人それぞれの「死生観」の差は大きいのであろう。
それにしても、いつをもって“人の死”とするかについて法的に喧々諤々議論した上で、幼き子どもの命までをもここからが「死」である、と法改正して“線引き”しようとすること自体に、現代社会の歪みを実感させられ戸惑いが隠せない私である。
当ブログで再三述べてきているが、私は病院嫌いであり、薬嫌いであり、健診嫌いである。
一応元医学関係者であるにもかかわらず、なぜそれ程までに“医療”を毛嫌いしているのか不可解に思われる方も多いであろう。 だが、むしろ、元医学関係者であるからこそ、私の“医療嫌い”には(多少の思考的偏りは認めつつも)それなりの確固としたポリシーがあるとも言えるのだ。
まずは、生命体の自然治癒力を信じたい。
現在の医療が「薬」「検査」等の“科学”の力に頼り過ぎているのは否めない事実であろう。 体のどこかに不調を来たすと、現代人は深い思慮なく直ぐに病院へ行ったり薬を買い求めて飲んだりの行動を起こすのが通常である。 その「薬」や「検査」により受ける体内の新たなダメージにまで思いを馳せる人は恐らく少数派であろう。 自然治癒で回復する不調の場合は、科学の力ではなく自らの生命力で治した方が安全性が高いに決まっている。
ただし、通常は自然回復するかどうかの判断が自力ではつきにくいため、念のために病院受診や薬を買う手段に頼らざるを得ないのであろうことは私も想像がつく。 あるいは一時的に症状を抑えたり、とりあえず“痛み”のみを取り除く目的で、副作用等の危険性を覚悟の上で投薬に頼る場合も多いことであろう。
この“医療行為”の究極が「臓器移植」であるように私は捉えている。 この「臓器移植」という医療行為が出現して以降、「脳死問題」が表面化したのは皆さんもご承知の通りである。
「臓器移植」を語る上で、「死生観」観念ははずせない課題であると私は捉える。
当ブログのバックナンバー「健康の基準と死生観」においても記述済みであるが、もしも不治の病で死を迎える場面に瀕した場合、この私ならば延命治療など一切せずに、その「死」を自然な形で受け入れたいと考えている。下手にみっともない“命乞い”など恥ずかしい思いすら漂う。
私の場合、既に「癌」に罹患して闘病生活を経験しているのだが、その時とて同じ思いだった。ただただ、産んでまもない我が子をこの世に残しておくことのみが気がかりではあったが、それでも自分に“与えられた命の長さ”を受け入れる覚悟はその時から確固としてあった。 いつ死んでも「いい人生だった」と思いながらこの世を去りたい私は、その時40歳にして既にその域に達観していたとも言えるのだ。
ましてや人様の“脳死後の臓器”を頂戴してまで生き延びようなどという発想は、この私にはまったくないと言い切れる。
自分の命はともかく、それよりも貴い我が子の命を守り抜きたい親心は、同じ子を持つこの私にも理解可能ではある。
親御さんご自身の経済力で子どもの命を守るために海外へ「臓器移植」に出かけるのならば、それは自由になさったらよいかと私は捉える。
ところが子どもの臓器移植の実態と言えば、“他人様”よりの何千万、何億円もの“募金”に頼って“他人様”の臓器提供を受けようとしているのがその現状のようだ。
実は我が子が小学生時代に、その小学校に所縁のある子どもが海外で「臓器移植」を受けることになり、その募金が半ば強制で全家庭に課せられたことがある。協力をしたものの、正直なところ大いなる違和感を抱いたものだ。 (その後、その子どもは集まった募金で手術を受けたのか、その後の予後はどうなのか等の事後報告が一切ないまま年月が流れている。)
7月13日に参議院本会議で可決・成立した、「脳死は人の死」を前提とした0歳からの臓器提供を我が国内においても可能にする“改正臓器移植法”に関しては、賛否両論の見解が交錯している。
年齢制限の撤廃を強く求めてきた「臓器提供」を欲する子どもを持つ家族や支援者が胸をなでおろす一方、脳死に近い状態が続く子の成長を見守っている子どもを持つ家族は「娘に死亡宣告されたよう」だと、肩を落としている。
朝日新聞7月13日の報道によると、生後2ヶ月から「脳死に近い」状態にある遥(はるか)ちゃんは、心肺停止状態で脳細胞のほとんどが死んでいる状態にもかかわらず、2歳になっている現在、人工呼吸器と栄養補給のチューブをつけて眠りつつも、ベッドの上で“成長”し続けている。そんな遥ちゃんの両親は、遥ちゃんが“確かに生きている”姿に日々目を細め成長を喜んでおられる。
そんなご両親が「(早く遥ちゃんの脳死を認めて)『臓器提供して他の子を助けてあげればいい』という雰囲気が世の中で強くなっていくのがこわい」と切実に訴えている現実が私にも身に滲みる程、今回の臓器移植案改正・成立の“怖さ”がある…
話がこと子どもにまで及ぶと、断言がし辛くなるのが「臓器移植」問題の厄介なところではあるが、やはりこの問題は子どもの「臓器提供側」の“親の心理”こそが尊重されるべきではなかったのかと私は捉えるのだ。
科学の目覚ましい発展は“人の倫理観とのせめぎ合い”をもたらした。
さらに時代が突き進み、人の“倫理観”と“エゴ”との境界線の判定さえも困難にまで成り下がった現在における「子どもの脳死」法改正の可決・成立を、皆さんはどのように受け止めているのであろうか。
