今週一杯で終了するNHKの連続ドラマ「ウェルかめ」の本日(3月22日)の放送の中で、編集者として生きていこうとしている若き主人公が、出版物の“公開性”故にもたらされる編集者が負うべき責任について考慮する場面があった。
(あくまでも原左都子の記憶に頼れば…) 「たとえ一地域限定で無料で配布する小冊子であろうと、編集者にはその公開性に基づく責任がある。」云々… との主人公のセリフに対し、周囲の友人や家族、元編集者仲間が、 「とりあえずは自分なりのメッセージをまとめて記事を作り小冊子を一冊作成してみてはどうか?」等の後ろ盾応援を贈るというような本日のドラマのストーリー展開であった。
上記のドラマにおける若き主人公の悩みは、ネット上で公開されている「ブログ」という情報媒体にも共通する課題であろう。
ある意味では地域限定の出版物よりも、全世界に張り巡らされているネット上における情報公開の方が、その公開範囲が比較対象にならない程に広大であることは事実だ。 また、地域がコミュニティを形作っている構成体であるのと対照的に、ネット世界とは不特定多数の個々人がアクセスできるという異質な特徴もある。
さらに出版物が紙を媒体とした実質的な情報源であるのに対し、ネット上の情報とは時間の経過の影響を受けやすく、また削除機能の存在等により実質性に欠けるという“はかなさ”もその特徴とする情報の媒体なのであろう。
そのようなネットの特質を開設以来心得つつ、情報を公開し続けている我がブログである。
「原左都子エッセイ集」の場合は、ご覧の通り時事等の社会問題に対する“自己のオピニオン”の公開を第一義の趣旨として発信しているのが特徴である。 一方で、現在国民2000万人のブロガーが公開していると推測されるブログがネット上で発信しているその情報の内容は、皆様もご存知の通り多種多様である。
例えば世の物議を醸すべくもないような“穏やかな内容”のブログ(例えば、家族やペットの紹介、小説や写真や絵や料理等のご自身の趣味の公開、等々)に比して、我がオピニオンブログなど“公開性”の持つ意味合いが世の多大な反響を伴うのであろうと、筆者である私は重々認識している。
そのため過去において“公開性”に鑑みた「原左都子エッセイ集」の公開基準に関する私論を、バックナンバー記事において再三公開し続けてきている。 それは我がオピニオンを世に発信することに関して、あくまでも自己の責任において対応しようとの意思を表明したいからに他ならない。
その上で、ブログというネット上における情報発信媒体を最大限有効利用したいがために、「原左都子エッセイ集」においては開設以来コメント欄をオープンにし続け、読者の皆様より頂戴するコメントに全力で返答させていただいてきた。
年月が経過して残念なことにその作業に筆者である私が疲れ果てているのも事実であり、先だっての数本前の記事で、皆様より頂戴した「コメント公開に関する基準」を設けさせていただくことと相成った次第である。
それでも今尚「原左都子エッセイ集」に対する様々なメッセージを(コメント欄以外のルートからも)少なからず頂いている現状である。
ネットを通じてブログにご訪問下さる方々とのお付き合いとは、あくまでもネット上の“言論”の域を超えていないのは否めない事実であろう。
それにもかかわらず、「原左都子エッセイ集」の言論によるオピニオンの範囲を超えて、「私」という人間像を「原左都子エッセイ集」と同一化して勝手に創り上げてメッセージを頂くことも多い現状である。 ただの一度たりとてお会いしたこともなく、ましてや語り合わせて頂いたこともない方々から、私の人格にまで触れるがごとくのメッセージを頂戴するのは、この私とてご勘弁願いたいというのが正直なところである。
一例を挙げると、 “うだうだと文句ばかり垂れてる奴だ” “社会批判ばかりしている人間は嫌いだ” “もっと素直になったらどうか” ……
(うだうだと文句ばかり垂れて日々暮らしていけるはずがないだろが。 人間とは皆本来多面性を持った生き物だよ、と言いたくもなるよなあ。)
皆様のお気持ちも分からなくはない。 この種のメッセージを寄せて下さる方々とは、おそらくネット情報に“癒し”や“心のオアシス”を求めておられるのであろう。
申し訳ないのだが、「原左都子エッセイ集」はその類の要望に応えられるブログではないのかもしれないことを、ここで改めてお詫びしたい思いである。 あしからず…
話を冒頭の話題に戻して、「ウェルかめ」の主人公のごとくの若き世代の女性にとっては、情報の“公開性”の責任よりも、失敗や批判を恐れずにとにかく自己のメッセージを編集者としてまとめて発信してみることがさしあたっての課題となろう。 (その意味でこのドラマの終盤での趣旨は正当と言えよう。)
一方で若くもない私が綴る「原左都子エッセイ集」は、やはり情報の“公開性”の責任を最優先するべきなのは当然の選択肢であると認識する。
ただし“公開性”の責任を最優先した上でも「原左都子エッセイ集」があくまでもオピニオンブログの立場を貫く場合、読者の皆様との多少の“軋轢”は今後も覚悟するべきかもしれない。
ただ、“公開性”の責任と読者への“迎合”は似ているようでまったく異質の存在である。
