原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

次の女が出来た、だと!?

2008年12月12日 | 恋愛・男女関係
 恋愛関連の記事が続くが、今回は前回の記事「失恋の痛み」の続編とでも言おうか、“別れ”を違った角度から考察した記事を綴ってみることにしよう。


 前回の記事において、失恋で心がズタズタになった21歳の女子大学生の相談を取り上げた。 その失恋相談の内容というのが、交際相手の男性から突然「好きな人が出来たから別れて欲しい」と伝えられ、トンカチで頭を殴られた気分。彼にひどいことをされて、心はズタズタ、涙しか流れない、というものであった。

 今回の私の記事の表題に掲げた「次の女が出来た」と「好きな人が出来た」とではややニュアンスが異なるかもしれないが、それにしてもこの相談女子大学生の交際相手の男の“アホさ加減”に呆れるのは私だけであろうか。
 それとも今の若い人たちの間では、恋愛の終焉時に「好きな人が出来た」だとか「次の女が出来た」から別れる、というような短絡的な言葉が当たり前のごとく相手に対して平然と発せられているのであろうか。

 たとえば、散々すったもんだした挙句の喧嘩別れのような場合、その場の勢いで上記のような直接的な言葉を浴びせてしまうこともあり得るかもしれない。だが、この相談例の場合そうではなさそうだ。直前まで二人の関係はうまく行っていたらしいのに、まったく突然の発言であったようだ。女子大学生が訴えているように、この別れ方は“ひどい”としか言いようがない。それともこういう別れ方は、今の若い世代の人々にとっては“後腐れ”のない別れの一手段であるのだろうか。


 別れ方にも礼儀あり、ではないのだろうか。

 それ以前の問題として、そもそもこういう短絡的な別れ方をもたらす付き合いとは、どれだけお互いに踏み込めているのか、二人の間に真の恋愛関係が築かれていたのか、という疑問も湧いてくる。


 私事になるが、私の過去の長い独身時代の数多い恋愛遍歴 (いつもこればかり引き合いに出してスミマセン…) に伴う“別れ”においては、相手からこういう類の言葉を投げかけられたことは一度もない。 真実は知らないよ。もしかしたら相手に“次の女”や“好きな女”がいた事例もあったのかもしれない。だが、少なくとも私はその事実を知らずして相手と別れている。
 もし仮に相手に“次の女”や“好きな女”がいたにもかかわらず、相手からその話題が出なかったのにはいろいろな理由が考えられる。 相手の私に対する配慮だったのかもしれない。 あるいは“次の女”が出来たことよりも私と別れたい気持ちの方が決定的だったため、別れる理由として“次の女”の話を持ち出す必要性がなかったということも考えられる。 そうだとすれば、その“別れ”は辛くとも納得できる話である。
 逆の立場を思い浮かべてみても、私から「次の男が出来たから別れる」などと切り出したこともない。 それに近い状況はなくはなかったかな?? ただ、恋愛相手との別れとは、“次の男”が出来たせいでは決してない。元の恋愛相手との関係にひびが入りギクシャクしている隙間に“次の男”が徐々に顔を出してくることはあったかもしれない。だが、恋愛相手との別れが早かれ遅かれ訪れる必然性は“次の男”の出現の有無にかかわらず元より存在していたものと思われる。


 もしも、今の若い世代の人々の間で「次の女(男)が出来た」「好きな人が出来た」ことが“別れ”の理由として一般化していて、この言葉が相手に公然と告げられているとするならば、これもやはり“人間関係の希薄化”の一現象であると捉えられるのではなかろうか。

 恋愛とは、1対1の深い人間関係である。そのような至って親密であるはずの人間関係の終焉時の言葉が、これほどまでに軽薄化した時代と社会を寂しく感じる私でもある。
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