それにしても、いつをもって“人の死”とするかについて法的に喧々諤々議論した上で、幼き子どもの命までをもここからが「死」である、と法改正して“線引き”しようとすること自体に、現代社会の歪みを実感させられ戸惑いが隠せない私である。
当ブログで再三述べてきているが、私は病院嫌いであり、薬嫌いであり、健診嫌いである。
一応元医学関係者であるにもかかわらず、なぜそれ程までに“医療”を毛嫌いしているのか不可解に思われる方も多いであろう。 だが、むしろ、元医学関係者であるからこそ、私の“医療嫌い”には(多少の思考的偏りは認めつつも)それなりの確固としたポリシーがあるとも言えるのだ。
まずは、生命体の自然治癒力を信じたい。
現在の医療が「薬」「検査」等の“科学”の力に頼り過ぎているのは否めない事実であろう。 体のどこかに不調を来たすと、現代人は深い思慮なく直ぐに病院へ行ったり薬を買い求めて飲んだりの行動を起こすのが通常である。 その「薬」や「検査」により受ける体内の新たなダメージにまで思いを馳せる人は恐らく少数派であろう。 自然治癒で回復する不調の場合は、科学の力ではなく自らの生命力で治した方が安全性が高いに決まっている。
ただし、通常は自然回復するかどうかの判断が自力ではつきにくいため、念のために病院受診や薬を買う手段に頼らざるを得ないのであろうことは私も想像がつく。 あるいは一時的に症状を抑えたり、とりあえず“痛み”のみを取り除く目的で、副作用等の危険性を覚悟の上で投薬に頼る場合も多いことであろう。
この“医療行為”の究極が「臓器移植」であるように私は捉えている。 この「臓器移植」という医療行為が出現して以降、「脳死問題」が表面化したのは皆さんもご承知の通りである。
「臓器移植」を語る上で、「死生観」観念ははずせない課題であると私は捉える。
当ブログのバックナンバー「健康の基準と死生観」においても記述済みであるが、もしも不治の病で死を迎える場面に瀕した場合、この私ならば延命治療など一切せずに、その「死」を自然な形で受け入れたいと考えている。下手にみっともない“命乞い”など恥ずかしい思いすら漂う。
私の場合、既に「癌」に罹患して闘病生活を経験しているのだが、その時とて同じ思いだった。ただただ、産んでまもない我が子をこの世に残しておくことのみが気がかりではあったが、それでも自分に“与えられた命の長さ”を受け入れる覚悟はその時から確固としてあった。 いつ死んでも「いい人生だった」と思いながらこの世を去りたい私は、その時40歳にして既にその域に達観していたとも言えるのだ。
ましてや人様の“脳死後の臓器”を頂戴してまで生き延びようなどという発想は、この私にはまったくないと言い切れる。
自分の命はともかく、それよりも貴い我が子の命を守り抜きたい親心は、同じ子を持つこの私にも理解可能ではある。
親御さんご自身の経済力で子どもの命を守るために海外へ「臓器移植」に出かけるのならば、それは自由になさったらよいかと私は捉える。
ところが子どもの臓器移植の実態と言えば、“他人様”よりの何千万、何億円もの“募金”に頼って“他人様”の臓器提供を受けようとしているのがその現状のようだ。
実は我が子が小学生時代に、その小学校に所縁のある子どもが海外で「臓器移植」を受けることになり、その募金が半ば強制で全家庭に課せられたことがある。協力をしたものの、正直なところ大いなる違和感を抱いたものだ。 (その後、その子どもは集まった募金で手術を受けたのか、その後の予後はどうなのか等の事後報告が一切ないまま年月が流れている。)
7月13日に参議院本会議で可決・成立した、「脳死は人の死」を前提とした0歳からの臓器提供を我が国内においても可能にする“改正臓器移植法”に関しては、賛否両論の見解が交錯している。
年齢制限の撤廃を強く求めてきた「臓器提供」を欲する子どもを持つ家族や支援者が胸をなでおろす一方、脳死に近い状態が続く子の成長を見守っている子どもを持つ家族は「娘に死亡宣告されたよう」だと、肩を落としている。
朝日新聞7月13日の報道によると、生後2ヶ月から「脳死に近い」状態にある遥(はるか)ちゃんは、心肺停止状態で脳細胞のほとんどが死んでいる状態にもかかわらず、2歳になっている現在、人工呼吸器と栄養補給のチューブをつけて眠りつつも、ベッドの上で“成長”し続けている。そんな遥ちゃんの両親は、遥ちゃんが“確かに生きている”姿に日々目を細め成長を喜んでおられる。
そんなご両親が「(早く遥ちゃんの脳死を認めて)『臓器提供して他の子を助けてあげればいい』という雰囲気が世の中で強くなっていくのがこわい」と切実に訴えている現実が私にも身に滲みる程、今回の臓器移植案改正・成立の“怖さ”がある…
話がこと子どもにまで及ぶと、断言がし辛くなるのが「臓器移植」問題の厄介なところではあるが、やはりこの問題は子どもの「臓器提供側」の“親の心理”こそが尊重されるべきではなかったのかと私は捉えるのだ。
科学の目覚ましい発展は“人の倫理観とのせめぎ合い”をもたらした。
さらに時代が突き進み、人の“倫理観”と“エゴ”との境界線の判定さえも困難にまで成り下がった現在における「子どもの脳死」法改正の可決・成立を、皆さんはどのように受け止めているのであろうか。