(写真は、“青山ユニマット美術館”の「シャガールとエコール・ド・パリコレクション」のチラシの一部)
先だっての12月25日、冬休み中の子どもと一緒に東京の“青山ユニマット美術館”へ出かけた。
上記美術館では09年1月13日まで「シャガールとエコール・ド・パリコレクション」展を開催中なのだが、20世紀最大の巨匠と言われているマルク・シャガールの作品25点をはじめ、モリディアニ、藤田嗣治、ユトリロなどのエコール・ド・パリの作品も常設展示されている。
シャガールは赤、黄、青等原色の色彩使いと、猫、鳥、牛等の動物を多用しているのが特徴的な画家であるようだ。(写真のチラシの左上がシャガールの作品「ブルーコンサート」)
藤田嗣治は“白”の微妙な色使いが特徴的な画家であるが、展示されている数枚の作品すべてにおいてそれぞれにこの微妙な“白”が表現されていた。(写真のチラシの右下が藤田嗣治の作品「バラ」)
その他、面長の肖像画が特徴的なモリディアニ(写真下段右から2番目「褐色の髪の少女」や、ローランサン(写真左下「チューリップと女性」)の淡く柔らかい雰囲気も印象的である。
なかなかの名作揃いで、私のような素人にも飽きることなく楽しめる美術館である。現在油絵を習っている中学生の娘も、私よりも時間をかけて絵画の巨匠達の作品を見入っている様子だった。
ところで今回の美術館での絵画鑑賞において、ド素人の私が気付いたことがある。
この年の瀬に相応しくない話題で恐縮なのだが、それは展示されている作品の中の裸婦像のすべてに“ヘアがない”ことだ。
例えば、写真の下段左から2番目キスリングによる「長椅子の裸婦」など、裸体が輝けるように美しく描かれた作品であるが、ご覧のように“ヘア”がない。
この美術館には裸婦を描いた作品が数多く展示されている。例えば、シャガールの「赤い裸婦」「白い裸婦」、藤田嗣治の「2人の裸婦」「横たわる裸婦」「裸婦像長い髪のユキ」、ナルシスヴィルジル「キューピッドと戯れるヴィーナス」、ルノワール「横たわる裸婦」、カバネル「ヴィーナスの誕生」……
これらのすべてにおいてヘアがない!!
私がこの“裸婦にヘアがない!”事態になぜそれ程興味を抱いたのかについて、ここで正直に話そう。
先だって訪れたインドのお土産として「カーマースートラ」の日本語版絵本を購入したのだが、これによると「毛を取り除いて清潔にすると女性は愛するのはますます喜んでいる」(日本語版原文のまま引用)とある。それが印象的だったためだ。
これらの裸婦はどういう状況で描かれたのであろう。単なるモデルなのか、それとも…。 私個人的には“愛”を一身に浴びながら描かれた裸婦を見たい気もするのだ。
そこで私は某男性画家の方に、今回のコレクション展における裸婦像になぜ“ヘア”がないのか、果敢にも尋ねてみた。
私の無謀な質問に対し、ありがたくも頂いた回答は以下の通りである。
クールベ(フランス写実主義の画家、1819~1877)以降はあるべきところに描くようになったが、ヘアとは目立つものだ。色の白い肌に一箇所だけ黒々と描いたのではそこだけ強調し過ぎるようにも思える。 描く側からすれば、ヘアがない方が卑猥感が消えるかも知れないし素敵に描けるかもしれない。せっかく綺麗に仕上げていったヌードもビーナスの丘を黒々と塗りつぶすと味も素っ気もなくなる。かと言って、描かないと…。 北斎の絵のようにヘアを1本ずつ丁寧に書き上げると大変な労力がいるし…、等々で“ヘア”とは難しい存在だ。 存在を保持するために黒々しているのかもしれないな…。
芸術とは素人には計り知れない程、奥深いことを再認識である。
先だっての12月25日、冬休み中の子どもと一緒に東京の“青山ユニマット美術館”へ出かけた。
上記美術館では09年1月13日まで「シャガールとエコール・ド・パリコレクション」展を開催中なのだが、20世紀最大の巨匠と言われているマルク・シャガールの作品25点をはじめ、モリディアニ、藤田嗣治、ユトリロなどのエコール・ド・パリの作品も常設展示されている。
シャガールは赤、黄、青等原色の色彩使いと、猫、鳥、牛等の動物を多用しているのが特徴的な画家であるようだ。(写真のチラシの左上がシャガールの作品「ブルーコンサート」)
藤田嗣治は“白”の微妙な色使いが特徴的な画家であるが、展示されている数枚の作品すべてにおいてそれぞれにこの微妙な“白”が表現されていた。(写真のチラシの右下が藤田嗣治の作品「バラ」)
その他、面長の肖像画が特徴的なモリディアニ(写真下段右から2番目「褐色の髪の少女」や、ローランサン(写真左下「チューリップと女性」)の淡く柔らかい雰囲気も印象的である。
なかなかの名作揃いで、私のような素人にも飽きることなく楽しめる美術館である。現在油絵を習っている中学生の娘も、私よりも時間をかけて絵画の巨匠達の作品を見入っている様子だった。
ところで今回の美術館での絵画鑑賞において、ド素人の私が気付いたことがある。
この年の瀬に相応しくない話題で恐縮なのだが、それは展示されている作品の中の裸婦像のすべてに“ヘアがない”ことだ。
例えば、写真の下段左から2番目キスリングによる「長椅子の裸婦」など、裸体が輝けるように美しく描かれた作品であるが、ご覧のように“ヘア”がない。
この美術館には裸婦を描いた作品が数多く展示されている。例えば、シャガールの「赤い裸婦」「白い裸婦」、藤田嗣治の「2人の裸婦」「横たわる裸婦」「裸婦像長い髪のユキ」、ナルシスヴィルジル「キューピッドと戯れるヴィーナス」、ルノワール「横たわる裸婦」、カバネル「ヴィーナスの誕生」……
これらのすべてにおいてヘアがない!!
私がこの“裸婦にヘアがない!”事態になぜそれ程興味を抱いたのかについて、ここで正直に話そう。
先だって訪れたインドのお土産として「カーマースートラ」の日本語版絵本を購入したのだが、これによると「毛を取り除いて清潔にすると女性は愛するのはますます喜んでいる」(日本語版原文のまま引用)とある。それが印象的だったためだ。
これらの裸婦はどういう状況で描かれたのであろう。単なるモデルなのか、それとも…。 私個人的には“愛”を一身に浴びながら描かれた裸婦を見たい気もするのだ。
そこで私は某男性画家の方に、今回のコレクション展における裸婦像になぜ“ヘア”がないのか、果敢にも尋ねてみた。
私の無謀な質問に対し、ありがたくも頂いた回答は以下の通りである。
クールベ(フランス写実主義の画家、1819~1877)以降はあるべきところに描くようになったが、ヘアとは目立つものだ。色の白い肌に一箇所だけ黒々と描いたのではそこだけ強調し過ぎるようにも思える。 描く側からすれば、ヘアがない方が卑猥感が消えるかも知れないし素敵に描けるかもしれない。せっかく綺麗に仕上げていったヌードもビーナスの丘を黒々と塗りつぶすと味も素っ気もなくなる。かと言って、描かないと…。 北斎の絵のようにヘアを1本ずつ丁寧に書き上げると大変な労力がいるし…、等々で“ヘア”とは難しい存在だ。 存在を保持するために黒々しているのかもしれないな…。
芸術とは素人には計り知れない程、奥深いことを再認識である。