“軋轢”を耐えて尚、読者への“迎合”は是が非でも回避しなければ、たとえ無名の一庶民が無料で発信しているブログであろうと“自己のオピニオン発信”の真の継続は不可能であると私は心得るのだ。
(あくまでも原左都子の記憶に頼れば…) 「たとえ一地域限定で無料で配布する小冊子であろうと、編集者にはその公開性に基づく責任がある。」云々… との主人公のセリフに対し、周囲の友人や家族、元編集者仲間が、 「とりあえずは自分なりのメッセージをまとめて記事を作り小冊子を一冊作成してみてはどうか?」等の後ろ盾応援を贈るというような本日のドラマのストーリー展開であった。
上記のドラマにおける若き主人公の悩みは、ネット上で公開されている「ブログ」という情報媒体にも共通する課題であろう。
ある意味では地域限定の出版物よりも、全世界に張り巡らされているネット上における情報公開の方が、その公開範囲が比較対象にならない程に広大であることは事実だ。 また、地域がコミュニティを形作っている構成体であるのと対照的に、ネット世界とは不特定多数の個々人がアクセスできるという異質な特徴もある。
さらに出版物が紙を媒体とした実質的な情報源であるのに対し、ネット上の情報とは時間の経過の影響を受けやすく、また削除機能の存在等により実質性に欠けるという“はかなさ”もその特徴とする情報の媒体なのであろう。
そのようなネットの特質を開設以来心得つつ、情報を公開し続けている我がブログである。
「原左都子エッセイ集」の場合は、ご覧の通り時事等の社会問題に対する“自己のオピニオン”の公開を第一義の趣旨として発信しているのが特徴である。 一方で、現在国民2000万人のブロガーが公開していると推測されるブログがネット上で発信しているその情報の内容は、皆様もご存知の通り多種多様である。
例えば世の物議を醸すべくもないような“穏やかな内容”のブログ(例えば、家族やペットの紹介、小説や写真や絵や料理等のご自身の趣味の公開、等々)に比して、我がオピニオンブログなど“公開性”の持つ意味合いが世の多大な反響を伴うのであろうと、筆者である私は重々認識している。
そのため過去において“公開性”に鑑みた「原左都子エッセイ集」の公開基準に関する私論を、バックナンバー記事において再三公開し続けてきている。 それは我がオピニオンを世に発信することに関して、あくまでも自己の責任において対応しようとの意思を表明したいからに他ならない。
その上で、ブログというネット上における情報発信媒体を最大限有効利用したいがために、「原左都子エッセイ集」においては開設以来コメント欄をオープンにし続け、読者の皆様より頂戴するコメントに全力で返答させていただいてきた。
年月が経過して残念なことにその作業に筆者である私が疲れ果てているのも事実であり、先だっての数本前の記事で、皆様より頂戴した「コメント公開に関する基準」を設けさせていただくことと相成った次第である。
それでも今尚「原左都子エッセイ集」に対する様々なメッセージを(コメント欄以外のルートからも)少なからず頂いている現状である。
ネットを通じてブログにご訪問下さる方々とのお付き合いとは、あくまでもネット上の“言論”の域を超えていないのは否めない事実であろう。
それにもかかわらず、「原左都子エッセイ集」の言論によるオピニオンの範囲を超えて、「私」という人間像を「原左都子エッセイ集」と同一化して勝手に創り上げてメッセージを頂くことも多い現状である。 ただの一度たりとてお会いしたこともなく、ましてや語り合わせて頂いたこともない方々から、私の人格にまで触れるがごとくのメッセージを頂戴するのは、この私とてご勘弁願いたいというのが正直なところである。
一例を挙げると、 “うだうだと文句ばかり垂れてる奴だ” “社会批判ばかりしている人間は嫌いだ” “もっと素直になったらどうか” ……
(うだうだと文句ばかり垂れて日々暮らしていけるはずがないだろが。 人間とは皆本来多面性を持った生き物だよ、と言いたくもなるよなあ。)
皆様のお気持ちも分からなくはない。 この種のメッセージを寄せて下さる方々とは、おそらくネット情報に“癒し”や“心のオアシス”を求めておられるのであろう。
申し訳ないのだが、「原左都子エッセイ集」はその類の要望に応えられるブログではないのかもしれないことを、ここで改めてお詫びしたい思いである。 あしからず…
話を冒頭の話題に戻して、「ウェルかめ」の主人公のごとくの若き世代の女性にとっては、情報の“公開性”の責任よりも、失敗や批判を恐れずにとにかく自己のメッセージを編集者としてまとめて発信してみることがさしあたっての課題となろう。 (その意味でこのドラマの終盤での趣旨は正当と言えよう。)
一方で若くもない私が綴る「原左都子エッセイ集」は、やはり情報の“公開性”の責任を最優先するべきなのは当然の選択肢であると認識する。
ただし“公開性”の責任を最優先した上でも「原左都子エッセイ集」があくまでもオピニオンブログの立場を貫く場合、読者の皆様との多少の“軋轢”は今後も覚悟するべきかもしれない。
ただ、“公開性”の責任と読者への“迎合”は似ているようでまったく異質の存在である。
“軋轢”を耐えて尚、読者への“迎合”は是が非でも回避しなければ、たとえ無名の一庶民が無料で発信しているブログであろうと“自己のオピニオン発信”の真の継続は不可能であると私は心得るのだ。