の第一目撃者として緊急一報を入れなかったのだろう?? 等々と、後々まで後悔心を引きずっている。
2度目の事故に関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーにて既に公開済みだが、ここで再度記述しよう。
休日昼間の午後1時前頃、上記の交差点から“バ~~ン!!”とでも表現しようか、物凄い騒音が高層に位置する我が家にまで響いてきた! 咄嗟に何かが爆発したのか、あるいはガス事故か等と怯えつつベランダに出たら、自転車と共に小学生の少女が道路脇に横たわっていた! どうやら道路に飛び出た自転車少女がメインストリート通行中の車と接触したようだ。 休日だった事が幸いし、歩行通行人が現場に数多く集まり誰かが既に救急車を手配した様子だ。 幸い女子児童の意識は明瞭だった様子でその後救急車で病院に運ばれるに至った。
さてさて、いよいよ昨夜の交通事故に話を進めよう。
昨夜家族と夕食中に、当該交差点付近からまたもや異常な大音量が上階の我が家まで響いてきたのだ。
ただ私が過去に経験した上記女子児童交通事故の際よりも音量が小さかったため、(交通事故とは違うかなあ?)なる感覚を抱いた。 ところが、この異常大音量を初めて経験する身内と娘が急いでベランダに出て、幼き男児が車にはねられた様子だ!と切羽詰って私に伝えるではないか! それにつられ上層階のベランダから音源を探ると、男児と共に自転車が横に倒れている。 やはり男児が自転車でメインストリートに出ようとして、車にはねられた様子が一目瞭然の交通事故現場である。 幸い男児の怪我は大した事は無かったようで、その後相当時間が経過した後に救急車で病院に運ばれて行った。
ここで、車にも自転車にも依存しない人生を歩んでいる原左都子の私論を展開しよう。
現在、私がひたすら徒歩と公的交通機関のみに頼って世の中を移動する生き方を全うしている事に関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて再三公開してきている。
まず何故車に乗るのをやめたのかと言うと、環境保護に配慮して、…などとの優等生的表現は嫌みったらしくて天邪鬼の私は好まないが、確かにそれも理由のひとつである。 正直なところ、私が車に乗らない理由の第一は運転が嫌いなためである。 加えて交通弱者である歩行者への配慮の観点からも、車の利用は控えるべきと常々考えている。
私は現在自転車にも乗らないが、こちらは確固としたポリシーがあってのことである。
自転車を安全に乗るためには服装や履物が限定される。 若かりし頃から、ファッションを移動の一手段である自転車に合わせるというような、そういう馬鹿げた“制約”が受け入れ難い性分でもある。 更には、日頃より放置自転車には辟易としているのも自転車に乗らない一つの大きな理由だ。
自転車は走行上のマナー面での問題も大きい。 現在は自転車事故多発の現状を受け、警視庁は全国規模で自転車専用道を整備したり、自転車走行者のマナー改善に向けて指導を実施している様子ではある。
このように自転車走行に関する規制が充実しつつある現在だ。 ところが残念ながら、まだまだ人間の性として“スピードが速い方が偉いんだぞ!”とでも無意識に思ってしまうその“勘違い心理”を自転車走行者から見透かせてしまえるが故に、その歪んだ心理状態こそが自転車事故を引き起こしているような感覚も持つ。
最後に原左都子の私論でまとめよう。
“自転車には一生乗らない派”の私の感覚では、昨年警視庁が呈示した「自転車講習会」義務化に関しても、その講習会とやらをクリアさえすれば(例えば“悪徳自転車走行者”とて)、これまで同様に自転車に自由に乗れることを前提とした提案でしかないとの感覚を抱かされる。
私が自転車に乗らなくなって既に10年以上の年月が経過し、今となっては自転車無し生活の魅力を堪能しているのだが、一般市民の皆さんにとってはそれ程に自転車とは魅力的なのか??
それにしても、可愛い我が子に一般道を単独で自転車走行を許可する年齢に関する親の判断が甘過ぎるのではないかと、私は常々懸念している。
少し前に、母子共に自転車にて青信号道路を横断中に、母の後ろを走っていた幼き女児がトレーラーの下敷きになって死亡した事故に関する報道があった。 (子どもを失ったお母様には大変申し訳ないのだが)原左都子の感想としては、何故母が一緒にいながら、幼き娘を見守るべく母こそが娘の後ろを走ってやれなかったのかとの無念の思いしか抱けない……
ましてや、幼き我が子に単独で一般道を自転車走行させる場合、相当の道路教育を家庭内で施して後にするべきである。
我が自宅から何度も同じような事故を目撃して、原左都子が感じるのはその歪みに尽きる思いだ。
原左都子が現在の住居地に転居して既に10年余の年月が流れているが、上階の我が家からの視界にある四つ角で交通事故を目撃するのはこれがなんと!3度目だ。
現場の道路状況を説明すると、我が住戸の南側に片側一車線の道路がある。町内のメインストリートとも言える道路ではあるが、そもそも住宅地域の道路であり普段車の通行量は少ない。 我が家の東側にその“町内メインストリート”を横切る小路があるが、この道路に関しては車も人もほとんど通行していないと表現しても差し支えない。 このように普段より通行量が少ない交差点であるため信号機が設置されておらず、おそらく今後も設置されることはないであろう。
私が数年前に初めて目撃したのは、車とバイクが衝突した事故だった。
