本エッセイ集前回の記事に於いて、我が娘が大学の推薦入試に挑んだ話題に触れた。
入学試験や就職試験の面接に際して、受験者は初対面である面接官に「感じが悪い」印象を持たれるよりも「感じよく」接するに越した事はない。
そこで、口数が少なくややもすると“暗い人間”と誤解され易い我が娘に対し、面接内容以前の問題として姿勢を正してまっすぐ前を見て話すよう指導したものである。
“あの人は感じがいい” あるいは “感じの悪い奴だなあ” ……
これらは特に初対面の人間同士の関係においてよく発せられる言葉であるが、“自分自身が人に与える表向きの一見の評価”にしか過ぎない上記のような印象とは、その後人間関係が進展するにつれ直ぐに忘れ去られるものではなかろうか。
それに対し、11月5日の朝日新聞“悩みのるつぼ”には、上記のような初対面の関係ではなく母親から「感じが悪い」と指摘された女子大学生よりの相談が掲載されていた。
早速、その相談内容を以下に要約して紹介しよう。
22歳の大学生女子だが、最近母から「あなた、性格が変わったね。感じ悪いわよ。」と言われてしまった。 自分ではそんなに変わったつもりはないが、来春大学院の社会学部に進学する予定の私は、よく物事を深く考えたり分析する癖がある。 母が言うには元々私は細かい事は気にせずさっぱりした性格だったのに、現在は母に対しても何かにつけ理屈っぽく反論しているとのことだ。 この先、大学院へ進学してより論理的に物事を考えたり激しい討論などを重ねるうち、理屈っぽさがエスカレートしてしまうのではないかと不安だ。 我が人生の目的は、「感じがよく、利他愛に富んだ」精神を持つ人になる事だが、どうしたら「感じの悪い」理屈っぽさから抜け出して目標へ近づくことができるだろうか?
早速、原左都子の私論に入ろう。
何ともまあ自己矛盾だらけの相談内容との第一印象だが、22歳の大学生というバックグラウンドを考慮した場合、やむを得ない話であろう。
同じく幼少の頃より物事を深く考え分析する癖がある原左都子であるが、そんな私が真っ先に思い浮かんだ回答とは、 「22歳ともなればとっとと家を出て独立した立場で大学院に進学して、母親の干渉などない場で自分の専門分野の学問に励み思う存分理屈っぽさを堪能すればいいじゃないか」である。
そうではなく、この女子大生は今後も生まれ育った家に留まり親の経済力の下に大学院へ進学して学問に励む魂胆なのであろう。 既に成人した暁にそのような(恵まれた)行動を取りたい場合には、スポンサーである親に対する気兼ねも当然ながら必要となるはずだ。 家庭内で母の知らない世界の学問を突然持ち出し屁理屈を前面に出して立ち向かったならば、確かに母側も「あなたは感じが悪くなった」とつつきたくもなるというものだろう。
片や、母親側も幼稚と判断できよう。 ここで娘に対し「感じが悪い」なる器量の小さい言葉を持ち出して喧嘩を売らずとて、我が子をたしなめる表現は他にもあったはずだ。
ここで原左都子の私事に入って恐縮だが、私も我が母から「感じが悪い」と指摘された経験がある。
それは私が結婚(晩婚であったが)後1、2年経過した後のことである。 遠方に住む我が母とは電話で交信する場合が多いのだが、ある時母が私にこう言った。 「あなたは結婚後“いいとこの奥さんぶって感じが悪い。”」
いやはや驚かされたものだ。 それを母から言われた当時の私は既に40歳前後の年齢に達し生まれ持って事情のある娘を抱え悪戦苦闘していた時期である。 それでも嫁ぎ先である義父母(特に義母)との良き関係を築こうと私なりの努力を続け、それが実りつつある過程だった。
おそらく実家の母としては、今まで自分が独占していた遠方の実娘の身近に結婚と共にもう一人の母が出現し、自分から距離を置き始めたような疎外感を感じたのであろうと推測する。 それにしてもいい年した親が娘に対して何ともまあアホな言葉をほざいたものである。
