原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

芸術鑑賞の正しいあり方

2011年11月24日 | 芸術
 ここのところ朝日新聞「声」欄において、美術館等芸術鑑賞の場でのマナーに関する議論が交錯している。

 原左都子にも素人にして芸術鑑賞の趣味があるため、この「声」欄読者の議論の交錯を興味深く注視してきた。


 上記朝日新聞「声」欄に於いて一番最初に掲載された読者の投稿とは “美術館では静粛にするべき” との見解であったと記憶している。
 残念なことにその新聞スクラップを誤って廃棄処分としてしまったのかどうしても見つからないため、我が記憶に頼ってその投稿の内容を以下に紹介することにしよう。
 美術館等芸術鑑賞空間に於いて、掲示作品の前で声高く個人的な批評を展開する入場者には辟易とさせられる。 出来れば小声で会話をして欲しい。  加えて、美術館内で大きな靴跡を立てて移動する鑑賞者の存在もいかがなものか。 ましてや、美術館の係員がハイヒール等の靴跡を高々と響かせつつ館内を見回る風景にはうんざりだ。

 この投稿に大いに賛同した私である。
 事実、上記のごとく非常識行為に遭遇することが私にも少なからずある。 故に私は芸術観賞とは“混雑していない”時に行くのが鉄則だと本エッセイ集に於いて訴え続けているのだが、大都会に暮らしているとそうもいかないのが実情だ。

 相当昔の話なるが、2005年に東京上野の東京都美術館に於いて「プーシキン美術館展」が開催された。 芸術素人の私が好んでいる アンリ・マチス の傑作と言われる大作「金魚」を一目観賞したく、混雑は承知の上で出かけた。
 平日であるにもかかわらず東京都の宣伝効果もあって、入場制限措置が取られる程のそれはそれは予想以上の大混雑状態だったものだ。 
 それだけでも耐え難いのに、平日故かお年寄りの鑑賞者が多い中、ある年配女性が私の背後でかなり大きな声で身勝手な芸術論を展開し始めるではないか。「マチスって芸術力では評価されてないよね。“色の魔術師”と言われているが、単にドギツイ色彩を使って幼稚な絵ばかり描いて何故か認められた作家だよね」……
 マチスに関しては一部でその種の否定的見解が存在する事は私も心得ているが、それを好む人間もいるというのが人の感性の多様性であり、芸術の世界というものじゃないのか? と反論したい思いだったものだ。

 美術館に於いてこの種の自分勝手な“能書き”を垂れる鑑賞者は少なくないが、これを端で聞かされる身としては実に鬱陶しく興醒めである。

 
 その後上記の「声」欄の投書を受けて、美術館での会話も時と場合によっては許されるべきとの反論を展開した投書が何通か掲載された。
 これら反論は、海外の美術館での体験を通して感じた意見が目立った。
 投書の一つは、イタリアフィレンチェの美術館に於いて孫らしき子どもに楽しそうに絵を説明している男性の姿が印象的だった、との事例を挙げている。 片や投書者自身は国内美術館において小声で会話した時に係員より高飛車に注意され観賞熱が覚めた経験があり、美術鑑賞とは四角四面に肩ひじ張ってするものなのか? と疑問を呈する内容であった。
 もう一つもドイツの美術館にて絵の前で熱い討論を続ける女子大生達に対し、学芸員が端でニコニコと眺めていた事例が紹介されている。 それを受けて、美術作品の観賞とは心の中に何かが生まれることであり、特に子ども達には絵を見て率直に感想を言い合う経験が必要と述べている。

 私事に入るが、海外に於ける芸術鑑賞と言えばこの私もフランスパリのルーブル美術館や、エジプトカイロの国立博物館、アレキサンドリア博物館、ギリシャアテネの国立博物館、韓国ソウルの国立博物館、アジアアートフェア等々… を経験している。
 アートフェアは別として、これらのメジャー大規模施設とは芸術鑑賞の場というより、もはや観光スポットと言うべきであろう。 芸術観賞マナーへったくれよりも世界中の旅行者が物見遊山で訪れる場であり、例えばそこで「モナリザを見たよ」「ツタンカーメンを見てきたよ!」と帰国後周囲に吹聴することに意義があるといえよう。 (参考のため、ソウルの国立博物館は決してそうではなく展示物の分野が多岐に及び“芸術鑑賞の場”として十分楽しめた。)

 上記の「声」欄の投書内で紹介されている海外の美術館は、おそらくその種の大規模施設ではないのであろう。 
 ただ、それら鑑賞者の会話は“外国語”で行われていたものと推測する。 意味不明の言葉とはたとえそれが大音声であろうが、単なる雑音の範疇と解されるのではなかろうか。 それ故に投書者には好意的に捉えられたように思われる。 これが日本語で展開されていたとすれば、私のマチスの例のように周囲の鑑賞者に何らかの不快感をもたらす要素もあったのではないだろうか?


 昨日、私は娘と共に東京六本木赤坂界隈に位置する「泉屋博古館分館」及び「大倉集古館」を訪れた。
 泉屋博古館に於いては「住友春翠と茶」と題して住友コレクションの茶道具と香道具類等が展示され、大倉集古館では「移り変わる文様の世界」と題して文様が施された宮廷の装束や調度工芸品等が展示公開されていた。
 両美術館共に普段より風格ある落ち着いた趣が特徴なのだが、昨日は祝日だった事と今回の企画展示のテーマによると思われるが、珍しくも女性年配鑑賞者グループで混雑していた。 こうなると、必然的に風格ある美術館内に“お喋り声”が響く運命と相成る。

 静粛であって欲しい美術館も、ある程度の鑑賞者が集まるとどうしても人の会話は避けられない。 その中でも“ヒソヒソ会話”はさほど気にならないものだ。 音声が小さいと自ずとその会話の内容までは聞き取れないのに加えて、配慮心が周囲へ伝わるからであろう。
 あるいは、「わあ、きれい!」だとか「これ好みだわ」等自然に発する肯定的な感嘆詞も私には受け入れ可能である。

 それに対して、やはり作品の前で大声で能書きを垂れるのだけは勘弁して欲しいものだ。 何もあなたの信憑性の低い中途半端な能書きを聞かされずとて、館内には解説書が掲示されている。 今時ネット情報もごまんとあり、正確な情報を得る手段には事欠かない。
 私など一度耳にした情報が頭にこびりつき易い人間であるのか、その信憑性のない“能書き”が意に反していつまでも記憶に残ってしまうところが実に迷惑なのだ。


 芸術鑑賞会場に於ける会話を全面的に否定する訳ではないが、どうか“ヒソヒソ声”で会話を楽しんでいただきたいものである。