原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“濡れ衣”は水に流そう…

2009年05月07日 | 人間関係
 今日は連休中に経験したちょっと不愉快な出来事について、皆さんに聞いていただくことにしよう。


 都会の女子トイレとはいつ何時も大抵の場所で混雑していて、長蛇の列が出来ているのが見慣れた光景である。
 あるターミナル駅の女子トイレに立ち寄ろうとしたところ、やはり例外ではなくトイレの外の通路まで長蛇の列である。待つこと数分、中に入ってみると、どうやら混雑のためか使用後の水の流れが悪いようである。 小用を足した後、レバーを何度か操作しても水が流れ切らない。 やむを得ずそのまま個室から退室した私であるが、次に待っていた“おばさん”(恐らく、私よりも若い女性と思われるが)から大目玉を食らった。
 「ちょっと、あんた!! ちゃんと流して行きなさいよ!!!」

 (ひえ~~~、 怖いなあ~~)と思いつつ、「流れが悪いようですよ…」と消え入りそうな声で弁解するのが精一杯の私であった。

 こういう「事件」を“濡れ衣”すなわち“無実の罪を着せられた”、とまで言うと少しニュアンスがズレるのかもしれないが、人間長年生きていると結構遭遇する出来事である。

 この種の出来事とは“誰が悪い”という判断が難しい事象ではあるが、責められた当人としては大いに後味が悪いものである。その日は後々まで不快感を引きずり、暗く過ごしてしまったものだ…


 以前にも、似たような経験がある。
 子どもの幼稚園の入園式で、入学手続きのため親子で順番待ちの列を作って並ぶことになった。列が2列出来ていて(そのように私の目には見えた)、当然ながら短い方の列に並んだところ、長い方の列の後方にいた父親らしき男性から、
「おい! そこの親子!! ズルをしないでちゃんと並べよ!!!」
 と大声で罵声を浴びせられてしまった。
 とっさに訳がわからない私であったが、どうやら我々親子が責められているようだ。状況をよく把握できないでその罵声に不服感を抱いたまま、長い列の最後尾に並び変えたのであるが、何で我々親子が非難されねばならぬのか、やはり納得できない。
 その後後方から状況を観察していると、どうも列からはみ出して子供達が動き回って遊んだり、それを放ったらかして井戸端会議に夢中の親同士のグループが列を大幅に乱していて、後から来た私には一見2列あるように見えたようである。

 こういう場面において、落ち度のない人間が悪者に仕立て上げられてしまうことは、至って不本意なものだ。かと言ってどこかに対して異議申し立てを出来るという程の大袈裟な事象でもなく、罵声を浴びせられた本人が不快感を心中に溜め込んで悶々とするしか手立てはない。


 逆の立場のような場に出くわすこともある。
 そのような場に居合わせても、客観的状況判断を常に心がけている(?)私は、決して、決して、その人物を責めたりはしない。 だが残念ながら、自分の感情に任せて大声で責め倒す“単細胞”人間とはやはり世に存在するものである。(前記事の続きになるけど、「体罰」教師の気質などこれに近いんじゃないの?)
 例えば高齢のお年寄りが銀行のATMを使用しようとして、順番待ちをわきまえない場合がある。これにイラついた順番待ちの顧客から、そのお年寄りに対して非難の大声が投げつけられることがたまにある。 これは、端で見ていて痛々しい限りである。 フロアに配置している顧客担当係が滞りなくそのお年寄りの適切な誘導を成すべきであろう。

  
 以上のような周囲からの“濡れ衣”を回避するためには、まずは状況判断力を身に付けるべきかと考える。
 例えば、上記の私の幼稚園での順番待ちの列の例のような場合は、周囲の状況を十分に観察して並ぶことにより、他者からの罵声による痛手は回避できる。

 ただ冒頭のトイレの例のように、使用した後でないと効果が分からない事態においては、状況判断力どうのこうのの問題ではない。
 こういう場合、他者から責められてもやむを得ないと諦め、非難された本人がストレスを溜め込むしか打つ手はないのだろうか?


 それにしても“濡れ衣”による不快感を後々引きずることは、精神衛生上、人間誰しも回避したいものである。
 (えっ? そんなくだらない事をいつまでも根に持ってないで、これからも内容の濃い「原左都子エッセイ集」を綴る事に精進しつつ、根本的な部分で心を発散したらどうか、ですって??)
     
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