要するに、親子関係と言えども様々な心の葛藤があって当然であろう。
この相談の女子大学生も今後大学院で専門分野の学問を掘り下げると同時に、家庭において日々お世話になる親にも心を配りつつ歩んでいける心の余裕が不可欠と言う事だ。 それを実行することにより、貴方が欲している「利他愛に富んだ」精神を持つことが叶うのではないのか? (原左都子など、還暦を前にしてまだまだ無理そうな話だけど……)
それでは“悩みのるつぼ”今回の回答者であられる社会学者 上野千鶴子氏の回答から、原左都子が同感する部分を要約して紹介しよう。
人生の目的とは「感じが良い」人になること? 誰から見て「感じが良い」と思われたいの? 万人から感じ良く思われるなんてあり得ない。 「感じが良い」とはキャラの問題ではなく(人間)関係の問題。 あなた(相談者)の利他愛とは、ほんとの利他愛ではない。 自分が誰からも感じよく思われたいというならば、それは単なる自己愛。 こんな低レベルの自己愛を捨てなければ本当の利他愛には辿り着けない。 「感じが良い」だけでは決して利他愛など実現できないことを知っていて欲しい。 周囲から変人扱いされ、嫌われる不利益を被ったりしながらも屈せず、原発の危険を唱え続けた人達のような行為を利他愛と呼ぶ。
(ここで話がずれるが、上野氏の回答を受けて原左都子が今現在気になるのは、福島第一原発2号機に於いて先だって発生した“臨界現象”の真相の解明は進んでいるのであろうか?との事である。 あれはさほど騒ぐ程の臨界現象ではなかったとの東電の発表後、細野原発担当大臣はそれを詳細に解明するべきとの国政としての見解を示したと私は捉えているのだが、早期に明確な結論を国民に示して欲しいものである。)
最後に今回の記事のテーマに戻るが、人の感じの良し悪しとは人間関係に於いてさほど重要な事項ではないことは明白である。
そんなことよりも社会学者の上野千鶴子氏が述べられているように、表面的な“自己愛”を超越して真の“利他愛”に到達しようと志す事こそが学者を目指す若い世代の人間の資質として問われる条件であろう。
入学試験や就職試験の面接に際して、受験者は初対面である面接官に「感じが悪い」印象を持たれるよりも「感じよく」接するに越した事はない。
そこで、口数が少なくややもすると“暗い人間”と誤解され易い我が娘に対し、面接内容以前の問題として姿勢を正してまっすぐ前を見て話すよう指導したものである。
“あの人は感じがいい” あるいは “感じの悪い奴だなあ” ……
これらは特に初対面の人間同士の関係においてよく発せられる言葉であるが、“自分自身が人に与える表向きの一見の評価”にしか過ぎない上記のような印象とは、その後人間関係が進展するにつれ直ぐに忘れ去られるものではなかろうか。
それに対し、11月5日の朝日新聞“悩みのるつぼ”には、上記のような初対面の関係ではなく母親から「感じが悪い」と指摘された女子大学生よりの相談が掲載されていた。
早速、その相談内容を以下に要約して紹介しよう。
22歳の大学生女子だが、最近母から「あなた、性格が変わったね。感じ悪いわよ。」と言われてしまった。 自分ではそんなに変わったつもりはないが、来春大学院の社会学部に進学する予定の私は、よく物事を深く考えたり分析する癖がある。 母が言うには元々私は細かい事は気にせずさっぱりした性格だったのに、現在は母に対しても何かにつけ理屈っぽく反論しているとのことだ。 この先、大学院へ進学してより論理的に物事を考えたり激しい討論などを重ねるうち、理屈っぽさがエスカレートしてしまうのではないかと不安だ。 我が人生の目的は、「感じがよく、利他愛に富んだ」精神を持つ人になる事だが、どうしたら「感じの悪い」理屈っぽさから抜け出して目標へ近づくことができるだろうか?