幸いバイク運行者側の負傷の程が軽度だった様子で、事故直後に双方が話し合って解決したようだ。 当時は朝早い時間帯で、偶然住宅上階の窓から我が子の登校の様子を見守っていてこの事故を目撃した私は、警察なり救急車なりを手配するべきか!?と一瞬考えた。 この小規模事故を目撃したのはおそらく私のみであろう。 私の判断で公的機関に一報を入れれば、必ずや大音量を立てつつパトカーなり救急車なりが到着する事が想像可能だ。 そうした場合、事が大袈裟になるのは目に見えている。 バイク運行者側の負傷は一見軽いようだし、車運転手との話し合いも双方で決着した様子でもあるのに、ここで部外者の私が事を荒立てても…… なる思いが我が脳裏に過ぎり、公的機関への一報は避ける判断を下した。
ただその後、バイクに乗っていた女性の“後遺症”ばかりが我が脳裏に過ぎるのだ。あの若き女性はもしかして後々“鞭打ち症”で人生を台無しにするのかも… 私が目撃した限りでは当該事故は車側の過失である事は絶対間違いなかった。 であるのに何故私は事故の第一目撃者として緊急一報を入れなかったのだろう?? 等々と、後々まで後悔心を引きずっている。
2度目の事故に関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーにて既に公開済みだが、ここで再度記述しよう。
休日昼間の午後1時前頃、上記の交差点から“バ~~ン!!”とでも表現しようか、物凄い騒音が高層に位置する我が家にまで響いてきた! 咄嗟に何かが爆発したのか、あるいはガス事故か等と怯えつつベランダに出たら、自転車と共に小学生の少女が道路脇に横たわっていた! どうやら道路に飛び出た自転車少女がメインストリート通行中の車と接触したようだ。 休日だった事が幸いし、歩行通行人が現場に数多く集まり誰かが既に救急車を手配した様子だ。 幸い女子児童の意識は明瞭だった様子でその後救急車で病院に運ばれるに至った。
さてさて、いよいよ昨夜の交通事故に話を進めよう。
昨夜家族と夕食中に、当該交差点付近からまたもや異常な大音量が上階の我が家まで響いてきたのだ。
ただ私が過去に経験した上記女子児童交通事故の際よりも音量が小さかったため、(交通事故とは違うかなあ?)なる感覚を抱いた。 ところが、この異常大音量を初めて経験する身内と娘が急いでベランダに出て、幼き男児が車にはねられた様子だ!と切羽詰って私に伝えるではないか! それにつられ上層階のベランダから音源を探ると、男児と共に自転車が横に倒れている。 やはり男児が自転車でメインストリートに出ようとして、車にはねられた様子が一目瞭然の交通事故現場である。 幸い男児の怪我は大した事は無かったようで、その後相当時間が経過した後に救急車で病院に運ばれて行った。
ここで、車にも自転車にも依存しない人生を歩んでいる原左都子の私論を展開しよう。
現在、私がひたすら徒歩と公的交通機関のみに頼って世の中を移動する生き方を全うしている事に関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて再三公開してきている。
まず何故車に乗るのをやめたのかと言うと、環境保護に配慮して、…などとの優等生的表現は嫌みったらしくて天邪鬼の私は好まないが、確かにそれも理由のひとつである。 正直なところ、私が車に乗らない理由の第一は運転が嫌いなためである。 加えて交通弱者である歩行者への配慮の観点からも、車の利用は控えるべきと常々考えている。
私は現在自転車にも乗らないが、こちらは確固としたポリシーがあってのことである。
自転車を安全に乗るためには服装や履物が限定される。 若かりし頃から、ファッションを移動の一手段である自転車に合わせるというような、そういう馬鹿げた“制約”が受け入れ難い性分でもある。 更には、日頃より放置自転車には辟易としているのも自転車に乗らない一つの大きな理由だ。
自転車は走行上のマナー面での問題も大きい。 現在は自転車事故多発の現状を受け、警視庁は全国規模で自転車専用道を整備したり、自転車走行者のマナー改善に向けて指導を実施している様子ではある。
このように自転車走行に関する規制が充実しつつある現在だ。 ところが残念ながら、まだまだ人間の性として“スピードが速い方が偉いんだぞ!”とでも無意識に思ってしまうその“勘違い心理”を自転車走行者から見透かせてしまえるが故に、その歪んだ心理状態こそが自転車事故を引き起こしているような感覚も持つ。
最後に原左都子の私論でまとめよう。
“自転車には一生乗らない派”の私の感覚では、昨年警視庁が呈示した「自転車講習会」義務化に関しても、その講習会とやらをクリアさえすれば(例えば“悪徳自転車走行者”とて)、これまで同様に自転車に自由に乗れることを前提とした提案でしかないとの感覚を抱かされる。
私が自転車に乗らなくなって既に10年以上の年月が経過し、今となっては自転車無し生活の魅力を堪能しているのだが、一般市民の皆さんにとってはそれ程に自転車とは魅力的なのか??
それにしても、可愛い我が子に一般道を単独で自転車走行を許可する年齢に関する親の判断が甘過ぎるのではないかと、私は常々懸念している。
少し前に、母子共に自転車にて青信号道路を横断中に、母の後ろを走っていた幼き女児がトレーラーの下敷きになって死亡した事故に関する報道があった。 (子どもを失ったお母様には大変申し訳ないのだが)原左都子の感想としては、何故母が一緒にいながら、幼き娘を見守るべく母こそが娘の後ろを走ってやれなかったのかとの無念の思いしか抱けない……
ましてや、幼き我が子に単独で一般道を自転車走行させる場合、相当の道路教育を家庭内で施して後にするべきである。
我が自宅から何度も同じような事故を目撃して、原左都子が感じるのはその歪みに尽きる思いだ。