早速、原左都子の私論に入ろう。
何ともまあ自己矛盾だらけの相談内容との第一印象だが、22歳の大学生というバックグラウンドを考慮した場合、やむを得ない話であろう。
同じく幼少の頃より物事を深く考え分析する癖がある原左都子であるが、そんな私が真っ先に思い浮かんだ回答とは、 「22歳ともなればとっとと家を出て独立した立場で大学院に進学して、母親の干渉などない場で自分の専門分野の学問に励み思う存分理屈っぽさを堪能すればいいじゃないか」である。
そうではなく、この女子大生は今後も生まれ育った家に留まり親の経済力の下に大学院へ進学して学問に励む魂胆なのであろう。 既に成人した暁にそのような(恵まれた)行動を取りたい場合には、スポンサーである親に対する気兼ねも当然ながら必要となるはずだ。 家庭内で母の知らない世界の学問を突然持ち出し屁理屈を前面に出して立ち向かったならば、確かに母側も「あなたは感じが悪くなった」とつつきたくもなるというものだろう。
片や、母親側も幼稚と判断できよう。 ここで娘に対し「感じが悪い」なる器量の小さい言葉を持ち出して喧嘩を売らずとて、我が子をたしなめる表現は他にもあったはずだ。
ここで原左都子の私事に入って恐縮だが、私も我が母から「感じが悪い」と指摘された経験がある。
それは私が結婚(晩婚であったが)後1、2年経過した後のことである。 遠方に住む我が母とは電話で交信する場合が多いのだが、ある時母が私にこう言った。 「あなたは結婚後“いいとこの奥さんぶって感じが悪い。”」
いやはや驚かされたものだ。 それを母から言われた当時の私は既に40歳前後の年齢に達し生まれ持って事情のある娘を抱え悪戦苦闘していた時期である。 それでも嫁ぎ先である義父母(特に義母)との良き関係を築こうと私なりの努力を続け、それが実りつつある過程だった。
おそらく実家の母としては、今まで自分が独占していた遠方の実娘の身近に結婚と共にもう一人の母が出現し、自分から距離を置き始めたような疎外感を感じたのであろうと推測する。 それにしてもいい年した親が娘に対して何ともまあアホな言葉をほざいたものである。
要するに、親子関係と言えども様々な心の葛藤があって当然であろう。
この相談の女子大学生も今後大学院で専門分野の学問を掘り下げると同時に、家庭において日々お世話になる親にも心を配りつつ歩んでいける心の余裕が不可欠と言う事だ。 それを実行することにより、貴方が欲している「利他愛に富んだ」精神を持つことが叶うのではないのか? (原左都子など、還暦を前にしてまだまだ無理そうな話だけど……)
それでは“悩みのるつぼ”今回の回答者であられる社会学者 上野千鶴子氏の回答から、原左都子が同感する部分を要約して紹介しよう。
人生の目的とは「感じが良い」人になること? 誰から見て「感じが良い」と思われたいの? 万人から感じ良く思われるなんてあり得ない。 「感じが良い」とはキャラの問題ではなく(人間)関係の問題。 あなた(相談者)の利他愛とは、ほんとの利他愛ではない。 自分が誰からも感じよく思われたいというならば、それは単なる自己愛。 こんな低レベルの自己愛を捨てなければ本当の利他愛には辿り着けない。 「感じが良い」だけでは決して利他愛など実現できないことを知っていて欲しい。 周囲から変人扱いされ、嫌われる不利益を被ったりしながらも屈せず、原発の危険を唱え続けた人達のような行為を利他愛と呼ぶ。
(ここで話がずれるが、上野氏の回答を受けて原左都子が今現在気になるのは、福島第一原発2号機に於いて先だって発生した“臨界現象”の真相の解明は進んでいるのであろうか?との事である。 あれはさほど騒ぐ程の臨界現象ではなかったとの東電の発表後、細野原発担当大臣はそれを詳細に解明するべきとの国政としての見解を示したと私は捉えているのだが、早期に明確な結論を国民に示して欲しいものである。)
最後に今回の記事のテーマに戻るが、人の感じの良し悪しとは人間関係に於いてさほど重要な事項ではないことは明白である。
そんなことよりも社会学者の上野千鶴子氏が述べられているように、表面的な“自己愛”を超越して真の“利他愛”に到達しようと志す事こそが学者を目指す若い世代の人間の資質として問われる条件であろう。